掻き乱す人


名字名前という人間が新しく捜査対象として加わってから数ヵ月は過ぎた。
結果、親しくはなったものの何の成果も上げられずにいる。

彼女と出会ったのは毛利探偵に会った日で、彼女は俺を見てたしかに「ゼロ」と呼んだ。
公安を指す言葉だとしても俺自身を指す言葉だとしても「ゼロ」という単語は危険極まりない。
「安室透」として生きるようになってから数年、組織にも疑われず我ながらうまく潜入できていると思っていた。
一体どこでボロを出したのかがわからないが、彼女は確実に俺を知っている。


さらに彼女はある酒瓶を見ながら切なげに「スコッチ」と呟いた。
スコッチは一般人にとってはただの酒の名前だ。そのただの酒の名前をあれほどまでに切なげに呟けるものなのだろうか。

彼女はなんらかの形で組織、特にスコッチに関係し、俺のことも知っていると考えて、調べることにした。


さすがにいきなり恋人にはなれなかったものの、彼女の俺への警戒心は溶けつつあるし首尾は上々と言えた。

彼女がたまたまポアロの常連であったことも幸運だった。
彼女とはこまめにメールのやり取りをし、適度に食事にも行く関係になった。
話を聞いているとどこにでもいる普通の大学生そのもので怪しい言動はなかった。


いくら調べても腑に落ちないのが彼女の経歴だ。
日本で生まれ、幼少期は外国で過ごし、高校卒業をきっかけに日本に戻り浪人生活を経て現在大学生。
彼女のフルネームから調べた経歴と梓さんから聞いた彼女の生い立ち、彼女自身が言ってる内容には差違はなかった。


特に問題のない経歴に見えるが、それでも気になる部分は多い。
彼女が過ごしていた国はスコッチが組織の活動で潜伏していた国であること。
彼女が生まれた病院はすでに潰れており、医師や看護師についても高齢や事故が原因で全員死亡していること。
両親も亡くしている彼女が本当にこの国で生まれたという証明は誰一人としてできない状態なのだ。

大学に入学するまでの経歴も卒業したという書類は確かにあるものの、写真を始めとして、他に彼女がその国にいたという証明が全くない。
もちろん日本と勝手が違い、調べにくいところはあるが、最低限の書類でしか彼女の過去を証明することができないとなると何かの意図を感じる。


逆に彼女の現在の情報はあっさりと見つかった。
部下である風見に名前を元に調べさせたところ、住民票や浪人時代のバイトの情報、大学の昨年の成績、現在の時間割など、いともあっさり彼女の存在を証明することができた。



彼女を数日間尾行したこともあったが、調べた情報通りに大学やバイトに通っていた。

現在の彼女に怪しい点はない。…ゼロやスコッチなどと呟いたこと以外では。


彼女と同じ病院で生まれた人間は少なくないし、外国の情報が日本と同じくらい入ってくるとも限らない。
たまたま、彼女の経歴が怪しく見えるだけかもしれない。しかし過去の経歴が作られたものだとしたら、彼女は恐ろしく頭の切れる人間である。危険な芽は早めに摘んでおきたいと思い、疑い続けている。


いるのだが……彼女の最近の様子、特にお酒を飲んでいる彼女を見ると、疑っている自分がおかしいのではないかと思えてくる。


まさに今、自分の横にはワインを飲んでいる彼女がいる。
お酒で顔を赤くして、いや、この赤さはお酒だけではないだろうが。
なんにせよ、顔を赤くして、目が潤んでいて、安室透を真っ直ぐ見つめて、全身で好意を示している。
出会った頃の警戒心はどこにいってしまったのか、安室透の話にカラカラと心地いい声で笑い、時にうっとりと微笑む彼女はまさに恋する乙女と言っても過言ではない。

これで本人は安室への気持ちを隠している気になっているから堪らない。


彼女が未成年ではないと知り安心したが、これほど全身で好意を示されるとただの大学生に見えてくるし、自分がひどく悪いことをしている気になり良心が痛んでくる。


いやいや、この態度自体が計算なのかもしれない。嘘を付いているとしたら過去をうまく作り替えてそれを徹底し、一般人にうまく紛れることができる切れ者なのだ。
こうして全身で好意を示し、油断させる。ハニートラップの常套手段だ。
大体、安室透は彼女に好意を抱き、交際を申し込んだのだ。これほどまでに好意を抱いてくれている彼女がそのことを忘れているわけはないだろう。俺に近づきすぎたら不都合なことがあるが、なんらかの情報を手に入れたいと思っている……といったところだろうか。

それでも…
「あむろさん。あむろさんはギターもしてたんですねぇ。私も聞いてみたいなあ」
袖口を軽く引っ張りながらふにゃりとした顔で笑う彼女が嘘を付いているようには見えない。
もしこれが嘘でハニートラップなら、なんて恐ろしい女が自分の敵になってしまったんだと頭を抱えたくなる。

「……どうやら飲ませ過ぎてしまったようですね。あなたにワインは早すぎたようだ」
「わたし、へいきですよ?」
「いいえ。飲み過ぎです。これ以上お酒を飲んではいけません」
「あー!子供扱いしましたね?わたしはもう大人なんですー!」
「大人は引くべきところで引くことができるんですよ。これ以上飲むなら子供と変わりません」
「引くべきところでは引く………」
彼女は小さく呟くと先程までとは違い大人しくなってしまった。

「さあ、飲んでください」
酔い覚ましに頼んだ熱いお茶を彼女に渡すと冷ましながら少しずつ口に運ぶ。
先ほどまでの幸せを全面に押し出した彼女は愛らしいものがあったが、今の物静かで何かを考えている彼女は先ほどまでにはなかった色気のようなものがあり、黒いレースのブラウスがさらにそれを助長する。
これがギャップ萌えか、ハニートラップの真髄かと冷静な自分が分析をする。

「そういえば、あれから数ヵ月経ちましたが、考えていただけましたか?」
「え?」
「お付き合いの件です。僕は今でもあなたとお付き合いをしたいと思っています。あのときは一目惚れでしたが、今ではあなたの人となりを知り、ますます好きになりました」

これは、ある意味では賭けだった。
彼女を今以上に近づけることは今となっては得策ではないのかもしれない。しかし、これ以上を知るには近づかざるを得ない。……大丈夫だ。隙を見せたりはしない。
しかし、彼女の答えは、


「……ごめんなさい。もう少し、もう少しだけ考えさせてもらってもいいですか?」

ふにゃりとした笑顔ではなく、眉をハの字にして、少し困ったように、どこか泣きそうで、切ない笑みを浮かべながらそういう彼女に何も言えなくなってしまった。

名字名前の考えていることが全くわからない。
これでも洞察力や人の心理を読む術は優れていると思っていた。それでも、彼女が何を考えているのか全くわからなかった。


「いつでも、いいですよ」
安室透の柔和な笑顔をいつも通りに作れているだろうか。
意識せずとも出来ていたはずの作り笑いでさえ今はうまく出来ているのかがわからない。

これから…どうすればいいのか、名前を知られることなく死んでしまったかつての親友に聞きたくなった。


この女は、俺を、滅ぼすかもしれない。