寝起きの頭をずきずきと鈍い痛みが襲う。重たい瞼をなんとか持ち上げると、見慣れない天井が目に入った。ということは、ここはベッドか何かの上か。左手でシーツらしき布をまさぐっていると、とん、と何かに触れた。寝返りを打ってみると、そこにはこちらを向いて寝息を立てる名前の姿があって。
「……名前?」
なんで名前が、ていうか俺いま変なとこ触ってないよな、などと慌てる俺にはまるで気付かず、名前はなおも無防備な寝顔を晒していた。
いたたまれなくなって上体を起こすと、まるで見覚えのない、殺風景な部屋の中だった。よく見ればベッド以外は家具のひとつもないし、他の部屋へ通じる廊下も外の様子を窺える窓もない。ホテルなどではなさそうだ。唯一の出入り口であろうドアには、何かメモのようなものが貼られている。現状、それしか情報の手に入りそうなものはない。名前を起こさないようゆっくり立ち上がって、ドアへ向かう。メモに目を通す前にドアノブに手を掛けてみると、ガタ、と引っかかって最後まで回らなかった。
「え、外から鍵掛かってるいうこと……?」
こちら側にサムターンなどは見当たらない。何度試してもドアノブが回りきることはなかった。はっとして手元のメモに目を通す。名刺くらいのサイズに紙質の小さなカードには、フィクションでしか見たことのない文字が並んでいた。
「キスをしないと出られない部屋……」
思わず声に出してしまってから、はっとして振り返る。名前はまだ夢の中のようで、ほっと息をついた。状況の分からないうちから名前に聞かせて不安にさせたくはない。
(とはいえ、これしか手掛かりなさそうやねんなぁ……)
いっそ、名前が目を覚ます前に事を済ませてしまえば――そう考えて、慌てて頭を振った。
* * *
「ん……」
「名前、目ぇ覚めたん?」
結局、あのメモ以外に手掛かりらしいものはなく、俺はボーッと名前の寝顔を眺めるくらいしかすることがなかった。小さな呻き声を上げて睫毛を震わせる名前に近付く。もしかしたら、俺が目覚めたときと同じ頭痛に襲われているかもしれない。そう思ったが、どうやら杞憂だったようで、名前は俺の顔を見るなりきょとんとするだけだった。
「簓……?なんで……」
俺から視線を外し、ゆっくりと周りを見渡すと名前は顔をしかめて起き上がった。
「ここ、どこ?」
どこ、と問われると、俺にはあのメモに書かれた内容を伝えることしかできないのだが、付き合っているわけでもない男にあんなことを言われたところで困るだろうと思うとすぐには言い出せなかった。しかし、他に情報がないのも事実で、渋々ポケットに隠していたメモを取り出す。
「あそこのドア、外から鍵掛かってるみたいで開かへんねん。で、これがドアに貼ってあって」
俺が差し出したメモを両手で受け取った名前は、まじまじとそれを見つめる。そう長い文章でもないのに視線が右に左に何度も往復して、それから何とも言えない表情でおもむろに顔を上げた。
「え、あ、あの、ホンマに……?これだけ……?」
これだけ、というのは、これだけで出れるん、なんて意味ではないよなあ……。
「部屋中調べてみたけど、ホンマにそれしかないわ」
「わけ分からへん……夢……?」
言いながら名前は自分の手の甲をつねって「いった!」と声を上げた。そんな全力でせんでも。
それから再びメモに目を通し、ふと口元に手をやったのはたぶん無意識なんだろうが、名前は無意識でも俺はめちゃくちゃ意識してしまうからやめてほしい。
「……やろ」
「へ?」
「今はこれしか手掛かりないんやろ……やるしかないやん」
意を決したように顔を上げると、名前はそんなことを言う。
「ちょっ、ちょお待って、もうちょっと考えてから」
「これでアカンかったら考えたらええやん」
こいつなんでこんな肝据わってんねん。そういうとこも好きやけど。
じりじりと距離を詰めてくる名前に、俺のほうがたじろいでしまう。
「っな、名前はええの?」
盧笙に聞いた、恋愛経験ゼロだという話が本当だったら、キスなんかしたことないんじゃないか。案の定、「い、いい……」なんて言いながらも名前は既に顔を真っ赤にしている。
「……はじめてなんちゃうん?」
「は!?」
肩に手を掛けてきた名前にそう尋ねると、ばっと飛び上がった。絵に描いたような図星だった。
「はじめてが俺でええの?」
「な、な、なんでそんなこと訊くん!?いいとも嫌とも言いにくいやん!?」
「確かに」
いいと言われればそりゃ嬉しいし、絶対勘違いしてしまう。嫌と言われれば向こう一ヶ月は立ち直れる気がしない。名前からすれば、いいと思ってたって言えるはずがないし、かといって嫌だなんて、本当に嫌だと思っていても言いづらいだろう。今のは完全に俺が悪い。
「……無理せんでええよ、その……ホンマにやるなら俺がやるから、名前は目ぇ瞑って素数でも数えとき」
もちろん、しないで出るという希望を諦めたわけではないが、やるしかないのか、という思いがないわけでもない。それと、所詮俺もしょうもない男なので、できるもんならやりたい、なんて最低なことも考えている。どうか名前にバレませんように。
「簓……」
しおらしい俺を見て名前も少し落ち着いたのか、ぺたんとその場に座り込んだ。考え直してくれたか――なんて思ったのも束の間、名前は再び固い決意の滲んだ顔を上げ、俺の肩を掴んで向かい合った。
「いや、だからこそ私のペースでやりたい……簓が目ぇ閉じて」
お願い、なんて言われたら、そりゃあもうお願いしたいのはこちらのほうなのだが。
(あぁ、どうしよ、言わな、今しかない)
俺だって、ただボーッと名前の寝顔を眺めていただけではない。部屋の探索をして、メモの文章を何度も読み返して、ひとつ気付いていることがある。もちろん、俺の考えが甘い可能性もないわけではないけれど。
キスをしないと出られない部屋。
別にどっちからどっちにとか、どこにとか、指定はない。もしかしたら頬でも手でもいいのかもしれない。名前にすればいずれにしろ恥ずかしくないわけではなかろうが、口よりよっぽどマシだと思う。
言わなければ。
「名前、」
「簓、目ぇ瞑って」
揺らいでいた心がぴたりと止んだ。
事情はどうあれ名前がここまで腹括って、真っ赤な顔で、震える手で、俺にキスしようとしている。こんなとこで止めたるのも、もしアカンかったとき名前にまた心決めさせるのも、可哀想やない?なんて、ホンマは俺が名前とキスしたいだけでしかないねんけど。
名前の赤い顔を脳にしかと焼き付けてから、そうっと目を閉じた。緊張で少し乱れた吐息が近付いてきて、心臓が高鳴る。
「簓、ちゃんと目ぇ瞑って!」
「瞑ってるんやけど!?」
不意に落ちてきた冷ややかな台詞に思わずツッコんだ。いくら糸目やからって見分けつかんか。
その拍子にぱちっと目を開けてしまって、至近距離で名前と視線が交わる。見たことないほど鮮やかな朱に染まった顔に、わずかに潤んだ瞳、そして微かに開いた薄紅色のつややかな唇。あまりに扇情的なその光景に、思わずごくりと喉を鳴らすと、名前は驚いたように目を見開いて、それからへなへなと座り込んだ。
「や……やっぱ無理……」
ずっと真っ赤な顔を更に赤くして、ほとんど泣いているような顔でこちらを見上げる。
……これで我慢できる男とかおるん?盧笙くらいちゃう?
「名前、目ぇ瞑り」
「え、」
先ほどまで自分がされていたように、名前の肩を掴むと、びくりと身体を跳ねさせた。俺の言葉なんてまるで聞こえちゃあいないのか、丸い目をこれでもかと見開いて、俺を見つめる。
「そんな見られたらさすがに恥ずかしいわ」
「う、あ、ごめん」
そこで素直にぎゅっと目を瞑ってしまうのもどうかと思うけれども。
色気なんてまるでない。注射を我慢しているみたいな、そんな顔で、名前は薄っすらと唇を開いて、俺を待っていた。
もしこれで鍵が開かなかったらどうしたらいいんだろうか。もっとえげつないのをしろということなのか、そもそもこんなファンタジーを信じた俺たちが馬鹿だと認めるしかないのか。
俺の顔が近付くにつれ、名前の身体が強張る。ごめんな、と心の中で呟きながら、本当に触れるだけの、子供みたいなキスをした。名前には散々「目ぇ瞑れ」と言っておきながら、自分はしっかりとその可愛らしい表情を目に焼き付けていたのだからタチが悪い。
このままその震える身体を掻き抱いて、押し倒して、柔らかな唇の更に奥まで踏み込んだら、この可愛らしい表情は一体どんな変化を見せてくれるのだろうか。つい両手に力が入ったその刹那、遠くでガチャンと鍵の開く音がして、俺はなんとか体裁を保つことに成功した。
* * *
「……あ、起きた」
目を開けると名前の寝顔が飛び込んできて、その既視感しかない光景に思わず悲鳴を上げそうになったところで、盧笙の声が俺を現実に引き戻した。
俺は盧笙の部屋のこたつの中にいた。ずるずると這い出て天板の上を見れば、たこ焼き仕様のホットプレート。
(せや、三人でタコパしてたんやった……)
ぼうっとしていると、お盆でパンと頭を叩かれる。
「起きたんやったら片付け手伝い、ふたりして人んちでグースカ寝よって」
そうは言いながらも、無理やり起こしはしないのだから盧笙は優しい。
「……えらい恥ずかしい夢見たわぁ」
「何や急に」
「盧笙には言われへん、殺される」
「どんな夢やねん」
ほとんどひとりごとに近い俺の言葉に、盧笙がそんな返事をくれた。
……夢、なんかな。それにしちゃあ感触がやけにリアルだったし、あまりに記憶がはっきりしている。
それに、俺たちの話し声で目を覚ましてこちらを見上げた名前が、俺と目が合うなりボッと顔を赤くした理由を、一体どう説明すればいいのだろうか。