私が今の職場――天国法律事務所に来て、半年ほど経とうとしていた。
天国先生はとても有名な弁護士らしく、毎日のように仕事が舞い込んできて忙しい日々を送っている。とはいえ相応のお給料は頂いているし、人間関係も良好で、なかなか良いところに就職できたと思う。
前職のパワハラ上司と違って、天国先生は厳しいながらも理不尽なことは言わないし。事務所の人たちからも獄さんなんて呼ばれてとても慕われているのが分かる。
「名字、この間頼んだ資料なんだが」
「あ、はい!」
パソコンに向かっていると不意に天国先生に声を掛けられ、慌てて振り返る。いつもなら顔を顰める煙草の匂いも、天国先生のものだと思うと途端に平気になるのはどうしてだろう。
「あの、何点か確認をお願いしたくて……」
私がそう言うと、天国先生は身を屈めてパソコンのモニターを覗き込んでくる。突然すぐ隣に天国先生の顔が近付いてきて、思わず息を呑んだ。
それから必死で資料の説明をしていた気はするんだけれど、正直ほとんど記憶がない。
「ん、よくできてるな。半年でここまでできたら大したもんだ」
「っあ、ありがとうございます!」
本当に理想の上司だ……いや、上司っていうか代表なんだけど……。
ポン、と頭を撫でてもセクハラで訴えられないのは天国先生の人徳のなせる技だ。まあ、訴えても返り討ちにされるからというのもある。
最後にもうひとつ訊きたいことがあって声を掛けようとすると、先輩が少し離れたところから「すみません、獄さん!」と天国先生を呼んだ。
ま、待って待って、あとちょっとだけ――振り返って行ってしまいそうになる天国先生の服の袖を軽く握り引き留める。
「獄さ、――あっ」
や……やらかした……事務所の人たち、みんな獄さんって呼ぶから……。
ぴしりと固まり色を失う私を、天国先生はきょとんと見つめたあと、フッと微笑んでまたポンポンと頭を撫でてきた。
「獄サンでいいぞ」
「っえ、あ、ごめんなさ、」
「だからいいっつってんだろ、むしろ半年なら頑張ったほうだ」
ここにいたらすぐ感染るからな、と言いながらも、どこか嬉しそうに見えるのは私の気のせいだろうか。
「獄さん……」
「ん、あとで戻ってくるからちょっと待ってろ」
呆然としながら名前を呼ぶ私にそう言い残して、獄さんは先輩のもとへ向かっていった。
撫でられた頭がじわじわと熱を持つ。思わず両手で覆って、そのポーズのあまりの間抜けさに慌てて手を下ろした。
……もしかして私は、とんでもない職場に就職してしまったのではないだろうか。
Fin.