「どついたれ本舗さんいますかー」
ライブを終え、盧笙とふたり帰り支度をしていると、ノックのあと控えめに開けられたドアの隙間から、そんな言葉が聞こえてくる。ちらりと顔を覗かせたのは見覚えのない男だったが、首からスタッフパスを提げていたので、おそらく劇場の関係者だろう。
「あの、今日誰かと待ち合わせしてたりします?」
「……はい?」
おずおずと尋ねられたそれに、盧笙と顔を見合わせる。待ち合わせといえば、このあと名前と合流することくらいしか思いつかなかった。
「さっき出口でお客さんの女の人に声掛けられて、体調悪いから先に帰るって、どついたれ本舗のどっちかに伝えといてくれって……何のことか分かります?」
名前訊く前に行ってもうて……とスタッフの彼が申し訳なさそうに続けたのは、ほとんど耳に入っていなかった。一瞬固まってしまった俺に対し、盧笙はすぐさまバッと立ち上がって「それ、いつの話ですか」と彼に詰め寄る。
「えーと……まだ五分も経ってないと思いますけど」
「分かりました、ありがとうございます」
完全に置いてけぼりになっている彼にはお構いなしで、盧笙は再び勢いよく俺を振り返り、
「簓、十秒で出るぞ」
「いや、無茶苦茶言うやん?この散らかりよう見えとる?」
言いながら俺が指差す先には、脱いだばかりの衣装や小道具や私物が散乱している。これが俺達だけの個室なら全部リュックに詰め込んでしまえばいいのだが、こんな小劇場で、しかも特別売れているわけでもない俺たちにそんなものがあるはずもなく、他の芸人たちのものと間違えないように荷造りをしなければいけないのだから、たった十秒で出られるわけがない。
それは盧笙も分かっているのか、ぐ……と言葉に詰まったあと、
「じゃあ俺が先行って追いかけるから荷物頼むわ」
「えっ、あ、盧笙!」
引き留める間もなく、楽屋を飛び出して走って行ってしまった。
……俺かてそっちの役目がよかったわ。なんてふてくされながら、俺は渋々帰り支度を再開した。
* * *
頭が痛い。身体が重い。ライブ中は楽しく笑っていたから全然気付かなかった身体の不調が、終演と同時にどっと押し寄せてきた。本当はいつものように三人でご飯にでも行くつもりだったのだが、それどころではなくなってしまった。しかも、そういうときに限ってスマホの充電が切れているときた。仕方なく帰り際に捕まえたスタッフに伝言を頼んできたが、無事に伝わっただろうか。いつもならなんてことはない駅までの道のりが、ひどく長く感じる。重い足を引きずって大通りを歩いていると、不意に誰かに肩を掴まれて、ふらふらしていたのもあってバランスを崩すと、ぽすんと軽く抱き留められた。
「おまえなぁ、調子悪いなら悪いで待っとかんかい」
「……盧笙」
もたれかかった胸元は大きく上下していて、見上げた顔は真っ赤で、ぜえぜえと呼吸を荒くしていて、盧笙がここまで走ってきたのは一目瞭然だった。
「……大丈夫?」
「そらこっちの台詞や、大体なんで今どき伝言やねん、ケータイどないした」
「充電切れてる」
しかめっ面を見上げながら答えると、盧笙はそれはそれは大きな溜息を吐いた。それから私をしゃんと立たせると、荷物を奪い取り「帰るぞ」と言って歩き出した。
「あれ?盧笙、手ぶら……」
「簓に頼んできた」
……たぶん頼んだんじゃなくて押し付けたんだろうな。盧笙の心配性は相変わらずだ。
今のやり取りでようやく簓の存在を思い出したのだろう。盧笙はスマホに何やらメッセージを打ち込んでいる。ぼーっとそれを眺めていると、ふとこちらの視線に気付いた盧笙と目が合った。
「簓が薬とか
買うてきてくれるらしいから、俺らはまっすぐ帰れって」
「盧笙、簓パシりすぎちゃう……?」
「……今のはアイツから言い出したことや」
荷物の件は自覚があるらしい。少し気まずそうに視線を逸らす盧笙に、ふふ、と小さく笑い声が漏れた。
* * *
おぼつかないながらも自力で歩いていた名前だったが、帰宅するなり上着も脱がずベッドに飛び込んでしまった。
「おい、寝るんやったら先に着替えだけでも……」
本格的に寝入ってしまう前に起こしてやろうと手を引くと、握った掌がずいぶん熱くて思わず言葉に詰まった。
名前の看病をするのは初めてではないので、体温計の場所は知っている。勝手に引き出しを開けて取り出したそれを手渡せば、名前はゆっくり起き上がって素直に受け取り、もそもそとセーターをまさぐりはじめたので、慌てて後ろを向いた。
ピピ、とくぐもった電子音のあと、名前はわずかに呻いて「七度八分……」と呟いた。
「なんでそんなんで外出てくんねん」
「お昼は元気やったもん」
振り返って手を伸ばせば、これまた素直に差し出された体温計をケースにしまい、枕元に置く。
「簓来る前に着替えて化粧落としとき」
「ええ……」
素直に「うん」とでも返ってくるかと思っていたので、なんだか不服そうなその声に少し驚いた。黙ってしまった俺をちらりと見上げてから、名前は膝を抱えて袖口に顔を
埋め「すっぴん見られたない……」などと言う。
「女子か」
「女子やん!盧笙はもう今更やからええけど、簓は嫌や……」
俺はいいのに簓は嫌とは、どういう感情なんだろうか。化粧を覚える前からの付き合いである俺に見られたところで、という気持ちは分かるのだが。好きだから?それとも嫌いだから?そんな女心というものが分かるほど俺は大人でも経験豊富でもなかった。
「……じゃあ、
買うてきたもんだけ置いて帰らすか?」
「そ、そんな冷たいことせえへん!」
……どないせえっちゅうねん。以前、寝落ちした名前をそのまま寝かせておいたら、化粧落とさんかったから肌荒れた、と文句をつけられたことを思い出す。このままにしておくという選択肢はないはずなのだが。
「自分そんな顔変わるほどの化粧してへんねんから、気にせんでええやろ」
溜息まじりに、思ったことをそのまま呟けば、名前は怪訝そうな表情で睨みつけるようにしばらくこちらを見つめたあと「……ホンマに?」と訊く。
「知らんけど」
「……盧笙のアホ」
そう言うと名前は再び俯き黙り込んでしまった。早く寝かせてしまいたいのだが、どうしたものか。
腕を組み考え込んでいると、不意にポケットに入れていたスマホが震える。
「簓、駅着いたって。もう来るで」
「え、」
「来てから化粧落として露骨に比較されるより、はなからすっぴんで出迎えてもうたほうがよくないか?」
「え、え?そう……そうなん?」
口から出まかせだったが、熱で頭が回っていないのか、名前は少し迷いはしたものの、慌てて洗面所へ向かって歩き出した。
……言うといてあれやけど、色々心配になるな。まあ、簓に言わせれば俺ほどやないらしいけど。
名前が脱ぎ捨てていった上着をハンガーに掛けていると、インターホンが鳴って名前が洗面所で「うわ!」と声を上げた。
「俺が出るから急がんでええよ」
そう声を掛けて玄関へ向かう。しかし、いくら名前の家が駅から近いとはいえ早すぎないか。ドアを開けると、案の定、簓はぜえぜえと肩を上下させていた。両肩にリュックサックをふたつと、両手にドラッグストアの袋を提げて。
「あー……なんか悪かったな」
「悪かったな、ちゃうわ!名前のためやなかったらホンマにしばき倒してるからな!」
とりあえずビニール袋のほうを受け取り、簓を出迎える。簓は脱いだスニーカーを揃えることも忘れ、重そうなリュックを玄関に投げ捨てると、バタバタと名前の部屋へ走り、開けっ放しのドアから中を覗き込んで「名前は!?」と声を荒げる。
「落ち着け、洗面所や、こら覗いたんな」
俺が答えるなり、予想通り再び走り出そうとする簓のパーカーのフードを引っ掴んで止めた。
……あいつがあんなに悩んでたんも知らんと、この男は。
「ここまで歩いてこれるくらいには元気やねんから、そんな心配すんな。それより
買うてきたもんで冷蔵庫にしまわなアカンのないか」
「あ、ある……」
見るからにしゅんとしながらも、簓はごそごそとビニール袋の中身を漁り、ゼリーにプリン、スポーツドリンク、氷枕と取り出しては冷蔵庫にしまい込んだ。
「どんだけ
買うてきてん」
「一人暮らしやったら何もないんちゃうかなーって思ってんけど、あ、氷枕あったやん」
それは以前、名前が風邪を引いたときに俺が買ったものだ。今の簓と同じくらい、あれこれ買い込んできて「どんだけこじらすと思ってんの」と冷ややかに言われたのを思い出した。
「あと、これは俺と盧笙の飯」
「……帰らん気か?」
「名前が寝るの見届けたら帰るやん」
盧笙もそやろ、と当然のように言われると、否定はできなかった。