心臓の音

今まで乗っていた黒いワゴン車と正反対の白いスポーツカーは間違いなく安室さんの車だった。

私を助手席へ乗せたあと、彼は私から体を離す。

最後まで私に触れていた指先が離れた瞬間、とてつもなく不安になった。誰かの体温がないことがこんなに不安になるなんて思っても見なかった。

その不安が伝わったのか、運転席に乗り込んですぐに彼の左手が私の右手を包み込む。
たったそれだけなのに体全体が暖かくなった気がして、やっと少し肩の力を抜くことができた。

音楽がかかっていない車内はとても静かで、エンジンの音とお互いの吐息がかすかに聞こえるだけの空間。
彼の左手は私の右手を離さない。

車は気づけば見知った道を走っていて、私の家へ向かっていることに気づいた。

温まった体が急速に冷えていくのを感じる。
怖い。
一人になるのが、怖い。
誰も頼る人がいないという事実が、頼ってはいけないのだという現実が、私を締め付ける。

「名前さん、家につきましたよ」
「は、い」
いつものようにマンションの前に停車する。
いつも通りに私は安室さんの車を出てお礼を言って、まっすぐ家に帰る。
……そうしなければならないのはわかっているのに、体は動かなかった。
一人であの家に帰りたくなくて、未だに繋がったままの彼の手に甘えてしまっている。

「名前さん。怪我はありませんか?」
「はい」
「嘘。殴られましたね?」
「……はい」
「ほかには何かされましたか?」
「ロープで縛られただけで…」
「縛られたところは痛くありませんか?」
「特には」
「頭が痛かったり目眩はありませんか?」
「ないです」
「一人で帰れますか?」
「………はい」
「嘘」
「………」
「甘えてくれてもいいんですよ。僕もあなたを一人にしたくない」
「一人は怖い…です」

繋がったままの手に力が込められる。
断らないといけなかった。頭ではそう思うのに私の口は真逆の言葉を紡いでいた。私はとても弱い。



「どうぞ」
「おじゃまします」

彼が私の部屋にいる。
誰も部屋に呼んだことのない私にとって、私以外の誰かが部屋にいる状況はそれだけで充分異常だった。

掃除はしているけど汚いと思われないかとか、変じゃないかなとか、誘拐された直後とは思えないことを考えている自分にとても恥ずかしくなった。

「とてもきれいですね」
「ありがとうございます。ソファーに座っててください。お茶、淹れますね」

いつも使っているキッチン。いつも使っているポット。いつも飲んでる紅茶の缶。いつもと違うのは私だけ。

「……あ」
カシャン
カラカラ

「名前さん!大丈夫ですか?」
紅茶の缶を落としてしまい中身が床に飛び散っている。

大丈夫。ティーバックの紅茶もあったはず。
「いっつ」
振り返ったときに落ちた缶の縁を踏んでしまい痛みに悶える。

「名前さん。ここは僕が片付けておきますからお風呂でも入ってきたらいかがですか?」





◇◇◇




遅い。
茶葉を片付けて、彼女に飲ませるための紅茶の準備も整ったが、肝心の彼女が風呂から上がってこない。

半身浴が流行っているようだが、まさかオレがいるのに半身浴を楽しんでいるのだろうか。いや、それはないだろう。
それ以外だと自殺…も考えられる。カミソリや洗剤で人は簡単に死ねる。
しかし彼女の性格を考えると家に人がいる状況で自殺するとは思えない。

それでも…絶対とは言えない。
オレの親友だって自殺するとは思わなかった。赤井に強要されたのだろうが、それでも自ら死を選ぶとは思ってもみなかった。


名前さんが車の中でうなだれていた光景と力なく壁に寄りかかるスコッチの死体が頭の中でチカチカする。

状況が違う。彼女が死ななければならない理由なんてない。それなのに、言い様のない不安に苛まれる。




「名前さん、大丈夫です…か…………すみません」

どうにも嫌な予感がして脱衣所の扉を開けた。そして後悔した。ノックもせずにいきなり開けた扉の先には名前さんがいた。ぎりぎり服は着ているようだが、上半身はキャミソール1枚という心もとない服装で、もしかしたら、もしかしなくとも着替えている途中だったのだろう。
自分は冷静だと思っていたが、ノックもせずに開けてしまうあたり、全く冷静ではなかったのだろう。

出ていこうとしたときに視界に入ったのは彼女の目から溢れる水滴だった。


はらはらと落ちる水滴に目が離せなくなった。
彼女のこんな表情は初めて見た。いつも自分に向けられていたのは疑い、不安、喜びといった類いの感情だけだった。
大学やバイト先でも彼女を張っていたことがあるが、そこでも彼女は怒ったり悲しそうにしていることはほとんどなくて、ましてや涙を見せるなんて全くなかった。
彼女の涙にどうしていいかわからなくなる。

「あ……ごめ、なさい。安室さん、じゃなくて…」

彼女は必死に何かを伝えようとしているが、声が詰まって言葉にならない。

そんな彼女を見て、形容しがたい感情がせり上がる。先ほどまでとは違う感情。その感情に動かされて、オレは彼女を抱き締めていた。彼女がビクリと体を固くする。
感情のまま動くなんて、捜査官失格だと自嘲の溜め息が溢れるが、体は依然として彼女を離す気はないようだ。

片手で彼女の髪を撫でる。
しっとり濡れた髪の毛に彼女が風呂上がりであることを意識させられる。
まだ寒い季節に風呂場にいては冷えるだろうと思い、彼女を抱えてリビングへ移動する。

抱えた感触は軽く、柔らかい。
非力な女性そのものだった。


大人しくオレの腕の中に収まったままの彼女にソファに置いてあった膝掛けと自分の上着を掛ける。

静かに涙だけを流す彼女を見ていると不思議な気持ちになる。
今まで泣く人間を鬱陶しいと感じることはあっても綺麗だと感じたことはなかった。
特に女性の泣く姿は好きではなかった。泣けば許されると思ってるように考えてしまうし、そうじゃなければ裏がある。涙は女の武器とは良く言ったもので、女性に泣かれるとほとんどの場合男が悪者になる。

男の泣く姿はそれこそ見苦しい。嬉し泣きならまだしも。悔し泣きなどもっての他で、泣いても状況は変わらないし泣く暇があるのなら動いたほうが良いに決まっている。
今までそう考えて生きてきたし、自身も滅多なことで泣いた記憶がなかった。

それほどに涙を見せる行為に嫌悪に近い感情を持っていたのに。
悲しみでも悔しさでも、計算でもない彼女の涙はとても美しいと感じた。


抱き合ったまま感じる彼女の心臓の鼓動はどこか懐かしかった。