見慣れない天井、嗅ぎ慣れない匂いのする布団。目が覚めたときに人の気配がするなんて何年ぶりだろうか。
あぁ、そうだった。簓の家にいるんだ。ゆっくりとまぶたを持ち上げると、「あ!」と大きな声がする。
「名前、起きた?俺もう出るから、外出るんやったらこれ
使てな、昨日渡しといたらよかったわ」
未だぼんやりとしている私にそう捲し立てると、簓はバタバタと家を飛び出していった。ずいぶん早いんだな、と思ったが時計を見るともう九時前だ。どこで寝泊まりできるか決まっていなかったので念のため有休を取っていた私は、昨夜はアラームもかけずのんびり眠りに就いたのだった。
一体何を置いていったのかと、おもむろに起き上がってテーブルを確認すると、そこには可愛らしい猫のストラップの付いた鍵があった。
(……合鍵)
それが目に入った瞬間、脳がぱちりと覚醒する。あんなに気にしていた寝起きの姿を見られることは、大した刺激にもならなかったくせに、こんなことで目が覚めるなんて。昨日「新婚さんみたい」と嬉しそうに言った簓の声を思い出して、ひとりで赤くなった。
せっかく休みなんだし、一週間も泊めてもらうわけだし、今日はしっかり家事の手伝いをしようと思っていたのに、変に意識してしまって腰が重くなる。とはいえ、何もしないわけにもいかないので、顔の熱が引くのを待ってからのろのろと動き出した。
冷蔵庫の中身は案の定、ほとんど空に近かった。何を食べて生きているんだろうか。掃除と洗濯は私が来る直前にやったのか、今のところ、手を付けられそうなところがない。とりあえず、今日は買い出しと料理くらいか。明日からは私も仕事だし、日持ちするものも何品かあったほうがいいかもしれない。そんなことを考えながら近隣のスーパーをスマホで確認していると、やっぱりちょっと新婚さんみたいで、また顔に熱が集まりはじめた。
* * *
そういえば、台所使っていいか訊いてないな、と気付いたのは買い出しに行って戻ってきてからだった。数日分とはいえひとりのときとは比べ物にならない量の食材を買い込んで、ガラガラの冷蔵庫に詰め込む分には特に困ることもなかったけれど。綺麗にしてある、というよりはまるで使用感のない台所を使ってもよいものか少し悩む。
……まあ、買ってしまったからにはやるしかないか。あとでまた徹底的に掃除すればいいだろう。
食器や調理器具もひと通り揃ってはいるものの、どれもこれも使っている感じがほとんどしない。
(クーラー直ったあともたまに見に来たほうがいいな……)
簓が食事を蔑ろにしがちなのは知っている。あんなにちゃんと食べろと言ったのに、ちっとも響いちゃいないらしい。何が楽しくて成人男子の食育をしなきゃならないんだ。
明日以降にも温めなおして食べられるようにと、何品もおかずを作っていたら、すっかり日が暮れてしまっていた。ふとスマホを見ると、数分前に「今から帰る」と連絡が入っていたので、お風呂を沸かしに行く。ちょっとやりすぎな気もするけれど、こんなにしてあげられるのも今日くらいだしいいだろう。
ご飯の用意も一段落して、なんとなしにテレビを見ていると、玄関ドアのサムターンががちゃんと音を立てた。
「ただいまぁ」
なんだか少し疲れた様子のその声に振り返って「おかえり」と返すと、簓はスニーカーを脱ごうとした途中の半端な姿勢で固まっていた。
「……どないしたん?」
「待って、もっかいやるわ」
「は?」
そんなわけの分からないことを言って、簓は再び立ち上がりドアを開けて出て行った。それから数秒すると、再びドアノブが回りだす。開きかけの扉から顔を覗かせた簓が「ただいまぁ」と今度は嬉しそうに言ったので、私も少しほっとして「おかえり」と言いかけたのだが、その手に不自然に握られたスマホを見てつい言葉に詰まった。
「……それ何してんの」
「えー、ちゃんとおかえりって言うてぇな」
「カメラ回してない?」
「回してる!もっかいやるで!」
「やらへんわ!」
三度目のただいまを試みようとする簓の腕を慌てて掴み、無理やり玄関へ引きずり込むと、むすっと唇を尖らせてこちらを見下ろした。そんな顔をしたいのはこちらのほうだ。
「わけ分からんことしてんと
早よ入りいや」
「だって誰かがおかえりって言うてくれんのめっちゃ久しぶりで、しかもそれが名前なん嬉しすぎて……」
「……少なくとも今週はずっと言うたるやんか」
「そ、そうやんなぁ」
へへ、と、心底嬉しそうに笑う簓を見ていると、先程までの呆れた気持ちも吹き飛んでしまうから、私もたいがい馬鹿だと思う。
「今からそんなんやったら、ご飯できててお風呂も入れるって言うたらどないすんの」
ぽつりとそう言うと、簓はだらしなく緩んだ顔を一瞬強張らせて、それからまたへにゃと相好を崩す。
「えっ、ホ、ホンマに!?」
「だから
早よ上がっておいでって……」
言いながら踵を返そうとすると、今度は簓が私の手首を掴み引き留めた。渋々振り返ると、ずいぶんときらきらした顔でこちらを見ている。
「あれ言うてくれへんの?」
「……なにが」
それが何を指すのか薄々分かってしまって、すっかり呆れ果てている私に、人の機微に敏感な簓が気付いていないはずはないだろうに、何事もないかのように己の希望と欲求だけを爛々とその目に滲ませて、しかもいつの間にやらがっしりと両肩を掴まれていて簡単には逃げられない。
ここで素直に簓の欲している言葉を吐いてやれる可愛らしさがあればいいのだが、天邪鬼というか負けん気が強いというか、とにかく素直でない私は、少しいじけたふりをして「……ご飯冷めるやんか」と言うくらいしかできないのだ。
「っ、ごめん!上がる!手ぇ洗ってくる!」
荷物を玄関に置いたまま洗面所に走る簓の背を見送り、ふうと息をつく。出迎えるだけでこんなに疲れるなんてどうなってるんだ。あと一週間、こんな生活が続くかもしれないことにわずかに恐怖を抱いた。
* * *
「すっ、すご……」
「言うとくけど今日だけやからね、明日はこれの残りと冷蔵庫に入ってるやつ
温めるだけ!」
「まだ冷蔵庫にもあるん!?」
簓は未だきらきらした表情で食卓に並ぶ料理を見ていた。それから上目遣いで私を見て「食べていいん?」と訊くので「どーぞ」と答える。いただきます、と本当に言ったのか分からないほどの早口で挨拶をし、取皿を手に取った。そんな急がなくても誰も奪いやしないのに。
「そういえば、朝えらいバタバタしとったけど大丈夫やったん?」
こんもりとお皿の上に山を作ってようやく満足したらしい簓を見届け、私もゆっくりとおかずを箸で運びながら、ふとそう切り出すと、簓は「ああ、間に
合うたよ」と一言返したあと、何故かふにゃふにゃと顔を綻ばせる。
「朝起きたら隣に名前おって、嬉しくて寝顔眺めてたら時間忘れてもうた」
「……な、」
何やってんの、アホちゃう、って、喉のほんの手前まで来ているのに、言葉にならない。昨日まであんなに寝顔とか寝起きとか見られるのが嫌だったのに、いざ起きてみるとそうでもなかったな――なんて、ただ脳が覚醒しきっていなかっただけだ。こんなふうに素面で言われてしまったら、私の意志とは関係なしに、かっと顔に熱が集まって、耳まで熱くなっているのが嫌でも分かる。
「……や……」
「ん?」
「やっぱ盧笙んとこ行く……」
「え!?いやいやいや、ちょお待って!嘘!見てない!」
「いや、そんなバレバレの嘘あるか!」
思わず立ち上がった私を見るなり、簓もガタンと大きな音を立てて腰を上げ、バタバタと対面に座っていた私のほうへ回り込んで、縋るように抱きついてくる。いつもなら恥ずかしくって逃げ出すものだが、今はそれどころではない。
「心配した私がアホやった!」
「ご、ごめんて、別に半目でもよだれ垂らしてもなかったで?」
「そういう問題ちゃうねん」
そんな姿を晒していたら本当にもうこの家どころかこの世から消え去りたい。盛大な溜息を吐き出すと、簓はゆっくりと私から離れ、おろおろしながらこちらを覗き込み「ごめんな……?」と繰り返した。
「別に、怒ってるんちゃうよ……ただ死ぬほど恥ずかしいだけ」
「見んほうがいいん?」
「そりゃ、」
「朝、名前まだ寝てたやんか」
訊いておきながら人の話を容赦なく遮る簓に少しむっとしつつ、やけに神妙な様子なので文句はぐっと飲み込んだ。
「おはようって言いたかったんやけどな、あんまり気持ちよさそうに寝てるから起こしたったら可哀想やなって思ってじっと見てたら、なんかそれだけでも幸せやって」
……羞恥心というものはないのだろうかと心の底から疑問に思いながらその恥ずかしい台詞を聞く。
「今日な、めちゃくちゃ忙しかったんやけど、名前の寝顔思い出して、で、帰ったらまたおるんやなーって思ったらめっちゃ頑張れてん」
ぎゅ、と私を抱く腕の力が強くなる。
「一週間だけでいいから、どこも行かんとって」
丸い頭を私の肩口に押し付けるようにして、珍しく弱々しい声で言うものだから、思わず胸がきゅっとなる。情けない背中をぽんぽんと叩くと、背中に回された手がぎゅ、とシャツを握るのを感じた。
「一週間でええの?」
「……え、」
「ま、一週間で帰るけど」
「ええっ、ちょ、待って、もっとおってええよ!?」
バッと勢いよく上げられた頭が顎先を掠めたのに違う意味でドキドキしつつ、両肩を掴んで身体を離し、「そのうちな」なんて呟きながら席に戻ると簓もまた対面に腰を下ろして、薄い唇を震わせながら「ホンマに!?」と繰り返している。
ことあるごとにあんな幸せそうな顔されたら、少しくらい甘やかしてやりたくなっても仕方あるまい。最近サボりがちだった自炊も、今週だけは頑張るかと決意を新たにした。