君の背中を見る俺は

高校生最後の夏休み、啓ちゃんが毎日学校にくるのは去年と変わりないのだけれど、いつも通りの音楽室ではなく、教室で補習を受けていた。

休憩時間に啓ちゃんのいる教室に行くといつも補習中で話しかけられず、そっと窓から手を振っても気づいてもらえない。

「戻るぞ」
「岩ちゃん寂しくないの?」
「いつも一緒に帰ってるだろ」
「そうだけどさ」

岩ちゃんに連れ戻されて体育館に戻る。

体育館から出ると聴こえる音がないのはやはり悲しいものだ。

バレー部の練習中はピアノが聴こえなくなる。だから俺も練習に集中できるのだけれど、ふと練習を中断する度に耳を澄ませてしまう自分に少しだけ笑いが込み上げる。

啓ちゃんの存在を感じることが安心感に繋がるこの気持ちは、岩ちゃんにトスをあげる時のような、そんな感じだ。

練習が終わってからまたサーブ練習をして、トスを上げて、それから部室に戻るために体育館の外出てから耳を澄ませると綺麗なピアノの音がした。今日も閉校時間までピアノを弾いて帰るらしい。

スマートフォンで一緒に帰ろうね、とメッセージを送ると、ピアノが鳴り止み、いつものことでしょ、と返信が返って来た。

なんだか今日は啓ちゃんが遠くに行ってしまいそうで怖かった。

音楽室の扉を思い切り大きく開けると、いつも楽しそうにピアノを弾いている啓ちゃんが、メトロノームをカチカチと鳴らしながら真剣な顔をして同じフレーズを繰り返し練習していた。

「啓ちゃん!」
「及川、岩泉、お疲れ様」
「啓ちゃんもね! それよりさ!」
「何?」
「啓ちゃん最近忙しそうだけど大丈夫?」
「俺? そうだな、大変だけど大丈夫だよ」
「そうなの?」

そう話す啓ちゃんは少しだけ眉を下げて笑った。

「何頑張ってるの?」
「今進学先考えててさ。音楽大学にいこうと思ってるんだけど、大学っていっぱいあるじゃん? いきたい大学の試験は2月に試験があるからいいんだけど、9月からの大学もあるし単位全部とっておこうと思って」
「へー……、え、え!?」
「ん?」

今、何て言った? と俺が言うと、去年から少しずつ夏休みに単位を取っていたんだと、また最初から丁寧に説明し始める啓ちゃんに頭を抱えた。だって知らない。進学するとは去年から言ってたし、海外に行くことも多かった。海外の大学って9月だっけ。あれ、啓ちゃん海外に行っちゃうの?

「及川聞いてた?」
「あ、ごめん」

綺麗な形の眉がぐっと寄り、深く皺を刻んだ。

その顔が少しだけ怖くて、啓ちゃんに詳しく進学先を聞き出せず、ぐっと言葉を飲み込む俺に、今度は啓ちゃんが話しかけた。

「及川、試合のスケジュール、送ってね。出来る限り応援行くから」
「ほんと!?」
「うん」

そう頷いた啓ちゃんを横目に、俺たちの会話を遮ることなく聞いていた岩ちゃんが、珍しく声を出した。

「なあ、海外の大学に行くってことだよな」
「そうだね。昔からお世話になっている先生に推薦状を書いていただく約束をしてるし、何とかして合格しないとってちょっと焦ってるかな」
「どこ行くんだ?」
「フランス」
「へぇ」

岩ちゃんは何事もないように話すが、俺としては大問題だ。まず何から聞けばいいだろう、と俺が頭をフル回転させているのに、岩ちゃんは「あ、そうだ」と思いついたまま啓ちゃんに再び話しかける。

「篠岡ってフランス語話せたか?」
「話せるよ。俺6月に東京行ってたの覚えてる? その時C1取った」
「なんだそれ」
「DALFのC1で、簡単に言えばフランス語の試験。俺けっこう勉強家だから」

ふふん、と少し得意気な顔をする啓ちゃんが可愛い。

「お前よくドイツ語圏に行ってなかったか?」
「ああ、あれは知り合いがオーストリアに住んでて、長期滞在はそこを間借りしながらパリに行く時はそこから更に飛行機使ってたから自然とそうなってただけ。ドイツ語の資格は中学の時にとってるよ。あっ、しまった……有効期限とかあるのかな……」
「オーストリアとフランスってそんなに近かったか……?」
「直行便で2時間くらいかな」
「近くはないな」
「まあね。でもあまりパリには行かなかったからなぁ。行ってもすぐ帰ってきてたし」

パリに長期滞在したこと無かった、と続ける啓ちゃんは顔に似合わずグローパルだ。

性格はどちらかと言えば落ち着いていて、休日は読書をして過ごします、と言いそうな顔をしているし、本当に勉強をしているかピアノを弾いているかの2択しかない生活を送っている事は知っていたが、それ以上に野心家で無理だろうと思うことも言葉通り無理してでも手に入れようとするタイプだ。

だから、どうしても啓ちゃんがどんどんと遠くに行ってしまう気がして怖い。

「及川? どうした?」
「ん、ああ。なんでもないよ」
「そうか?」

熱でもあるんじゃないかと俺の額に手のひらを当てる啓ちゃんの顔は優しくて、細く長い指が俺から離れる瞬間に、俺は啓ちゃんの手を引いて、腕の中に閉じ込めた。

「俺も! 全国行って、優勝するから!」
「……ははっ、何言ってるの急に。俺が応援に行くんだからよろしく頼むよキャプテン」
「信じて!」

啓ちゃんは俺たちのインターハイを知っている。俺も啓ちゃんが青城の応援に来てくれていたことを知っている。そしてあの日、啓ちゃんは何も言わず先に帰って学校でピアノを弾いていた。

ぐちゃぐちゃの感情に押しつぶされそうになりながら音楽室に行くと「まだ春があるんでしょ?」とバレー部でもないのに悔しそうに言った啓ちゃんの目を俺は忘れないだろう。
20160206



青城のピアニスト
16/17