(は……今何時や)
テレビを点けっぱなしで船を漕いでいた、現在の時刻は23時30分。あと30分程で日付が変わる。
テーブルに置いていたスマホに手を伸ばすと、チカチカと点滅する通知ランプ、しかし一番待ちわびている通知はない。
「も〜日付変わってまうでぇ……」
ふと思い出す、数日前の名前との会話。
『10月31日?』
『天才の日ぃや!覚えやすいやろ!』
『誰が天才や、誰が。しかも普通その前にハロウィンとかあるやろ』
天才の日でもハロウィンでもどちらでもいいが、これだけ言えばまさか日付を失念することはあるまい。
(単純に、俺の誕生日なんかどうでもえぇってか)
もう祝われて喜ぶような歳でもないし、大御所や先輩からの連絡に返事をするのは気を遣うし、そろそろ「もうえぇわ!」で止めさせてほしいくらいなのだが、それでもなお名前からの連絡はない。
「別に誕生日なんかに執着するような歳でもないし、今まで気にしてへんかったのになぁ……」
今年は名前と迎える初めての誕生日だったから、期待してしまった。豪華なプレゼントが欲しいわけではなく、ただ一言、大好きな人に「おめでとう」と言ってほしかっただけなのに。
「……そない贅沢なことかいな」
明日も早い、今日はもう潔く寝てしまおう。そう思ってリビングを出ると、廊下の先でガチャンと音がした。玄関の鍵が開いた音だ。こんな時間に誰が、と思うが、この部屋の合鍵を持っているのはひとりだけだった。
「あら、簓もう寝るん?」
今日一日、ずっと待ちわびていた人の姿がそこにあった。来てくれたんかとか、来るん遅ないかとか、他に言うことあるやろとか、様々な感情がどっと溢れてきたが、言葉になったのは、
「何こんな時間に一人で出歩いとんねん」
「そう言われると思ってタクで来ました〜」
言いながら名前は後ろ手に鍵を締め、遠慮の欠片もなく上がりこんでくる。
「そういう問題やないわ」
「じゃあ来んほうがよかったん?」
そう言われると、言葉に詰まってしまう。内心でずっと名前のことを待っていたのは紛れもない事実で、口ではこんなことを言ったが、
(正直めちゃくちゃ嬉しい……)
何も言い返せずにいると、名前は楽しそうにニタニタと笑って「嬉しい〜って顔に書いてあるな」と言った。
「そりゃ……嬉しいやろ、今日何の日か」
「知ってるよ、お誕生日様やろ?」
「……知ってるならおめでとうの一言くらい言うてくれてもえぇやん」
コイツの前ではもうどう取り繕っても無駄だと察して、素直に不満を漏らすと、名前は一瞬ポカンとしたあと、また目を細めた。
「簓クン可愛い〜」
「馬鹿にしとるやろ」
「ごめんごめん、あ、今更やけど邪魔すんでー」
狭い廊下で俺の横をすり抜ける気にはならなかったらしく、くるりと身体を回転させられ、再びリビングへ向かうように背中を押される。それを踏みとどまり顔だけ振り返ると、名前は俺を見上げて不思議そうな表情をした。
「帰ってーとか、今は言われへんで」
「お笑い芸人失格やん」
それはそれで聞き捨てならないが、仕事中ではないのだから関係あるまい。
名前は再び背中を押す手に力を込める。今度は素直に従って、再びソファーに腰を下ろした。
スマホと財布くらいしか入ってないのであろう小さなバッグを床に置いて、名前も隣に腰を下ろすと、ふと、未だチカチカとその存在をアピールする俺のスマホを見やった。
「さすが売れっ子は違うなぁ、めっちゃ光ってるで」
「誰かさんと違ってみんな優しいわぁ」
「ごめんて、もう機嫌直してや」
苦笑しながら、名前は身体ごと俺のほうを向く。じっと視線を感じて、俺もおもむろにそちらへ顔を向けた。視線が交わると、名前は笑みを浮かべる。先程までの厭らしい笑顔ではなく、ようやく俺がこちらを見てくれたことが嬉しくて仕方ないような、そんなふうに見えてしまうのは俺の願望だろうか。
「簓、誕生日おめでとう」
あぁ、今日一日欲しくて欲しくて仕方なかった音が、ようやく聞こえた。昼間にも同じことを何度も何度も言われたはずなのに、それらとはまるで違う。優しい声が鼓膜を震わすと、心臓がとくんと大きく脈打つのを感じた。胸の真ん中からじんわりと体温が上がる。それからぎゅっと締め付けられるような心地がして、少し苦しいくらいなのに、無意識に出た言葉は「もっかい」だった。
「欲しがるなぁ。誕生日おめでとう、簓」
そう言って名前は俺に微笑みかけてくる。
(あぁ、もう、好き……)
一層細くなった目を見つめて両腕を広げると、名前は少し呆れたようにフフと笑いながらも、俺の胸に身体を預ける。それをぎゅっと抱き締めると、また笑ったのか小刻みに肩が震えた。
「……なんでこんな焦らしてくるん」
名前の頭越しに時計を見ると、時刻は23時45分。まさかこのギリギリに思い出してわざわざ家に来るとも思えないし、狙ってやったことなんだろう。
「ずっと待ってたん?」
「そりゃ、まぁ」
「簓は人気者やから、いっぱい連絡来てるんやろなぁって思って」
質問の答えになっていないそれに唇を尖らせていると、名前は不意に顔を上げて続ける。
「女は、好きな男の“最後”になりたいもんやねん」
「それは、」
「簓の特別な日の最後、絶対私が貰たろと思って、ずーっと待っとった」
名前はそう言って腕の中でもぞもぞと動き出したかと思うと、首を伸ばして俺の頬にちゅ、と口付け、照れくさそうに笑った。
赤くなった頬に手を添えて唇にやり返す。
「俺の誕生日やねんから、貰うんは俺やろ」
「……スケベ」
「こんな時間に来といて、よう言うわ」
両肩に手を添えると名前はそれを制して小さな声で「待って」と言う。
「生まれてきて、私と出会ってくれて、ありがとうな、簓」
「そりゃお互い様や」