春は曙

「…ん……」

いつの間にか寝ていたらしい。良い匂いのするシーツに口元が弛む。まどろみの中で自分を包む温かみをもっと感じたくて布団を引き上げた…はずだった。
私の手が掴んだのは布団の生地ではなかった。

…私は寝る前に何をしていただろうか。まだ寝ている脳みそをフル活用して必死に思い出す。
誘拐事件に巻き込まれて、安室さんが助けに来てくれた。安室さんを家に上げて、私はお風呂に入って………。
お風呂に入って……泣いてしまって、安室さんにそれを見られて、抱き締められて………。
勢い良く体を起こす。私にかけられていた布が体から落ちるが、そんなことを気にする余裕はなかった。

私の下には安室さんがいて、寝顔を晒している。
じわじわと顔に熱が集まってくるのが分かる。

しかも…寝起きで状況がわかってなかったとはいえ、安室さんの服の匂いをかいで『良い匂い』だなんて。
この状況に耐えられなくなり、安室さんから降りようとするが引き寄せられて安室さんの上に戻ってきてしまう。


「…起きたんだな」
普段より低く掠れた声は彼が寝起きであることを感じさせた。
「すみません。寝ちゃってたみたいで……降りますね」

安室さんは無言で私の背中に乗せている腕に力を入れる。

「あの…腕をどけてもらわないと降りれなくて…」
「……まだ夜中だぞ」
彼は背中に乗せている指でリズムを刻む。ちょうど母親が赤ん坊を寝かしつけるように優しく。
それでも起き上がろうとするが、彼の腕の力が強く結局は体をもぞもぞと動かすだけしかできなかった。

諦めて体の力を抜く。体全体で感じる温もりと背中をノックするリズムが心地よく、瞼が下がっていく。
やっぱり安室さんは良い匂いがする。また顔に熱が集まるのを感じながら目を閉じた。



次に目が覚めたときには、カーテンの向こう側が明るくなっているのがわかった。
安室さんは私の髪の毛を指先でいじっている。
私が起きてしまうことでこの温もりが無くなってしまうんだと思ったら少し名残惜しくて狸寝入りを決め込む。


「…ふっ……クク……」
私の体が下から揺すられる。安室さんが笑っている。

「すみません。でも、起きてるのバレバレですよ」
笑いを堪えながら言う安室さんに顔がお湯を沸かせそうなほど熱を持つ。

「こっちを向いてくださいよ」
「いやです」
「そう言わずに」
彼の片手が私の顎を持ち上げ安室さんに向けさせる。手つきなどは丁寧だが、何分力が強い。なす術もなく彼の好きにされる。
真っ赤な私の顔を見て安室さんは楽しそうに目尻を下げた。
笑い声は我慢してるようだが、体が揺れていることから堪えきれてないのが分かる。

今までにないほどの近い距離に安室さんの顔がある。今までそんな至近距離で顔を見たことがなかった。
整っている顔は寝起きでも変わることは無かった。ただ、目の下に濃い隈ができているのがわかった。これほどまでに近づかないと気がつかなかったが、1日2日でできた隈ではなさそうだ。
私の知っている彼は私立探偵と喫茶店のバイトを掛け持ちしている。探偵と言えば、毛利探偵のように殺人事件の解決など華々しいイメージがあるが、実際は、浮気調査などで張り込みをしたり、あちこち駆けずり回ることのほうが多いらしい。彼は私には全くそんな素振りを見せないが、やはり仕事がきついのだろうか。

「……そんなに見つめられると穴が開いてしまうかもしれませんね」

彼の愉快そうな声にハッとする。
そんなに長時間見つめてしまっていたのだろうか。
先ほどとは違う理由で顔が熱を孕む。


「朝ごはんにしましょうか。キッチンをお借りしても?」
「…ご自由に」

真っ赤な顔を見られたくなくて、顔の熱を冷ましたくて洗面台に向かう。水道の冷たい水が心地よかった。

顔を洗った後に寝室へ行き着替える。キッチンでは安室さんが何やら動いていた。キッチンは汚くなかっただろうか。洗っていない食器はなかったはずだが、賞味期限切れのハムがあったかもしれない。どうぞ、気付いてくれませんように。


「最近は、パンケーキにおかずを合わせるのが流行っているそうですね」
「……そうなんですね。リア充じゃなかったので知りませんでした」
「ハムは『賞味』期限切れで『消費』期限切れではなかったので、火を通したらまだ食べれます。勿体ないので食べてしまいましょう」
「はい…ありがとうございます」
「スーパーに売ってあるのは大抵ファミリー用ですし、余らせてしまうのは仕方ありませんよ」

穴があったら入りたい。気付かないでほしかった賞味期限切れのハムは見つかってしまい目玉焼きと一緒に朝食のおかずに。
パンケーキは、無性に食べたくなって買ったものの大量に余ってしまったホットケーキミックスを使ったらしい。付け合わせにはサラダまである。
この完璧な朝ごはんは一体何なんだ。自分の家事力の無さを見せつけられたようで情けなくなった。味ももちろんおいしい。どこにでも売っているティーバッグの紅茶でさえ、自分で入れるよりおいしいだなんて。

ここ数カ月で安室さんと向かい合ってご飯を食べる機会はたくさんあった。それでも、朝日が差し込む自宅のリビングで安室さんの作った料理を食べていることを自覚すると口元が緩むような胸が締め付けられるような、変な気分になった。
いつかまた、こうやって2人で2人だけの料理をこの部屋で食べられたなら……


しあわせ、なんだろうな