悪魔の囁き

名前は、真面目で責任感が強くて、だからそんな言葉が出てくるのは、少なくとも俺が名前と出会ってからは初めてだった。

「あー、もう仕事辞めたい……」

帰ってくるなりダイニングテーブルに突っ伏して名前が呟いた言葉に、俺はぴしりと固まった。その日は俺が先に帰っていたから、おかえり、と出迎えた名前の上着をハンガーに掛けていた、その途中で。

「ど、どないしたん?何かあったん?」

動揺からかハンガーをフックに掛けるのを何度か失敗した。慌てて名前のそばへ駆け寄るも、名前は顔を伏せたまま微動だにしない。

「……いや、別に……ちょっと嫌なことあっただけ。ホンマに辞めたりせんから大丈夫」

「名前がそこまで言うん絶対大丈夫ちゃうやん」

何があったん、と詰め寄るのは簡単だ。しかし名前の場合は却って追い詰めてしまいそうな気がした。いや、名前も、か。

「……辞めたらええやん」

丸まった背中を撫でながらぽつりと呟くと、名前は顔だけこちらを向いて、ふ、と息を漏らして笑った。

「もー、簡単に言う」

「ええやん……辞めて、俺のお嫁さんなったらええやん」

「……は?」

こちらを見て細められていた名前の目がぱちりと開いた。睫毛が何度も上下する。背中を撫でていた手をするりと名前の頭に移動させて、乱れた髪を整えるように梳く。

「俺、名前ひとりくらい余裕で養えるし、名前が毎日おかえりーって言うてくれるんやったら今の倍でも頑張れんで」

名前の丸い目は俺を捉えたままじっと動かない。返事もない。結構恥ずかしいこと言うたのに、と視線を逸らしてもなお、熱い眼差しをひしひしと肌に感じる。

「……やめてよ」

「え」

再びテーブルに突っ伏した名前からようやく返ってきた反応に今度は俺が固まった。ちょっと、いやだいぶプロポーズみたいなこと言うてもうたな、とか思ってたんやけど――え、やめてって言うた?

「そんなん言われたら、明日には退職届出してまう」

髪の隙間から覗く耳が赤い。けれど、たぶん俺のそれはもっと赤い。何やこの色気のないプロポーズ。夜景の綺麗なレストランとか、あるいはハルカスとか、通天閣とか、定番のところも俺ららしいところも色々検討していたはずなのに。

「退職届も婚姻届も出す?」

「もうっ、ちょっとは雰囲気とかないん!?」

ガバッと突然起き上がった名前はそのまま俺の胸に飛び込むように頭突きをかましてきたので、表情は全く見えなかった。うう、とかなんとか呻き声を上げていたので、いつもより熱い身体に腕を回す。

「俺もこんなプロポーズ嫌やわ、もっかいやろ」

「もっかいってどこから?ていうか今日はもうええわ」

「どうもありがとうございましたー」

条件反射で出てきた台詞を合図に、名前の拳がみぞおちを襲った。全然痛くないやつやけど。

「……なんか全部どうでもよくなってきた、お風呂入る」

「ええ、俺と結婚すんのもどうでもええの?」

「言うてないやん」

もそもそと身体を離した名前はすっかりいつも通りだった。ついさっきまで、仕事辞めたい、なんて言っていたのが嘘みたいに。別にそれを狙って言ったことではなかったが、まあ、元気になったならよしとするか。

「いつでも仕事辞めてきてええんやで」

「辞めへんし……」

Fin.

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