足の踏み場もないとはこのことか。あちこちに転がる、食べ終わった皿に空き缶。後片付けのことを思うと少し憂鬱になる。けれども、目の前でニコニコしながら新たな缶を開けようとする名前の姿を見れば、全てどうでもよくなってしまうのだった。
「ん……開かへん」
「もー、やめとき、水入れてきたるから」
力の入らない指で必死にプルタブを起こそうとする名前の手から缶チューハイを奪い取った。名前はむすっと唇を尖らせてこちらを睨みつけたが、そんな赤い顔に濡れた瞳では微塵も怖くない。盧笙は既に夢の中だし、俺もそれなりに酔っているし、危うく変な気を起こしそうになる。
のそのそと立ち上がって台所から水の入ったペットボトルを片手に戻ってくると、入れ替わるように名前が立ち上がった。
「あ、こら、名前、水飲み」
「トイレ……」
テーブルに手を付きながらなんとか立ち上がった名前は、ふらふらと千鳥足で歩き出す。絶対ヤバいやん、と思って手を貸そうとしたが、
「わっ、あ、」
時すでに遅く、床に置いてあった皿を避けようとしてバランスを崩した名前の身体がぐらりと傾ぐ。慌てて手を伸ばすと名前は意外にもしっかりと俺の手を取り、思い切り体重をかけてきた。まさか向こうから掴まってくれるとは思っておらず、今度は俺がバランスを崩す。
「あっ、アカン、うわ」
最後の力を振り絞って、なんとか何もないところに尻餅をついた。勢い余って背中から倒れ込みそうになるのも、肘を付いて堪える。しかしそれも無駄な足掻きだった。
「ひゃっ」
ほぼ同時に名前も床に手を付いた。しかし勢いを殺しきれず、そのまま倒れ込む。先程手を引いた俺の方へ向かって、だ。肩口に名前の頭突きを食らい、結局俺も床に背中を預けることとなった。後頭部からゴンという音がしたが、痛みを感じる余裕はなかった。
「いたぁ……」
俺の胸元から腹にかけて、温かくて柔らかいものがずしりと乗っかっている。言うまでもない名前の身体だ。その中でもひときわ柔らかい箇所があるのに気付いてしまい、俺は微塵も動けなくなった。
「ご、ごめん簓、大丈夫?」
衝撃ですっかり酔いが覚めたらしい名前が慌てて顔を上げ、それから自分の置かれた状況に気付きボッと頬を朱に染める。
「っ、ほ、ホンマにごめん、ッいた」
すぐさま俺の上からどこうとした名前だったが、身体を起こそうと床に手を付いた瞬間、辛そうに顔を顰めた。
「手ぇ痛めたんか?」
「たぶんこけたとき……待って、すぐどくから」
そう言って反対の手だけで起き上がろうとする名前は、酒が入っているからかふらふらして相変わらず危なっかしい。思わず離れていく肩に手を伸ばし、そしてそのまま引き寄せた。
「痛いんやったら無理せんとき」
「やっ、簓、ちょっとこれは」
名前がそう言って慌てるのはよく分かる。傍から見れば俺が名前を抱き締めるようなかたちになっているから。
さすがに俺もそういうつもりでやったわけではないので、ゆっくりと名前と位置を入れ替えて、俺が床に手をつき立ち上がろうとした。名前は頬を赤く染め、わずかに瞳を潤ませて、ぼうっとこちらを見上げている。酒のせいだとは分かっていても、本当に変な気を起こしそうになるからやめてほしい。
(これこそ俺が押し倒したみたいやんな……)
この状況、盧笙に見られたら何言われるか分からんわ……などと思いつつ、寝息を立てていたはずの相方のほうに視線をやり、俺は凍りついた。
「何しとんねん」
ぱっちりと開かれた盧笙の瞳が、名前の上で固まる俺を映す。
異変に気付いた名前も盧笙のほうを向いてしまったせいで、赤い顔が晒されて。
「……おい、簓」
「わーっ!ちゃうねん、これは!事故や!」
「どこがやねん!おま……っ、表出ろ!」
先ほどまで酔いつぶれていたのが嘘みたいな俊敏な動きで盧笙は俺のほうへ飛んでくると、俺の首根っこを掴んで引っ張り上げた。いよいよ死すら覚悟したとき、慌てて起き上がった名前が盧笙の足に縋りつくのが視界の端にちらりと映った。
「待って待って、盧笙!何もないから!」
「……ホンマか?」
俺のときとは違って、盧笙は名前の言葉にはすんなりと耳を傾ける。それからゆっくりと俺の襟首から手を離した。
「私がこけたの庇ってくれただけやって」
「こけた?怪我してへんのか?」
「……あ」
盧笙に指摘されて痛みを思い出したのか、名前は自分の手首に視線を落とし顔を顰めた。それを見て再び盧笙の眉間に皺が寄る。
「庇えてへんやんけ」
「いや、庇ってくれたからこれくらいで済んだんやって」
「……とりあえず冷やさな、簓」
盧笙は俺に手招きをすると台所へ向かって歩き出した。手伝えということだろう。
冷凍庫の奥から保冷剤を取り出してきた盧笙にタオルを差し出すと、盧笙は何とも言えないむず痒そうな顔をして、蚊の鳴くような声で「悪かったな」と呟いた。
「ん?ええよええよ、俺もあの状況はちょっとヤバいなと思っとったしな」
「あと、名前のことありがとう」
「おまえは名前のパパか」
相変わらず名前のこととなると途端に優しい目をする盧笙の肩をぽすぽすと叩いていると、不意に保冷剤を包んだタオルを手渡される。
「俺、片付けしとくから名前見たってくれ」
「任しときー」
これは、おそらく盧笙なりに気を利かせたのだろう。俺は踵を返すと、座ったまま呑気にこくこくと船を漕ぎはじめていた名前のところへ向かう。
(早よあの状況でも怒られへん関係になりたいなあ)
――と思ったけれども、盧笙が相手だと結婚するまでとても許してもらえない気がして、俺は通天閣より遥か高いその壁に苦笑いするしかなかった。