扉の向こうから簓と盧笙の話し声が聞こえる。おそるおそる洗面所から顔を覗かせると、一瞬で簓と目が合って「あ!」と声を上げられた。
「名前、大丈夫やった?
早よ何か食べて薬飲んで寝よな」
すっかり防御力がゼロになってしまった顔を見られたくない私の内心なんて露知らず、簓はそうまくし立てながらこちらへ近付いてくる。両手で頬を押さえて後退ると、まるで逆効果だったようで、不思議そうにこちらを覗き込んでくるのだ。
「名前、どないしたん?どっか痛いん?」
簓のほうがよっぽどどこか痛いんじゃないかと思うくらい、しゅんと情けない顔をして言われては、見るなだとか近寄るなだとか、そんなことを言えるはずもなく。
「ち、ちがう、けど」
簓の肩越しに呆れ顔の盧笙が見える。分かってるんだから助けてくれればいいのに。
所詮小さなアパートの一室、数歩後退れば、とんと背中が壁にぶつかる。私が立ち止まれば簓も止まるが、もう十分に距離が近い。とうとう堪えきれず「あんま近寄らんとって」と溢せば、簓はぴたりと固まって、それから見たことがないほど悲しそうな顔をした。
「ちゃうって!化粧落としたからっ!」
「……化粧?」
あんまり悲痛な顔をする簓を見ていられず、慌ててそう弁解すれば、簓はぽかんとしながら私の言葉を繰り返し、じいとこちらを眺めたかと思うと、はっとして視線を逸らした。
「ごっ、ごめん!いや、別に普段と変わらんやんと思って、でも名前が嫌なんやったら見んとくから」
言いながら、今度は簓が後退った。案の定、数歩下がったところで盧笙にぶつかって睨まれたわけだが。一歩、二歩と簓が遠ざかっていくのを見ていると、あんなに望んでいたことのはずなのに、どうしてか至極寂しくなった。風邪を引いて弱っているせいだろうか。
「名前、飯食える?今から用意してたら
遅なるかと思ってレトルトで悪いんやけど、おかゆとか
買うてきたから」
冷やさなければいけないものはあらかた冷蔵庫に詰め終わっているはずなのに、まだ半分ほど中身の残っているビニール袋をがさがさと漁って、簓はレトルトのパウチをいくつか取り出す。よく見ると全部味付けが違うのは、少しでも私が食べたくなるように、なんて考えてくれたからなんだろうか。
同じことを盧笙がやっても、きっと、さすが盧笙やなあで終わってしまうのに、簓がやってくれたというだけで、どうして私はこんなに嬉しくなってしまうのだろう。
* * *
俺たちが弁当を食べるのをじいと眺めながら、名前はちびちびとおかゆを啜り、なんとか完食すると薬を飲むなり眠ってしまった。男ふたり家に上げているとは思えないその穏やかな寝顔を見ていると、つい「油断しすぎやろ」なんて愚痴も吐きたくなってしまう。
「そら、盧笙っちゅうセキュリティーついとるしなあ」
空になった弁当の箱を静かにビニール袋に詰めながら、簓はどこか面白そうに言った。
「それが油断や言うてんねん、俺かて一応男やろ」
「名前が体調悪いー聞いて、あんなふうに飛び出すやつが弱ってる名前に手ぇ出すわけないわ」
「……おまえは名前の何やねん」
ほとんど独り言のように呟けば、なぜか簓は冷笑を浮かべる。
「何の顔や、それ」
「んーと……盧笙、気ぃ付いた?」
割り箸の袋を指で弄びながら、簓は少し考えて言葉を紡いだ。
「俺名前のすっぴん見るの初めてやないってこと」
「……そうなんか?」
――じゃあ、なんであんな嫌がったんやろ。忘れてたんか?
わずかに眉間に皺を寄せた俺に、簓は「いや、自分こそ何の顔?」と不思議そうだった。
「前は何ともなかったのに、なんで今日はあんなに嫌がったんかなあと思てなぁ」
「嫌われるようなことでもしたんちゃうん」
思ったことをそのまま答えれば、簓はすっかり呆れ返った様子でこちらを見た。
「え、本気で言うてる……?盧笙の目は節穴なん……?その眼鏡、レンズやなくて板でも挟んどる……?」
「この眼鏡寄越したんおまえやろが」
そうツッコめば、簓は嬉しそうに含み笑いをする。ひとしきりニヤケ面を晒すと、何か改めるようにふうと息を吐いた。
「まあ、嫌われた可能性もないわけやないけど、あの名前のリアクション見てそう思うんやったら自分だいぶヤバいで」
女心どころか人の心分かってないやろ、って、そこまでやないわ。
簓はおもむろに膝を抱え顔を
埋める。名前もさっき似たようなことしてたな、なんて思いながら、なんとなしにその様子を眺めていた。しばしの沈黙のあと、簓はちらりと顔を上げこちらに視線を送り、
「……ちょっとは期待してもええんちゃう?」
……期待って何や。そんなことを言おうものなら、おまえホンマ人の心ないなーとかボロクソに言われるのは目に見えていたので、口をつぐんだ。そんな俺の様子を見て、簓がまたニヤニヤしながら口を開こうとしたところで、名前が「ん……」と声を漏らしながら寝返りを打ち、こちらを向いた。
「あー……女の子の部屋に長居したアカンよな……もうこのまま朝まで寝てそうやし、今日は帰ろか」
「今日は、って、おまえ明日にでも来そうな言い方やな」
汚れた食器を片手に立ち上がる簓に言うと、心底不思議そうに「えっ、アカン?」と言われてしまった。全く、こいつの過保護っぷりには恐れ入る……が、さすがにこれに関しては俺にどうこう言う自覚がないのは自覚していた。
「……俺、明日バイトやし、頼むわ」
「任しときー」
ケラケラと笑いながら台所へ向かおうとする簓に続き、俺もゴミをまとめた袋を片手に立ち上がる。その瞬間、シャツの裾をくいと引かれる感覚によろめいた。何か引っかけたかと思って慌てて振り返ると、紛れもない、布団の中から伸びた名前の手が俺のシャツの裾をしっかりと握りしめている。まごつく俺を簓が不思議そうに振り返って、その原因に気がつくと、じとっとした目で俺を睨みつけた。
「名前、手ぇ離し」
ゴミ袋をいったん床に置いて、ぎゅっと閉じられたその小さな拳を開こうとすると、名前はわずかに顔を顰め、
「……簓、」
極めて小さな声でそう呟くと、再び穏やかな寝息を立て始めたが、残されたこちらは全く穏やかではない。
何故か突然名前を呼ばれた簓と、何故か簓と間違われた俺と。ふたりしてぽかんと開いた口のふさがらない間抜け面を晒して、しばらく動けずにいた。どちらからともなく互いに視線を送り、無言のままそろそろと部屋を出る。ぱたん、と背後でドアの閉まる音がすると、俺は簓を振り返り、
「は?なんでおまえの名前呼ばれながら引き留められなアカンねん」
「え、キレるん?俺今めちゃくちゃ喧嘩売られてるん?」
一応扉の向こうとはいえ名前を起こしてしまわないよう、声量は落としたまま簓に突っかかる。理不尽なのは百も承知だが、どうにもモヤモヤする。
「こういうとき名前呼ぶなら、普通俺やろ」
ほとんど無意識に出てきたその言葉に、自分で驚いた。思わず口を手で押さえると、簓も鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見ていた。
「……な、なに?盧笙もしかしてヤキモチ妬いてるん?」
「はぁ?妬いてへんわ」
「いや、説得力無いわ……」
そう言う簓は、いつも以上にだらしのないニヤケ面を晒していて、考えていることは手に取るように分かる。夢うつつの名前に名前を呼ばれて、相手こそ勘違いされたものの、縋るように引き留められて、それはそれは嬉しいのだろう。
「ニヤニヤすんなや」
「しっ、してへんし」
冷ややかな視線を送りながら言い放つと、簓は慌てて顔を背け、玄関に放り投げたままだったリュックを拾って外へ向かった。少し遅れて俺も続く。
……食器洗いしてへんけど、簓が明日やるんやろ。
「自分ら、俺が知らんうちにくっついとったん?」
「ハ!?」
アパートの階段を下りながらおもむろに問うと、前を歩いていた簓はガバッと振り返り声を荒げた。
「……いや、仮にそんなことになっとったとして、盧笙に黙ってるわけあらへんし、そもそも黙ってられる気がせえへん」
「それもそうやな」
そう返すと簓は「納得された……」と至極複雑そうに呟いてから、再び歩き出した。
エントランスを抜けると、簓はゆっくりと立ち止まり振り返る。簓はおそらく駅に戻り、俺の家はそれとは逆方向にある。盧笙の近くなら安心だから、と名前とは最寄り駅が同じだった。
「じゃあ、明日頼むわ」
「そのことやねんけどな」
ひらりと手を上げて立ち去ろうとした俺を簓が呼び止めた。何事かと思い立ち止まると、簓はにへらと笑って、
「このまま盧笙んち泊まったほうが名前んち近いやん」
「……そういうことかい」
いつもなら「知るか、帰れ」と言うところだが、名前のことを出されるととてもそんなことは言えなかった。仕方なく、再びふたりで並んで歩く。
「名前、さっきのこと明日なっても覚えてるかなあ」
「覚えてへんやろ、よう寝とったし」
熱に浮かされた名前以上に、ぽやぽやと浮ついた様子の簓を横目に見ながら、俺はようやく、名前があんなに簓にすっぴんを晒すのを嫌がった理由を理解した。期待してもええんちゃう、なんて簓は嬉しそうに言っていたけれど、俺も同じ気持ちだった。