ちょっと良いレストラン連れてったるから、オシャレしてきてな、なんて言われて。半ばパニックになりながらも友達にアドバイスを貰って買ったワンピースに身を包み、滅多に履かないハイヒールのパンプスを引っ張り出してきて家を出た。いよいよプロポーズか、なんて友達には言われたけど、たぶんそういうのではない。簓は、そんな改まって何かすることはない気がする。まるで朝の挨拶でもするみたいに、欠片も緊張せず、当然のようにその言葉を贈ってくれて、私も当然のように受け入れる、そんな気がするのだ。……知らんけど。
(……って、別にそんな話一回もしたことないし!結婚とか!そんな!)
口に出したわけではないのだから誰にも聞かれちゃいないのに、ブンブンと首を振って頭で言い訳を並べた。そんなことをしながら、待ち合わせ場所で、今日も仕事に励む簓を待つ。仕事が仕事だから、多少待つのは慣れっこだ。だから簓も待ち合わせ場所にはいつもカフェやショッピングセンターなど、私が時間を潰しやすい場所を指定してくれる。今日は私のほうからよく行くチェーンのカフェを指定したけれども、ちょっと気合い入りすぎて浮いてるなぁ、なんて思わなくもない。
しばらくスマホを眺めていると、ピロンという通知音とともに、小さなウィンドウが表示される。簓が近くに着いたらしい。残り少なかった紅茶を一気に呷り、空になったマグカップを返却口に戻して店を出ると、ちょうど簓がこちらへ駆け寄ってきた。
「ごめんなぁ!お待たせ!」
スタジオから走ってきたのだろうか。珍しくジャケット姿の簓は、少し息が上がっていた。
「別に走って来んでもええのに」
簓待つ時間やったら全然苦にならへんから、なんて小声で言ってみると、しっかり耳に届いたらしく、だらしなく表情を緩めた。
「そんなん言われたら調子乗ってまうで」
「好きなだけ乗っとき」
言いながら繁華街のほうへ足を向けようとすると、簓は「待って待って!」と私を引き留めた。振り返ると、ちょこんとこちらに手を差し伸べて、
「今日は特別やからちゃんとエスコートさせて」
特別、という単語に胸がざわめく。これはまさか本当に……と否が応でも期待してしまう心を必死で押し隠そうとすると「こんな街中でエスコートも何もないやろ」なんて悪態をついてしまう。
「まあな、手ぇ繋ぐだけ」
「……もう」
差し出された掌に自分のそれを重ねると、簓はニッと嬉しそうな顔をしてから、するりと指を絡めて、いつものように手を繋いで歩き出した。
何の変哲もない、時々遊びにくる夜の梅田のはずなのに、私たちはふたりしてずいぶんめかしこんで、私は常より少しだけ緊張しながら簓の大きな手を握る、それだけでなんだか非日常的だった。ふと隣を見ると、いつもより簓の顔が近い。
(……あ、ヒール)
私の視線を感じてか簓もこちらを向き、同じことを言う。「なんかいつもより顔近ない?」と。
「うん、今日ハイヒールやから」
そう答えると簓は私の足元に視線を落として「うわ、すご」と小学生のような感想を口にした。オシャレしてこいって言うから慣れへんハイヒールで頑張ってんのに、と、少しむっとしたので、
「盧笙やったらこれ履いてても全然関係ないんやけどな」
「いや、盧笙と比べんとって?」
少々意地悪を言ってやると、簓は「自分の幼馴染、背ぇ高いし脚長いし顔もいいしずっこいねん」と付け足して口を尖らせた。そんな簓を見ているとつい笑ってしまって、いくら幼馴染とはいえデート中に他の男のことを言うのは野暮だったかと思い「ごめんごめん」と謝罪する。簓だって私が異性として盧笙を好いているわけでないのは理解しているので、なんてことはなく笑みをこぼした。
「なぁ、名前、今日何の日ぃか分かっとる?」
「え?」
少しの沈黙のあと、信号待ちの間に簓は唐突に問いかけてきた。
そんなの、ものすごく考えたに決まっている。互いの誕生日でもなければ記念日でもない。この記念日というのが、簓は“初デートの日”や“付き合いはじめた日”に留まらず、“はじめて会った日”まで覚えているから恐ろしいのだ。「どんだけ私のこと好きやねん」と呆れ半分で言ったら嬉しそうに「聞きたい?」と言われたのを覚えている。
「さあ?今度は何?」
興味がないわけではないのだけれど、あまりに見当がつかないので、なんだかそっけない言い方になってしまった。簓も少し不満げで、
「……なんかどうでもよさそう」
「どうでもよくはないけど、ホンマに分からへんねんもん」
……記念日にこだわるカノジョがめんどくさいって、こういう気持ちなんかなぁ、って、なんで私が彼氏サイドなんだ。
ようやく信号が変わって、ゆるゆると歩きだす前の人の背中についていく。そういえば目的地聞いてないな、と思っていると簓にくいと手を引かれる。
「こっちこっち、こないだロケで行ってんけどな、もう何食うてもめちゃくちゃ美味くて、」
記念日の話はどこへやら、簓はペラペラと目的地のレストランについて語りだした。オシャレで美味しいのにずば抜けて高いわけではなくて、これなら俺でも名前連れてこれるなと思って、なんてさらっと言われてしまったらもう私は記念日なんてどうでもいいのだが。
「な、だからまた来よな」
「それは別にいいけど、着く前から言うやつちゃうねん」
ボケなのか何なのかよく分からないそれに笑い声を上げると、簓もまた嬉しそうに顔を綻ばせた。
それから一瞬の沈黙のあと、簓は再び「今日はな」と口にする。
「俺らが付き合うてから千日やで」
「……千?」
千日って何年だ、と考えて、すごく中途半端な値になることに気付く。
「そんなん分かるわけないやん」
「俺も知らんわ、せっかく名前誘うのになんかないかなーと思って調べとったら今日やってん」
「千日かぁ」
普段意識しない数字だからよく分からないけれど。二十四時間が千回と考えたら途方もなく長く感じるし、でも三年弱と考えたら長いのか短いのかよく分からなくなる。
「そんな長いこと一緒におるんやなぁ」
「えぇ?俺はそんなもんかーって思てんけど」
「……そう?」
なんとなく呟いたその言葉に、簓は少し驚いたような顔をして、それからむすっと頬を膨らませ、いかにも不満をあらわにした。
「まだ何十年も一緒におんのに、これくらいで長い言われたら困るわ」
「……へっ」
さらりと吐きだされたその言葉に思わず足を止めてしまうと、手を繋いでいる簓も一拍遅れて立ち止まることになる。
「簓、それは」
もしかしたら、いや、でもきっと今日ではない、そんなふうに思っていたそれとも取れる言葉を、まるで世間話のような気軽さで突然に繰り出されて、頭が真っ白になった。呆然と立ち尽くす私をじっと見て、簓は「そんなとこで止まったら邪魔なるで」なんて言って再び歩きだしてしまう。
なんだ、深い意味はないのか、そんなふうに思って安心半分、落胆半分で斜め前の緑のグラデーションカラーを眺めていると、ちらりと覗く耳が嘘みたいに真っ赤で、息を呑んだ。
それは、つまり、そういうことなん?なんて訊く勇気もなければ、そもそもそんな空気でもなくて、私はこのあとどんな顔をしてご飯を食べればいいのだろう、と頭を悩ませることになった。