――なんや、えらい暑いわ。まさかうちのクーラーも壊れたんちゃうやろな。そんときは、俺が名前んち泊まってもええんかなあ。
寝ぼけた頭でそんなことを考えながら、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。クーラーのすぐ近くのカーテンレールに吊るされたパーカーがそよそよと揺られているのが目に入って、幸か不幸か、うちのクーラーは正常に運転しているのが分かった。
それならば、この暑さは何だ。そういえば左腕のあたりだけがやけに暑い気がする。寝起きで未だ重い身体をなんとか動かしてそちらを確認すると、タオルケットがこんもりと膨らんでいて、そこから丸い頭が覗いている。
「……え、」
己の左腕にまとわりつく熱の原因を察して、硬直した。熱だけじゃなく、柔らかさも。俺が動いたからか、微かに「ん……」と唸るような声がして、心臓が止まるかと思った。
何してるん、なんて言えるはずもない。心臓はバクバクと早鐘を打ち、顔も身体もぐんぐんと体温が上昇しているのが分かるが、頭だけは妙に冷静に「起こしたら離れてまう」などと考えているのだ。
目線だけ動かして時計を確認すると、まだ五時を少し過ぎたところ。今日は土曜日で、俺も名前も休みだからどこか行こうかとは話していたものの、朝からじゃなくてもいいだろうということで、大した予定は立てていない。アラームをセットしていたとしてもあまり早い時間ではないだろう。あと一体何時間、こうしていなければならないのだろうか。いや、こうしていられるのだろうか。
(……布団くっつけて敷くのも嫌がってたくせに)
十センチほど空けたはずの隙間なんて気にも留めず、名前は俺の布団に潜り込んできていた。今も、シングルサイズの小さな敷布団に大人がふたりも乗っかるわけがないのに、時折ぐいぐいと身体を押し付けてくる。その度に二の腕のあたりに触れる柔らかいものがふわふわと形を変えるのを意識してしまってどうしようもない気持ちになった。
そんな狭いんやったら自分の布団帰ればいいやろ、なんて、正直微塵も思っちゃいない。
* * *
「おはよ……、えらい早いな」
九時前になってようやく名前が目を覚ました。結局あれから一時間はくっついたままで、ようやく解放されたころにはすっかり目が冴えてしまって眠れなかったのだ。仕方なく起き上がって、凝った朝食を用意したところだった。
「誰のせいやと思ってんねん」
「え?」
ぽつりと呟くと名前はきょとんとして首を傾げる。それからふとテーブルに目をやると、「あ!」と声を上げた。
「ご飯作ってもうたん……」
予想外のリアクションに、今度は俺がぽかんとする。
「えっ……なんで?嫌やった?」
「い、嫌なわけないやん!そうじゃなくて、私明日帰るから、ちゃんと朝ご飯作れるの今日だけやと思ってたのに……」
そう言ってくれる気持ちは嬉しいが、それ以上に、明日帰るという言葉が堪える。
「帰らんかったらええやん」
「またそういうこと言う」
呆れたように笑いながら、名前は洗面所へ消えていった。
……別に冗談のつもりないねんけど。
名前の帰る日が近付くにつれ、時々こうして駄々をこねる子供みたいなことを言ってしまう俺を、名前は怒るどころか苛立つ素振りすら見せず、淡く微笑んで受け止めた。それは、本当に俺にはもったいないほど懐の広いよくできた恋人だと思う反面、俺ばかりが寂しいみたいで複雑な気持ちにもなった。
待ち合わせじゃなくて、ふたりで同じ家から出て、一日一緒に過ごして、また同じ家に帰るなんて、この上ない幸せなはずなのに、それも今日で終わりだと思うとどうにも気分が晴れない。
気を抜くとしゅんとしてしまう俺に名前が気付かないはずもなく、隣を歩く俺の顔を見上げて少し困ったような顔をした。
「今生の別れやないねんから」
「そうやけど」
そうは言われても素直に納得できない俺に、名前もまた少し拗ねたような声音で言う。
「私だって寂しくないわけやないよ」
鞄を持ちかえてするりと腕を絡め、甘えるように額をすり寄せるその感触に、今朝のことを思い出して心臓が大きな音を立てた。
「なんやかんや言うて楽しかったし」
「……うん」
「また泊まりに来ていい?」
そう言って首を傾げられたら、ここはライブハウスの最前列かとばかりにブンブンと首を縦に振るしかできない。そんな俺を見て名前は嬉しそうに微笑む。
「晩ご飯どうする?」
「帰ろ、なんか
買うてっても出前取るんでもええから、
早よ帰りたい」
最後の晩餐じゃないけれど、名前の手料理を食べたい気持ちはあったが、日暮れ近い今から作ってほしいと頼むのも申し訳なくてそう言った。せめて、ふたりきりで過ごすくらいは。
そんな俺の優しさを知ってか知らずか、名前はじいと俺の顔を見て、
「……何かやらしいこと考えてるん?」
「考えてへんわっ」
* * *
この景色もひとまず見納めか。そんなことを思いながら、バスタオルで髪をぽんぽんと叩く名前の背中を眺める。視線を感じてか、名前が「……なに?」と怪訝そうに振り返る。
「ドライヤーする?」
「するけど……」
返事を聞くなり、ぱっと立ち上がり洗面所へ向かう俺に、名前が視界の隅で苦笑したのが見えた。けれど何か文句を言うこともなく、俺がドライヤーを持って戻ってくると、名前は大人しくタオルを持つ手を下ろす。大きな動作音の中では会話をすることもままならないが、とても穏やかで幸せな時間だと思った。わしゃわしゃと手を動かすたびに名前の香りが一面に漂う。名前の髪は乾くにつれてさらさらと指と指の間をすり抜けていくようになった。すっかりいつもの感触に戻ったと判断してドライヤーのスイッチを切ると、名前は小さく首を振ってから「ありがと」と呟いた。
「ふふ、ちょっと寝てた」
「なーんかふらふらしてんなと思った」
「あんなうるさいのに、人にやってもらったら気持ちよくって
眠なるよなあ」
無防備な背中にぴたりとくっついてみると、名前もこちらに体重を預けてきた。それを受け止めて、お腹の前に手を回すと、またそこへ名前の手が重ねられる。珍しくずいぶん素直だ。
「一週間も置いてくれてありがと」
ぐ、と顔を上げて上目遣いで名前が言う。
明日帰るから出た言葉なんだろうが、寂しさよりもこの一週間の楽しかった記憶ばかりが思い出されて、存外心は穏やかだった。
「こっちこそ、料理とか洗濯とかやってくれてありがとうな」
上を向いたままの額にちゅ、と口付けると、名前はくすぐったそうにぎゅっと目を閉じた。それからふと正面に視線を戻し、呟いた。
「落ち着いたら、何かお礼せんと」
「そんなん、」
いらんよ、と言いかけて、やめる。名前が不思議そうな顔をして振り返った。
「何か欲しいん?」
「や、そんな改まっていらんから、」
今日一緒に寝たい、と蚊の鳴くような声で言ってみると、名前は目を丸くして少し躊躇う素振りを見せてから、更に小さな声で、ええよ、と囁いた。
* * *
布団をくっつけて敷くかどうかなんて些事だったんだと気がついた。境界を無視して隣の布団に潜り込んでしまえば、もう一枚がどこにあろうが関係ない。ぎゅ、と抱き締めた名前の身体は、緊張しているのかガチガチだった。優しく後頭部を撫でてやると、少しだけ力が抜けた。
「も、こんなんじゃ寝られへん」
「寝れる寝れる、さっきあんな眠たそうにしてたやん」
ちらりとこちらを見上げる名前の顔はよく熟れたりんごみたいに真っ赤で、思わず両腕に力が入った。名前の小さな呻き声が聞こえる。
「……寝てまうん?」
「……やっぱやらしいこと考えてるん」
「ちゃうやん!そういうことやなくて!」
じと、とした目でこちらを睨む名前に慌てて弁解する。そりゃ、この状況でそういうことを一切考えずにいられるほどの聖人ではないけれど。
「寝て起きたら、名前帰ってまうやん」
「まだその話するん?」
「……」
「もう……」
もぞもぞと、名前が一生懸命、俺の背中に腕を回す。
「何回でも泊まりに来たるし、簓がうち来てもええよ」
「……行く」
「はいはい」
幼い子供をあやすみたいに、名前の掌がぽんぽんと俺の背中を叩く。だいぶ馬鹿にされてんなあ、と思いながらも不思議と不快感はない。
そのうちリズムがのんびりになって、不規則になって、名前が睡魔に襲われていることが分かる。
「寝てええよ」
「寝るよ……」
「うん、おやすみ」
返事はなかった。そのまま静かに寝息を立てはじめた名前の顔をしっかりと目に焼き付けてから、俺も眠りに就いた。
翌朝、昨日とはうってかわってアラームをかけて早起きをした名前は、せっせと荷造りに勤しんでいた。さして手伝えることもないので、ぱたぱたと動き回る名前を眺めながら朝食の用意をする。
「さすがに一週間もおったら荷物いろんなとこ行ってる……」
「別に忘れ
物してもええやん、いつでも渡せるやろ」
「そうやけど……」
不安そうに部屋や洗面所をうろつく名前を無理やり食卓に座らせる。
「ほら、
早よせんと業者の人ら来てまうで」
名前の部屋のエアコンの修理業者は午前中には来てしまうらしい。もっとゆっくりしてくれていいのに。寝起きの悪い子供を急かす母親のような気持ちで、名前を送り出すことになってしまった。
「何か忘れてたら持っていったるから」
「う……ありがと……」
ホンマにあとで絶対ちゃんとお礼するから、と何度も繰り返しながら名前は俺の部屋を出ていった。あまりの慌ただしさに寂しさを感じる余裕もなく、それはそれでよかったのかもしれないと思う。
名前の姿が完全に見えなくなって、振り返ると、途端に静寂が身に染みる。なんだか部屋が広くなったようにすら感じた。ほんの一週間前までこれが普通だったはずなのに。
何かしていないと寂寥感でどうかしそうだったので、掃除でもしようと思い視線を動かすと、名前が「またすぐ泊まりに来るから」と言って置いていった歯ブラシや小さな化粧水などのボトル、パジャマ代わりのスウェットなんかが目に入ってきて逆効果だった。帰らんとって、と駄々をこねる俺を宥めるために置いていったのに、まさかこんなことになっているなんて、名前は思っていただろうか。
「あー、もー、アカンわ、盧笙呼んだろ」
名前を呼び戻すことはできないので、代わりに幼馴染に責任を取ってもらうことにして、俺はスマホに手を伸ばした。
* * *
顔を合わせれば意外とやることはあるもので、ネタ出しや新作の練習をしていれば時間が経つのはあっというまだった。呼び出した直後には殺されるんじゃないかと思うほど怖い顔をしていた盧笙も、すっかりいつも通りだ。
夏の日は長く未だ外は明るいが、気がつけば夕飯時だった。
「盧笙、飯食うて帰る?名前が作っていったおかずあるで」
「じゃあ食う」
――じゃあ、て何やねん。名前のお手製やなかったらいらんてか。
と、内心では悪態をつきつつも、その気持ちが分からないわけがないので文句は言わない。
立ち上がって冷蔵庫のほうへ歩き出した瞬間、ピンポン、と短くインターホンのチャイムの音がした。
「名前や」
居間にいた盧笙が、台所に差し掛かっていた俺より先にモニターを見て呟いた。
「名前?なんでやろ」
ともかく名前なら直接ドアを開けてしまっていいだろうと玄関へ向かう。
ドアを開けると、今朝見たのと同じボストンバッグを手に提げた名前が、なんだか気まずそうに俯きながら立っていた。肌や髪がしっとりと濡れているのは、暑いなか歩いてきたからだろうか。
「……どないしたん?なんか忘れた?」
「あ、あの……」
きょろきょろと気まずそうに視線を彷徨わせたあと、名前は上目遣いでこちらを見た。
「業者の人来たんやけどな、なんか部品取り寄せなアカンとかで、三日後にまた来るらしくて」
だから、あと三日置いてください、と恥ずかしそうな名前の言葉に思わず諸手を挙げて大喜びしたら、前にいた名前といつの間にか後ろにいた盧笙に同時に小突かれた。