その日、俺は初めて、人が恋に落ちる音を聞いた。
簓とコンビを組んで数ヶ月、少しずつ舞台に立つ機会も増えてきたころ。名前と待ち合わせをしていたある日の公演終わり、簓がついてくることになった。
名前は俺が芸人になると決めたとき、背中を押してくれた数少ない人間で、養成所に入ってからもずっと応援してくれていた。そんな名前だから、もちろん簓の存在も知っていて、いつか挨拶したいと言っていたから、ちょうどいい機会だと思ったのだ。簓には名前の話はほとんどしたことがない気もするが、まあ、簓のコミュニケーション力ならば何も心配はないだろう。
約束していた劇場近くの喫茶店に着くと、奥のほうでひとりスマホの画面を見つめる名前の姿が目に入った。着いたで、とメッセージを入れてやれば、顔を上げてキョロキョロと周囲を見回す。俺の姿を見つけると、ぱっと顔を綻ばせてひらひらと手を振った。名前のいるテーブルへ歩みを進めようとすると、シャツの裾をぐいと引かれて阻まれる。
「お、女の子かい!聞いてへんやん!」
足を止められたことに少しむっとしつつ振り返って、俺は内心とても驚いていた。こんなに慌てている簓を見るのは久しぶりだ。
「言うてへんかったか?でもそんなん気にするようなタイプちゃうやろ」
「気……には、せえへんけど、気になる」
「……は?」
すっかり挙動不審な簓に(こいつも人の子なんやな)なんて失礼なことを考えつつ、しかしもう人見知りをするような年齢でもないだろうと、俺を引き留める手を容赦なく払いのけた。再び歩き出すと、簓は幼子のように俺の後ろにくっついていた。
「待たせてすまんな」
「ええよ、面白かったもん……あ!」
声を掛けると、名前は背後の簓に気付き、ガタンと音を立てて腰を上げる。その顔はたいそう嬉しそうで、やっぱり連れてきてよかったな、と思った。
「相方さんやん!はじめまして、盧笙の幼馴染の名字名前です」
「……あ、どうも、白膠木簓言います」
満面の笑みを浮かべ両手を差し出す名前に対し、簓はどこか呆けた様子で、はっとしてぎこちなく名前の手を取った。
「うわぁ、本物!」
簓のアホ面を見上げ、名前は嬉しそうに頬を緩ませた。……それにしても、なんでアイツ、こんなボケっとしてんのや。
「そんな有名人に
会うたみたいな反応しな」
残酷やわ、なんて俺の言葉は届いているのかいないのか、名前はなおもキラキラと目を輝かせている。
「盧笙から話聞いてて、一回お話ししたいなぁ思てたんです!あ、盧笙、時間あるんやんな?」
「おー、あるある。コイツどうせ俺んち来てゴロゴロするだけやからな」
「ちょっ、盧笙!」
名前に問われ素直に答えると、慌てた様子の簓に小突かれた。事実やろが。そんな気持ちが思わず「あ?」と声に出てしまって、簓は「ひぇ」と縮み上がる。名前はそれを見てケラケラと笑っている。ネタやないんやけどな。
「じゃ、座ろ座ろ!簓さんも!」
握ったままだった手を引かれ、簓は名前の対面に腰を下ろした。俺はどっちに座るべきかと少し考えて、名前の隣の椅子を引くと「いや、盧笙どこ座ってんのん」と名前にツッコまれる。
「ちゃんと相方と並んで座ってぇや!」
その言葉に盛大な溜息を吐いてから、渋々腰を上げ、簓の隣に移動した。ふたり並んだ俺たちを見て名前は至極ご満悦のようで、ニコニコと満面の笑みを浮かべている。隣で簓がほっと息を吐いたのに気付いて、ちらりと視線をやった。
(……やっぱり、もしかしてこいつ……)
訝しむような俺の表情にはふたりとも気が付いていないようで、名前はさっそく、芸人としての俺の仕事っぷりを簓に尋ねだした。なんだか学校の三者面談みたいで居心地が悪い。しかし、質問を連発する名前も、それに答える簓も、とても初対面とは思えないくらい楽しそうだったので止める気にはなれなかった。
「盧笙、ホンマにええ相方捕まえたなぁ……絶対逃がしたアカンで」
「恋人みたいに言うのやめえ」
* * *
たっぷり一時間は喋り倒したころだろうか。ふと店内の壁掛け時計に目をやった名前が「うわ」と声を上げた。
「喋りすぎたな、もうこんな時間」
一時間も時計を見ないなんて、よっぽど楽しかったらしい。俺はいつ何を言われるか気が気でなかったというのに、羨ましいことだ。
「ホンマにな、俺はともかく、簓にはちょっとは遠慮せんかい」
「う、ごめんなさい簓さん……」
「いや、ええよ!?俺も楽しかったし!」
名前がしゅんとして見せると、簓は両手をぶんぶんと振って否定する。普段から口だけでなく身振り手振りもうるさいやつだとは思っていたが、今日はいつにもまして騒がしい。
さすがに、いくら『そういうこと』に疎い俺でも、簓に何が起きているのかほとんど確信してしまっていた。
「その簓さんていうのやめてぇな、同い年やろ?」
「えっ、じゃあ何て……」
「簓でええよ、あ、あと連絡先交換しよ」
いつもなら人好きのするその笑顔も、その真意に気付いてしまった今は胡散臭いばかりだ。思わずむっとして口を挟んだ。
「人の幼馴染、目の前でナンパすな」
「ナンパて!人聞き悪いこと言わんといて!」
慌てふためく簓を見て、名前はきょとんと不思議そうな顔をしている。分かってるんか。これはそういう小芝居やなくて、本気の図星で慌てとるんやぞ。
そんな俺の心配なんてまるで知らず、名前は呑気に「じゃあ私も名前でええよ」なんて言いながら笑みをたたえ、連絡先の交換に応じていた。
「えへ、未来の売れっ子芸人の連絡先ゲットしてもうた」
「幸せなやっちゃな」
名前があんまり嬉しそうな顔をするから、思わず苦笑した。売れっ子芸人か。それ俺にもプレッシャーかかってんの、気付いてないんやろな。
* * *
明日も仕事で朝が早いという名前と別れ、簓とふたり歩く。目的地は当然のように俺の家だ。
「自分、意外と子供みたいなことするんやなぁ」
「……は?」
なんとなしに思ったことをふと呟くと、簓は隣でぽかんと不思議そうに俺を見た。そのアホ面につい頬が緩む。
「名前のこと好きなんやろ」
ストレートにそう言うと、簓は一瞬言葉に詰まったあと「えっ!?」と大きな声を上げた。
「いや、あれでようバレてへんと思ったな」
……ま、アイツも顔だけは可愛ええからなぁ。そう思ったのが口に出ていたのか、簓は少し慌てるような素振りを見せた。
「あぁ、俺は今更そういう感情ないわ、家族みたいなもんやしな」
「そ、そうか」
「せやから簓、おまえがホンマに、本気で名前のこと好きなんやったら俺はいくらでも手ぇ貸したるけど、そうやないんやったら二度と名前には会わさへん」
相方とはいえそう付き合いが長いわけでもないし、簓の交友関係なんて知らない。とはいえ、簓に限って変なことはしていないとは思うが、名前に害を及ぼす可能性があるのであれば、俺にとっては名前を守ることが最優先事項だ。そうでないと、「盧笙くんの近くなら安心やね」と名前を送り出した名前の両親に、幼馴染として合わせる顔がない。
そんなことを考えていた俺は、簓の「オトンか?」というツッコミに、正直何か言える立場ではなかった。
「あ?」
「すまん、つい」
「……まぁ、言いたなるんは分かる」
そう返すと、簓は思わずというふうにクスクスと笑い声を漏らした。しかし、ふうと一呼吸置くと簓にしては真剣な顔をして、
「一回
会うただけの男が何言うたところで説得力ゼロやろうけどなぁ、俺、たぶんホンマに好きやねん」
「たぶん?」
その単語につい眉根を寄せると、簓は縮み上がる。
「いや、俺かて分からへんねんて!ホンマにちょっと一緒におっただけで、どこが好きや言われても俺も分からへんけど、でもあの笑顔がいつまで経っても頭から離れへん」
……笑顔な。
俺も一端のお笑い芸人だし、名前が笑っているのは、他の人が笑っているのと同じように嬉しく思って当然なのだが、名前はもっと……なんというか、特別だ。たとえ劇場のお客さん全員が真顔でも、あの花火が弾けるような眩しい笑顔さえ向けられれば、俺は満足してしまう気がする。それはそれでどうかと思うけれども。
だから、簓の気持ちは分かる。それに、よく熟れた林檎みたいに真っ赤な顔をして吐き出されたその言葉が嘘だとは到底思えなかった。
「……ホンマに子供みたいなこと言うな。中学生の恋愛か」
「えっ」
「おまえの気持ちは分かった。とりあえず今は協力したる」
「ホ、ホンマに!?」
「ちょっとでもやましいことあったら、マジで縁切らすからな」
「……ハイ」
「俺も名前にはずっと笑顔でおってほしいからな」
恋人としての簓のことはよく分からないが、しばらく相方として隣に立って、簓の人となりはある程度分かっているつもりだ。そのうえで、簓なら名前を幸せに――なんて大それたことを言うつもりはないが、少なくとも大切にしてくれるであろうことは容易に想像できた。
「ま、頑張りや」
まるで恋愛経験のない名前をその気にさせるのは、正直かなり骨が折れると思う。俺の過保護がその一因である自覚は多少はあるので、しばらくはこの相方の奮闘をサポートしてやることにした。