来るんやったら朝飯
買うてきてー、って、それが朝イチに彼女に言うことか!
と思いつつ、真面目にコンビニに寄ってから盧笙の家へ向かう。おそらく全員二日酔いだろうから、食べやすそうなものと栄養ドリンクを大量に。
すっかり慣れた足取りで階段を上り、インターホンを押す。なんだかドアの向こうが騒がしかった。いつもより少し長い間のあと、ガチャガチャと音がしてドアが開けられると、何とも言えない表情をした盧笙が私を出迎える。
「おはよー……何その顔?二日酔い?」
「いや……まあ、それもあるんやけど……今日は帰ったほうがええかもしれん……」
「パシるだけパシっといて!?私の朝ご飯も入ってんの、
早よ上げて」
盧笙と話している間にも、部屋の奥からはずっと簓の声がしていた。寝起きの悪い簓が朝からこんなに騒がしいのは珍しい。何かあったのだろうか。
進路を塞ぐようにドアを押さえて立っていた盧笙を半ば無理やり押しのけて、ぱたぱたと廊下を進む。盧笙が後ろで「ちょお待て」とか「せめて話聞いてからにしろ」とか言っていたけれど、意味が分からないので無視だ。
リビングへ続くドアのノブに手をかけたところで、反対の手首を盧笙にぱしりと掴まれた。渋々と振り返ると、盧笙は相変わらずなんとも言えない苦々しい顔をして口をもごもごさせている。
「盧笙、ホンマにどないしたん?何かあったん?」
「いや、何があったか訊きたいんはこっちやねんけど……とりあえず、何見ても驚くな……は、無理か……とにかく落ち着け」
「落ち着いてへんのはそっちやろ……」
真剣な顔をしながらまるで意味の分からないことを言う盧笙に、こちらが心配になってしまう。簓だけでなく盧笙までおかしくなってしまったのか。
手首を掴む力がふと緩くなったので、そっと離して今度こそドアノブを回す。キイと音を立てて開いた扉の向こうには、少し皺の寄ったスーツを身にまとった簓がいて、また着替えんと寝たな、と思った。
「おはよー、簓、零さん」
ふたりがこちらに視線をやったのでそう挨拶すると、零さんはいつも通りに「おー、名前チャンおはよーさん」なんて言いながらひらりと片手を上げるから、私も軽く手を振って応える。一方、簓は何も言わずきょとんとこちらを見ていた。糸のような目をぱちぱちさせていて、珍しいな、なんて思う。
「簓、どうしたん……目開いてんで」
「はぁ?」
「えっ、何、機嫌悪っ」
少し怯んで、後ろにいた盧笙に視線をやると、盧笙はまた「あー……ちゃうねん……」と意味の分からない言葉を繰り返した。
その間に、ご機嫌ななめだと思われた簓がずんずんとこちらに近づいてきていた。背中を少し丸めて、こちらを覗き込む目がぱっちりと開かれているのはなんだか新鮮で、少しどきどきする。
「あ、おまえ名前じゃねえか?」
「は?何言うて……」
「なんで名前のこと知ってんねん」
「え、盧笙まで何言うてんの?」
ホンマに何?ショートコント記憶喪失?
怪訝な顔をして簓と盧笙を交互に何度も見ていると、盧笙は少し考え込んだあと、ぽんと私の肩に手を置いた。
「落ち着いて聞いてくれ……いま目の前におる簓の中には、ナゴヤの波羅夷空却くんが入っとる」
ショートコント入れ替わりだったらしい。
* * *
とりあえず状況を整理しようと、改めて全員でテーブルを囲んだ。いつもの癖で簓の隣に腰を下ろしてしまったが、中身は簓じゃないなら別に隣じゃなくてもよかったな、なんて思う。隣でもいいんだけど。
状況を整理する、といっても波羅夷くん曰く「起きたらこうなってた」らしいので、整理のしようもない。簓はどこ行ったんや、波羅夷くんの中ちゃうんか、じゃあナゴヤに行ってみるか、なんて口々に言いながら私が買ってきた朝ご飯を食べる。一刻も早く動いたほうがいいのではと思ったのだが、波羅夷くん本人が「腹が減っては戦はできぬだ」と言い出したので、ひとまず腹ごしらえをしている。
「そういえば、なんで私のこと知ってるん?」
隣にいるのはいつもと同じ簓の身体のはずなのに、波羅夷くんの表情の作り方の問題なのか、なんだかいつもよりキリッとしてて少し戸惑う、というか、カッコよくて目を合わせられない。だというのに、波羅夷くんは話しかければまっすぐこちらを見るものだから気まずくって仕方ない。
「簓と東都にいたころに何回もノロケ聞かされて写真も見せられたんだよ。まさかまだ続いてるとは思ってなかったけどな」
簓の声で標準語を喋られると違和感がすごい。一拍遅れて内容を理解して「え」と声が出た。
「へ、変なこと言うてなかった……?」
「全員飽き飽きしてっからそんな真剣に聞いてねえし、何か言ってても覚えてねえよ」
「そっか……」
それはそれでどうかと思うけど――まあ、知らないところで恥を晒すよりはマシか。
会話が途切れたところで持っていたおにぎりを一口かじって咀嚼していると、隣からじいと熱い視線を向けられる。見慣れない真面目な表情がどうしても恥ずかしくってそちらを向くことはできないのだけれども。
「あ、あの……何か……」
「米粒付いてるぞ、こっち見ろ」
見ろ、と言いつつ、一秒と待たず波羅夷くんは私の顔に手を伸ばしてきた。いつもと同じ簓の指が、いつもと違う力強さで私の顎を掴んでくいと引く。半ば無理やり横を向かされたかと思うと、真剣な表情をした簓の顔が近付いてきて、私の口元から摘み取った米粒を目の前でぱくりと口に含んだ。ちゅ、と小さく音を立てて薄い唇から離れていく指先をつい目で追ってしまって、ぼっと顔に熱が集まる。
「……んだよ」
「いや、その……何でもないです」
誤魔化しようもないほど赤くなった顔を必死で逸らすも、その先には呆れ顔の盧笙がいて結局気まずかった。
「しゃーないやん、簓こんなカッコよくないもん」
そう言い訳すると、盧笙は「何も言うてへんやんか」と呟いたので、「顔が言うてる」と言い返す。波羅夷くんは簓の顔でケラケラと笑っていた。
「カッコよくねえ簓ならどうするのが正解なんだよ」
「私の顔ごと食べる」
「ばっかじゃねーのアイツ」
ふは、と噴き出すように波羅夷くんが笑う。大きく口を開けて、糸のような目を更に細めて、身体を丸めて。やっていることはいつもと同じなのに、やっぱり、どこか、簓じゃないのが分かってしまう。
「……簓、大丈夫なんかな。ずっとこのままやったらどうしよう」
ぽつりと呟くと、三人が神妙な顔をしてこちらを見る。
不安なのはみんな同じだし、まして当事者の波羅夷くんは私たちの比じゃないだろう。申し訳なくなって一言謝ろうとすると、隣から伸びてきた手がぽすんと私の頭に乗っかった。
「拙僧だってこのままじゃ困る。絶対なんとかしてやるから、んな顔すんな」
……ほんとに、いつまでも簓の身体でこんなカッコいいことばっかりされてしまったら私も困る。あのアホ、
早よ帰ってこんかい。
* * *
波羅夷くんの提案でひとまずナゴヤに向かったものの、彼の身体に収まっていたのは簓ではなかった。どうやら単純に入れ替わっているわけではないらしい。事態がより深刻になったことに不安を覚えつつ、波羅夷くんの姿をした神宮寺さんと、再び新幹線に乗って東都へ向かう。
「電話で言ってた場所は……ここだな」
「わ、私も入ってええの?」
「どうせ大騒ぎになるだろうから、マトモな人間としてちゃんと止めろよ」
そう言って波羅夷くんはケラケラと笑う。入れ替わってるのって強豪チームのリーダーたちだろうに……私に何を求めているのか……無茶苦茶だ……。
「名字さん、不安になったら抜けて構いません。もちろんはじめから外で待っていても」
「いや……ここまで来たし行きます、ありがとうございます」
神宮寺さんは年長なだけあって、こんな状況だというのに落ち着いている。見た目が完全にヤンキーの波羅夷くんに入っているから違和感がとんでもないけれど。
波羅夷くんを先頭に、三人で入室する。ここは飴村乱数の事務所らしい。簓の口から名前を聞いたことはないけれど、それでも顔まで知っているくらいの有名デザイナーだ。
廊下の奥、微かに話し声が聞こえる部屋のドアを波羅夷くんは躊躇いもなく開けた。
「邪魔するぞ」
この向こうに、簓以外の誰かの姿をした簓がいる。不安で仕方がないはずなのに、少しだけ、ほんの少しだけ楽しみな自分もいたりして、薄情なことだと思う。簓がこのまま戻らなかったらどうしよう、とか思わないのか。
勢いよく開いたドアの向こうで「俺!」と叫んだのが誰だったのかは、波羅夷くんの背中で見えなかった。おそるおそる顔を覗かせると、先に集合していた四人の目が一斉にこちらを向く。ラップバトルのときに画面の向こうから見た人たちばかりだ。
私と目が合った内ふたりが「名前?」と声を上げる。なるほど、今のふたりが簓と東都でチームを組んでいた誰かだ。それからガタンと勢いよく立ち上がってこちらへ駆け寄ってくるのが簓だと理解したときには既に、私はその人の腕の中にいた。
「名前ー!!」
「待って待って待って、簓やんな!?」
あまりの速さで抱き着かれてしまったから顔を見る余裕もなかった。けれど、いつもより明らかに高い背も、なんだか筋肉質な身体も、知らない匂いも、簓のものでないことだけは確かだ。というか、簓の身体は思いっきり視界に入っているし。中身は波羅夷くんだけど。
「さ、簓さん……あの、俺の身体なんすけど……」
部屋の奥、ソファに腰かけていた飴村乱数が困った様子で声を掛けてきた。中身が誰かは分からないけれど、この状況からして飴村乱数でないことだけは分かる。それから、この身体の本当の持ち主だということ。
「このまま戻らんくて、名前と会われへんかったらどないしようと思った……」
「いや、まだ何も解決してへんから。落ち着いて、離れて」
がっちりと私の背中に回されている腕をぽんぽんと叩くも、微動だにしない。幼稚園児か。
簓がとりあえず無事だったのは嬉しいのだけれども、みんな見ているし、中身は簓でも身体は別の男の人だし、さすがに気まずい。助けを求めて視線を彷徨わせていると、波羅夷くんがポケットからスマホを取り出すのが見えた。もちろん、私も見慣れた簓のスマホだ。指紋認証でロックを解除したかと思うと、おもむろにカメラのレンズをこちらへ向ける。私が「え」と言う前にパシャリとシャッター音がした。
「おい簓、おまえ今の状況分かってんのか」
私の背後、つまり簓の正面に回って波羅夷くんが言う。おそらく、たった今撮った写真を簓に見せつけているのだろう。その瞬間、簓はガバッと身体を離した。あ、これは、確かイケブクロの山田一郎。ということは、飴村乱数の中に入っているのが山田一郎で――
「浮気やん!」
「……人様の身体やなかったらどつき回してんで」
目の前にいる人の顔にも、聞こえてくる声にも、まるで覚えがないはずなのに、その口から紡がれる言葉は簓のそれだとすぐに分かる。丸くて大きな目にじいと見つめられるのもなんだかくすぐったい。
「簓、無事でよかった」
「無事って言えるんか分からんけどなぁ」
「……あの、簓さん、俺の身体でそういう雰囲気になるのやめてもらっていいすか」
* * *
「名前ー、もうぼちぼちお昼やでー」
遠くで簓の声がする――いや、違う、私の脳がまだ覚醒しきっていないんだ。ゆさゆさと身体を揺さぶられて、渋々まぶたを持ち上げた。すっかり見慣れた深緑の丸い頭に、未だ夢から醒めきれない私は、
「……波羅夷くん……」
「……は?なんで空却?」
あれ、波羅夷くんやないの……ぼうっとする頭で考えていると、がしりと両肩を掴まれて、先ほどの比ではないほど激しく揺さぶられる。
「何!?なんで空却の名前が出てくるん!?なぁ、なんでなん!?」
「うぇ、ちょ……寝ぼけてただけ」
「なんで寝ぼけてそうなんねんっ」
あぁ、この鬱陶しさは紛れもなく本物の簓だ。よかった、元に戻れたんや――いや、あれはただの夢だったのか。簓の身体に波羅夷くんが入っていて、簓は山田一郎の身体に入っているだなんて。
「簓、本物……?」
「パチモンなんかおらんやろ!?え、モノマネ芸人?おったっけ」
「本物やなぁ」
「……名前、なに、ホンマに寝ぼけてるん?」
いつのまにやら大人しくなっていた簓のほうに両手を伸ばすと、簓は不思議そうにしながらもぎゅうと私を抱き締めた。いつもの、簓の感触だ。
「よかった」
「うん?」
「この簓がいちばん好き」
「なぁ、ホンマに他にどの簓サンおるん……?」
かなり不満げな声を上げつつ、簓はそのままごろんと私の横に寝そべった。もちろん、私の背中に回した腕はそのままに。変な夢見た、と呟けば、ネタになるやつ?と目を輝かせる簓は、間違いなく本物の、私の簓だ。