三日ぶりに帰宅した俺をベッドで出迎えたのは、愛しい愛しい名前――ではなく、大きな猫のぬいぐるみだった。名前がいないのは当然だ。今は平日の真っ昼間。
荷解きをしたりシャワーを浴びたりして寝室に戻ってきても、ぬいぐるみはじっとベッドに横たわっていた。当たり前やけど。動いてたら怖いわ。
ご丁寧に肉球まで作り込まれた前足を掴んで持ち上げると、呑気な糸目がこちらを見上げる。
(このぬいぐるみ、どっかで見たこと……あ、俺があげたやつやん)
いつか通りかかった雑貨屋で、名前が俺に似ていると言ったから。ほな俺と思って可愛がってや、なんて言って押し付けるようにプレゼントしたのだ。ずいぶん久しぶりに姿を見た気がする。相変わらず、どの辺りが俺と似ているのかは分からない。
くるくるとひっくり返して観察していると、不意に嗅ぎ慣れたシャンプーの香りがした。どこから、と思ってすんすんと鼻から空気を取り込んでみると、手元のぬいぐるみからで。
「……おまえ、えらい名前と仲いいみたいやな」
間抜けな顔をした猫の腹に顔を埋めると、確かに名前の匂いがする。人がいない間に、たいそう名前に可愛がられていたようだ。そんなことを考えた途端、そのアホ面になんだか煽られているような気持ちになってしまうので男というものはたいがい馬鹿だと思う。
しかし、俺が家を出た日には少なくとも目につく場所にはいなかったはずだが、掃除でもして出てきたのだろうか。それにしては埃っぽさが感じられない。それどころか、定期的に天日干しでもされていそうなほどふかふかなのだ。何やおまえ、と恨みがましく呟いてみても、当然返事はない。
* * *
疲れが溜まっていたのか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓辺に置かれた植木鉢から伸びる影がやけに長く、もう日没が近いのだと悟った。
「おかえり、簓」
鞄を持ったまま、今まさに帰ってきたばかりという出で立ちの名前がこちらを覗き込みながら優しく声を掛けてくる。
「ただいま……名前もおかえり」
「ただいま」
久しぶりに見た名前の姿に、思わず布団の中から腕を伸ばせば「まだ手も洗ってないからアカン」と言って逃げられた。ふてくされながらも布団から這い出ると、俺にくっついて一緒に出てくる影がもうひとつ。
「え、簓それ、」
ごろんと床に転がり落ちそうになったところを慌てて受け止めると、それを見た#nameは目を丸くしてぴしりと固まった。
「ん?あー、これどこに隠しとったん?帰ってきたらえらい懐かしいのおったわ」
「おったって……」
「普通にベッドの上におったけど……?」
ぬいぐるみの姿を見るなり、名前はさっと色を失った。まるで俺には見られたくなかったみたいだ。
……なんでや?俺がプレゼントしたんやから隠す必要はないやんな?
「あ、俺が一緒に寝てもうたん、そんな嫌やった!?シャワー浴びたばっかりやったから臭くはないと思うんやけど、」
「そっ、そんなこと言わへんやん!何でもないから、そのへん置いとって」
どう見ても何でもないリアクションではないのに、名前はそんなふうに言って踵を返した。俺も慌てて立ち上がり、ぬいぐるみを抱えたまま名前の後を追う。
「なぁ、どないしたん?これ見られたら何か困るん?」
「困るわけないやろ、簓に貰ったんやから」
おそらく手を洗うため洗面所へ向かいながら、名前は振り返りもせず答える。
名前が手を洗ってうがいをするのを後ろでじいと待っていると、洗面所の鏡にぬいぐるみを両手で抱えた自分の姿が映った。なんだか馬鹿みたいな絵面だ。
「ちょっと、それいつまで持ってんの」
「名前が質問に答えてくれるまで」
鏡越しに、名前がじとっとした視線を送ってきた。
「……こいつ、やたら名前の匂いするんやけど」
「は?わざわざ嗅いだん?」
「わざわざ嗅ぐまでもなく匂いしてきてんもん」
今度はリビングへ向かって歩き出す名前の後を追う。冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出しつつソファーに座る名前の隣に俺も腰を下ろした。すると名前は、半ば無理やり俺の腕からぬいぐるみを奪い取る。むす、と口を尖らせた名前の腕の中で腹立たしい間抜け面がこちらを見上げていた。
ホンマに、これのどこが俺に似てんねん……なんて考えて、一瞬思考が止まる。すっかり匂いが移るほど、きっと今のような格好で抱き締められ続けた、俺に似ているというぬいぐるみ。泊まりのロケ。慌てる名前。点と点が細い線で繋がり始めた。
……え、もしこれで
合うてたら、今の名前の絵面めっちゃ可愛いねんけど。
じいと様子を窺う俺を、名前が怪訝そうに見つめ返す。
「……なあ」
「なに」
「それってもしかして俺の代わりなん?」
努めて自然に、何気ない感じで言うと、名前はぱちりと大きな瞬きをして固まった。分かりやす。
いよいよ口角が上がるのを抑えられなくなった俺を、名前はじろりと睨みつけるが、そんな赤い顔で睨まれたところでただただ可愛らしいだけでしかない。
「最初っからそない言うたらええのに!」
がば、と勢いよくぬいぐるみごと抱き締めると、名前はまた唇を尖らせた。
「何も言うてないし」
「顔に全部書いてるやん」
「うるさい、ご飯する、離して」
「嫌や、俺は名前と
違うて代わりおらへんかったから名前不足やねん」
離して、と言うわりにほとんど抵抗しない名前の首筋に顔を埋め、バレない程度にすうと息を吸い込む。ぬいぐるみ経由じゃない、三日ぶりのそれはあまりにも刺激が強かった。
「……私だって足りひん」
蚊の鳴くような声でぽつりと呟かれた言葉を脳が理解する前に、名前の腕が背中に回って、ぎゅっと俺を抱き締めた。行き場を失ったぬいぐるみが、ごろんと床に転がり落ちる。
「やっぱり本物がええ」
耳元で囁く名前の顔は見えない、が、こんな可愛いことを言われて、そらどうもで済ませては男が廃る。
顔を埋めていた首筋にそのままちゅうと吸い付くと、名前は「わぁ!?」と色気の欠片もない声を上げながら身を捩った。
「何すんの!」
「名前が可愛いこと言うから」
「意味分からへん!」
今度こそじたばたと抵抗を始める名前を押さえ込むように抱き締めて、そのままずるずるとソファーに倒れ込む。
「なあ、本物の簓サン帰ってきたんやから偽物とは交代やろ?」
「偽物とか言わんとって、一緒に寝ててもスケベなことせえへんし、しょうもないギャグも言わへんし、寝相も悪くない可愛い簓くんや」
「おまえなぁ……」
生意気なことを言う口を塞がんと顔を近付けると、名前は逃げるようにぷいと顔をそらした。
む、と唇を尖らせていると、ちらりとこちらを向いた名前が不意に俺の両頬に手を伸ばし、じいとこちらを見つめたかと思うと、触れたか触れていないか分からないほどの軽い軽い口付けをして、再び俺から離れていった。
「ぬいぐるみにはせえへんで」
「っあ、当たり前やろ!」
悪戯が成功した子供みたいに、名前はにいと口角を上げる。そんなふうに見つめられると、嫌でも顔に熱が集まるのが分かって、絶対に赤くなっているそれを隠すため、名前の胸元に額を押し付けた。
「ほら、すぐそういうことする」
「これはちゃうやんか……」
いつの間にかすっかり形勢逆転してしまったようで、余裕のできた名前の含み笑いが頭上から聞こえてくる。なんとなく面白くなくて、つ、と腰の輪郭を撫ぜてやると、名前は声こそ上げなかったもののびくりと身体を跳ねさせた。
「……あー、俺も名前に似てるぬいぐるみ探してロケ連れて行こかな」
文句を言われる前に先に口を開いた。顔を上げて名前の表情を窺うと、きょとんとした顔で俺を見ていたが、少しすると何故だか眉間に皺を寄せる。気持ち悪いとか言われるんかな、なんて身構えていると、名前は小さな声で、
「……なんか嫌」
「ハイハイ、気色悪いって?」
「そうやなくて……」
うーん、と唸りながら名前は言葉を絞り出す。
「浮気やろ」
「どの口が言うとんねん」
至極真剣な顔をして言うものだからキレの悪いツッコミしかできなかった。ここはずっこけるくらいしたかったとこやな。
「簓はホテルとかやからええやん……私はここで何もかもいつも通りやのに、簓だけおらへん」
……え、何やこれ。俺もしかしてまだ寝てんちゃう?名前が死ぬほど可愛いこと言うてる気がする。
しゅんと眉尻を下げた名前と目があったかと思うと、ふいと顔をそらされた。
「もっかい言うてくれへん?」
「言うわけないやろ、アホっ」
ぐ、と名前の拳が横腹に食い込む。照れ隠しにしては力がこもっていた気がするのは、俺の考えすぎだということにしておこう。
「ごめんな、今度からはもっと電話するな」
「いや、それはもう十分やからいらん……」
そう言う名前の声はすっかり呆れたようだったが、ふにゃと綻んだ表情は帰ってきてから一番幸せそうだった。
Fin.