逢魔時

「もっと遊ぶー!」
「ゆうくんだめよ。もう暗くなっちゃうからお家に帰ろうね」
近くの公園から母親らしい女性と子供が出てくるのをなんとなしに眺めながら自宅への道を進む。

この夕方という時間帯がいつも苦手だった。
何かが終わり何かが始まりそうな高揚感と、何かが迫ってくる焦燥感がごちゃまぜになり、完璧な闇に包まれれば今度は絶望感が私を支配する。

きょうは特に夕陽の赤さと夜の黒さがおどろおどろしく、逢魔時と呼ぶに相応しい様相だ。

何となく、いつもはしないけど何となくその空の様子を撮ってみたくなり、道の端に寄りスマホを空にかざす。
インカメラになっていた私のスマホに写ったのは恐ろしい空の色ではなく、自分の顔とマスクと帽子を身に付けた知らない男の人だった。

「え…」
とっさに振り向いて確認しようとしたがそうする前に男の片腕が胴に回り、口と鼻を覆うように布を押し付けられる。
男から離れようと思い付く限り暴れてみても体格のいい男の力に敵うことはなくズルズルと少しずつ車道へ引きずられてしまう。

車道脇に停められた黒いワゴン車に近づいていく。
この車の中に乗せられたら終わりだ。もっと抵抗しないと。せめて口だけでも自由になれば……。
なりふり構っていられない。とにかく暴れて暴れて…そう思うのに体に力が入らなくなってきた。恐怖で力が入らないのか、体力不足が祟ったのか。
抵抗らしい抵抗もできなくなった私はなす術もなくワゴン車へ乗せられた。
車を閉める音が私の人生を締めくくる銃声のように聞こえた。

「思ってたより手こずっていたな」
「あの薬、なかなか効きやがらねえ」

二人の男の声が遠くに聞こえて、私の意識は完全にシャットダウンした。




「一体どうすんだよ!」
「落ち着けよ」
「落ち着いてられるか!!別人じゃねえか!!!」
「怒鳴っても何も状況は変わらねえぞ!」

知らない男の声が靄の中から聞こえていて、次第にはっきり聞こえるようになっていった。

「こんのクソッタレ!!」
怒鳴り声と同時にバキッと何かが壊れる音がする。
その拳が自分に向いたらと思うと怖くて身を縮めることしかできない。

聞こえてくる男の声は二人分で、相変わらず私は車の中にいるみたいだった。
どんな状況か知りたくて目を開けようとしても布のようなものが私のまぶたを覆っていて動かせない。手も縛られているようで動かせない。口にも布のようなものを詰められている。どうしていいかわからない。助けてくれるような人も思い付かない。独り暮らしで家族のいない私が消えたことに気づく人はいるのだろうか。
どうして自分がこんな目に合っているかわからなくて、涙がこぼれそうになる。これからどうなるのだろうか。これからレイプされるのだろうか。外国に売られるのか。私の能力目当てで、悪いことに能力を使わないといけないのか…良い未来なんて何一つ想像できない。

殴られるかもしれないと思って動けないのがよかったのか、男は私の意識が戻ったことに気づいていないみたいだった。


「本多社長の娘じゃねえなら意味ねえ!」
男のその言葉に少し冷静さを取り戻す。本多社長と言えば、最近ニュースを騒がしている不動産王ではないだろうか。もちろん私は彼の娘ではないし何一つ関係はないけれど。

人違いならば、このままどこかで降ろしてくれないだろうか。身内もいないコネもない私は人質として何の価値もない。男たちもそれに気づいているだろう。
このまま、無事に家に帰りたい。

「お前の犯行は誰にも見られてねえはずだ。意識がない内にこの女を殺して、海に沈めてしまえばいい。こいつの死体が見つかる前に本多の娘を拐うぞ」

私のささやかな願いは聞き入れられることはなさそうで、今度こそ溢れてしまった涙が目隠しに吸われていく。

目隠しをされ、縛られた腕では何もできない。捕まるまで握っていたスマホはどこにいったのか、今はなくて、助けを呼ぶこともできない。

わかったことと言えば、私が乗せられてるのは恐らく車の荷台で最終的には私は海に捨てられることくらいだった。
……それがわかったからといってできることなど何もないけれど。


日本は安全な国だと思っていた。
私が住んでいた国では強盗もレイプも薬も日常の一部だった。殺人も恐らく少なくはなかっただろう。
昔は外を歩くのが嫌だった。体力もない女は格好の的になったから。コンピューターさえあれば稼げたし、両親も金を稼げる娘を積極的に外に出そうとはしなかった。

……スコッチと会ってからは一緒に何度か外に出た気がする。それでも数えるほどしか出歩かなかったし、スコッチもあまり出歩いてはほしくなかったようだった。
スコッチはよく日本の話をした。犯罪もあるが、確かにこの国より安全で、女が夜道を一人で歩いているような国だと知り、驚いた記憶がある。

日本に来て3年、特に危険なこともなく安寧と日々を過ごしていた。まさか自分が事件に巻き込まれることになるなんて考えてもしなかった。
気づけば警戒心がなくなっていた自分に嫌気がさす。
私は、自分が思っている以上に平和ボケしていたようだった。
『引くべきところで引く』
数日前に安室さんが言っていた言葉がよみがえる。
安室さんはそんなつもりで言ったわけではないだろうけれど……日本で友達や安室さんと過ごす日常がとても楽しくて、いつの間にか自分の立場というものを忘れかけていた。
この事件は自分の罪を忘れていた私への罰かもしれない。

「着いたぞ」
「ああ」
舗装されていない道をしばらく進み、ようやく車が止まった。
……車が止まったということは、もうすぐ私は殺されるということだろう。
助けを呼ぶことも、逃げ出すこともできずにただ泣いて拘束を解こうと無駄な足掻きをすることしかできなかった。
恐怖が大きすぎるからか、もはや涙すら出ない。


「いいな。波打ち際でバラして胴体と頭はこのへんで捨てる。腕と足は後で別の海に捨てる」
「わかってるよ」

前のほうで男たちが私の死体の処理の仕方を確認している。ただ殺されるだけじゃなくてバラバラにされるらしい。

家族もいない、恩人もいない。恋人もいない。いなくなった私の行方を一体誰が真剣に探してくれるだろう。悲しんでくれるだろう。

いよいよ私が乗せられている荷台が開けられる。
ドアが開く音と共に潮風が入り込んでくる。

「紛らわしい格好しやがって!」
「……っっっ」

気性の荒い男の声が聞こえると同時に、頬に強い痛みを感じる。
痛みはジンジンと、熱に変わってきて、生理的な涙が溢れる。体が震える。
どうしたって逃げられないし、殺されるしかないんだと。実感した。

「おい、なにやってんだよ」
「抵抗されたら面倒だからな。これで抵抗できねえだろ」
殴られた衝撃でズレた目隠しから見えたのは、私のスマホに写っていたのと同じ男だった。

ガタイの良い男を前にして抵抗する意志ははかなくくだけ散った。
殺されるならせめて、せめて、痛くないようにしてほしい。


項垂れた私に男が残酷に笑いながら手を伸ばす。
視界に男の手が入り込んでからは怖くて目をつぶった。


『女性の独り暮らしは危険なことも多いですから頼ってくださいね?』
最期に思い出したのはいつかの安室さんだった。私にとっていつの間に彼はこんなに大きな存在になっていたのだろうか。

今さら気づいたところでもうきっと会えない。

それでも、最期に思い出すのが彼でよかった。
もう全てを諦めるように体の力を抜いて壁に寄りかかる。


殴られた頬だけが、ジンジンと生を主張していた。