飯食って、風呂入って、ぼちぼち寝よか――なんて時間に電話をかけてくるのは、簓か名前の二択だった。
二択とは言ったものの、まあ九割は簓だ。名前はよほど急ぎの用事でない限り、翌日にするかメールで送ってくる程度には良識がある。だから、スマホの画面に表示された名前に俺は少し驚いていた。
『ろしょー……まだ起きてる……?』
「起きてるから電話出たんやろ」
甘えるような、少し舌ったらずのその声は、名前が何か頼み事があるときに出すものだ。思わず返事も刺々しくなる。しかし名前は全く意に介した様子はなく、
『……今から行っていい?』
「はぁ?何や急に」
いくら俺たちが長年ともにいる幼馴染とはいえ、一応年頃の男女である以上、こんな時間に互いの家を行き来する理由はない。とはいえ、時折名前の声が震えるのが気にならないといえば嘘になる。
「何かあったんか?今日簓おらんのか」
『簓、今日帰ってくるの遅いねん……』
弱々しい声音で名前は答える。本当に何かあったらしい。さすがにこの時間に出歩かせるわけにはいかないし、俺が名前の家に行く用意をするべきか、なんて考え始めたときだった。
『簓おらへんのに怖いテレビ見てもうた……』
「…………は?」
上着に伸ばしかけていた手が止まる。思わず耳に当てていたスマホの画面を凝視したが、ビデオ通話でもないのに名前の顔が映るわけがない。
名前の言葉は続かない。それ以上でもそれ以下でもないとばかりに。
「……分かった。俺がそっち行くから大人しくしとき」
『え!?いいん!?』
「……まあ、気持ちは分かるしな」
――怖いの、無理やって分かってても見たなるんよな。で、死ぬほど後悔するんや……さすがにそれで名前や簓呼び出そうと思ったことはないけど。
結局、俺は上着を羽織り、名前のもとへ馳せ参じることになるのだった。幸いにも今日は金曜日だったから――アイツ、それを見越してやってんちゃうやろな。
* * *
「盧笙ー!ありがとー!」
ドアを開けるなり、俺に飛びかからん勢いで飛び出してくる名前の額を押さえつけて止めた。リーチの差があるので名前の手は空を切る。
「来る途中にコンビニで酒
買うてきたったから、これ飲んで寝え」
「寝かせ方が雑すぎひん?」
靴を脱ぎつつビニール袋を差し出せば、名前は大人しくなってそれを受け取った。
「お酒でごまかせるんやったら最初っから飲んでるし」
「ごまかすんやなくて寝ろ言うてんねん」
踵を返してリビングへ向かって歩き出した名前の後頭部に手刀を落とすと、名前はちらりとこちらを振り返って不満げに唇を尖らせる。しかしこんな時間に呼び出した負い目があるからか、一応それ以上の文句が飛び出してくることはなかった。
「……それより、帰ってきて俺おったら簓びっくりせえへんか?」
「その気持ちについては盧笙のほうが詳しそうやけど」
「……それもそうやな」
――俺は合鍵で入ったわけやないから簓とは比べもんにならんけど。たまには自分のやってること客観視せえ。
「なあ、この量、盧笙も飲むんやんな?おつまみ出すから座っとって」
嬉しそうにビニール袋を持ち上げながら言うと、名前はキッチンへ消えていった。
電話口で半泣きだったのが嘘みたいに楽しそうな名前の様子に、少しほっとする。誰がどう見ても自業自得とはいえ、さすがにあの状態の名前を見捨てられるほど冷徹ではないつもりだ。
(そういえば、何見とったんやろ)
ここへ来る途中で番組表を確認してみたが、今日はそれらしき番組はなかった。録画かDVDだろうと思い、勝手にレコーダーのリモコンを拝借すると、やはり数日前の番組の録画が表示される。なんとなく、ほんの好奇心で再生ボタンを押した俺は、名前とふたりで震えながら簓の帰りを待つことになるのだった。
* * *
「ただいまー」
その日、家に帰れたのは深夜二時。先輩の飲みに長々と付き合わされてから帰宅した。こんな時間だというのにリビングに何故か明かりが灯っているのを不思議に思いつつ呼びかける。返事はなかった。
玄関で靴を脱ごうとしてふと見下ろすと、見慣れた俺と名前の靴の他に、スニーカーが一足。しかしそれも同じくらい見慣れたものだ。
「……盧笙?」
俺の家の玄関に盧笙の靴があるなんて、ずいぶん久しぶりな気がする。いつもこちらから押しかけてばかりだからだ。
しかし、こんな深夜に、しかも俺のいない間に?ぽこぽこと浮かび続けるクエスチョンマークを振り払い、リビングへ向かう。
光の漏れるドアをゆっくりと開けると、まず名前の姿が目に入った。ビールやチューハイの空き缶が転がるローテーブルに突っ伏して、すうすうと寝息を立てている。その背中には俺のものでも名前のものでもない、しかしどこか見覚えのある黒いコートがかけられていた。
それから部屋へ一歩足を踏み入れると、今度は床で潰れている盧笙の姿が見えた。
(何や、俺がおらん間に酒盛りしてたんか……?)
名前の背中に掛けられているコートをよく見ると、盧笙がいつも着ているものだった。先に寝てしまったのは名前だったのだろう。
一体いつから寝ているのか知らないが、盧笙もこのままでは風邪を引くと思い、寝室から毛布を取ってきて掛けてやる。
名前はパジャマ姿だし、盧笙も髪を下ろしているし、ふたりとも風呂は済ませているということだろうか。
(俺らやなかったら修羅場やで、こんなん)
呑気な寝顔を晒すふたりに苦笑しつつ、俺は静かに空き缶を回収する。帰宅して早々、何をやらされとんねんという思いがないわけではないが、いつも盧笙に似たようなことをさせていると思うと、自然と体が動くというものだ。なるべく静かにと注意してはいたが、不意に空き缶同士がぶつかってカランと音を立てると、床で潰れていた盧笙がぱちりと目を開けた。
「……簓……おかえり」
「ただいまーってなんか変な感じやなぁ」
盧笙に歓迎されるの久しぶりや。ここ俺んちやけど。
「盧笙がこっち来てるなんて珍しいなぁ、名前に呼び出されたんか?」
「あー……」
唸るような声を上げながら盧笙がしかめっ面で髪をかきあげるのは、回答に悩んでいるからなのか酒が回っているからなのか。
「……簓、今日泊めてくれ」
「いや、今から帰れなんて言わんけど……」
……何や、何や、ホンマに何があったんや。一人暮らしの盧笙が家出する謂れはないはずやろ。部屋にゴキブリでも出たんか、って盧笙がそんな可愛い理由で飛び出してきてたまるかい。名前やったら盧笙んとこ飛んでくやろうけど。それか、こうやって盧笙を呼び出して……、
「……あ。分かったかもしらん」
この数日の名前の様子を思い出す。季節外れの心霊特番を録画して、俺がおるときに見るんやと宣言していた。怖いくせに見たがりやねんな。
それで、我慢できずに見たもののひとりが怖くなったか、あるいは俺の代わりに盧笙を呼び出して一緒に見たか……そんなところだろう。盧笙は盧笙で、こんなナリをしておばけだ幽霊だといったものが苦手なのだ。眼鏡外したおまえの顔見たら幽霊のほうが逃げ出すっちゅうねん。
(……で、酒頼って寝てまおうって魂胆か)
おそらく今日見たテレビ番組のことなどすっかり忘れて幸せそうに寝息を立てている名前を見ると、それが正解のように思えてしまう。
「じゃ、盧笙どこで寝る?ここに布団持ってきたろか」
「……おまえ、大体察してんのやろ」
恨めしそうに俺を睨みつける盧笙の形相は、やっぱりこの空間で一番恐ろしいと思う。
「だからって俺と名前と同じ部屋で寝んの、それはそれでなかなかやろ」
「別に今日はええやろ……名前潰れてるんやし……その状態の名前に手ぇ出すんやったら俺がおまえに手ぇ上げる」
「おまえが言うたら洒落にならんわ……出さへんし」
俺と盧笙がすぐ近くでこれだけ喋っているというのに、まるで夢の世界から帰ってくる様子のない名前の脇に手を差し込み、ずるずるとテーブルの下から引きずり出すが、名前の寝息は途切れることを知らない。
「起きんかい、この酔っぱらい、ベッドで寝え」
盧笙が目を光らせている横ではどんなに軽い力でも叩くなんてことはできず、少し迷ってから首筋に指を這わせた。さすがの名前も「ひぇ」と可愛らしい悲鳴を上げて目を覚ます。
「あ……、さ、ささら……?」
「ほら、起きたんやったら歯ぁ磨いてきぃ」
「……え、あれ、盧笙おる」
驚いた様子で俺を見上げていた名前だったが、不意に盧笙の存在に気付くとそんなことを言った。おまえが呼んだんやろ、と盧笙が表情だけで雄弁に語っている。
「盧笙も今日泊まりやから、三人で川の字なって寝よな」
「いや、寝えへんわ。床に布団敷いてくれや」
「最近な、ベッド大きいのにしたから三人でも寝れるで!」
「だから寝えへんて」
示し合わせたわけでもないのにふたりして盧笙を誘う。あいにくこの空間には酔っぱらいしかいないのだ。
「盧笙、ベッドの下
怖ない人?」
「……なんでおまえはわざわざそれを口に出すねん」
狙っているのかいないのか、名前は悪気なんて微塵もなさそうな顔でけろりと言った。しかし盧笙はそれを聞いた瞬間に意識してしまったようで、恨めしそうに名前を見る。
「……まあ、それくらい我慢するわ……家にひとりでおるよりマシやし」
もはや帰りたくない理由を隠すことすらせず、盧笙がそんなふうに言うと、名前は不満げに唇を尖らせた。
「嫌や、川の字で寝る」
「だから、」
「簓だけやったら片方しかガードできひんやんか、盧笙も一緒に寝よ」
「はぁ?さっきまで無防備に爆睡しとったやつが何言うとんねん」
――いや、そもそもガードて何やねん。怖がりの考えること分からへんねんけど。ふたりして真面目な顔して……。
「じゃあ私が寝るまででいいから!」
「いや、俺いま布団入ったら三秒で寝る自信ある」
「盧笙酔うてなくてもそんな感じやと思うけど」
もはや半ば喧嘩腰の名前に、盧笙も明らかにムッとしている。さすがに間に割って入った。
「まあまあ、とりあえずふたりとも寝る準備してきいや、俺が片付けしとくから、な」
仕事終わりの俺が困った顔でそう言えば、ふたりはハッとして申し訳なさそうに眉根を下げる。「ごめん……」と声を合わせて、いそいそと立ち上がった。洗面所に向かう名前に対し、盧笙は「ジャージか何か借りてええか」と言って寝室へ向かう。
まさかここまで白熱するとはなぁ、と苦笑しつつテーブルを片付ける。洗い物は明日でもいいだろう。
名前と盧笙がどこで寝るのかを決めたら俺はシャワーを浴びないと眠れないのだが、洗面所へ行ったはずの名前が帰ってこない。それに盧笙も。不思議に思って寝室へ向かうと、またドアの隙間から明かりが漏れている。デジャヴやなぁ。
「盧笙、寝間着決まっ……」
ドアを開けながら言いかけた台詞が止まる。声を出してはいけないと脳が瞬時に判断したからだが、その後どうすればいいのかはさっぱり分からなかった。
(……なんでそうなるん?)
最近買い替えたばかりのキングサイズのベッドで、何故か名前と盧笙が寝息を立てている。俺と寝るときと同じように定位置でしっかりと布団を被っている名前に対し、盧笙は誘惑に堪えきれなかったのか力尽きたのか、端のほうで布団も被らず小さくなっていた。
ついさっきまで散々言い合っていたのは何だったのか。呆れ果てているはずなのに、つい笑いが込み上げてくる。
(で……結局俺が床で寝るんか)
ホンマに意味分からへんねんけど、なんて悪態をつきつつも、眠りに就いてしまったふたりを叩き起こすなんてこともできず、俺はひとまず踵を返してシャワーを浴びることにした。