カサブランカを語る

「俺は、お前に普通の人生を送ってほしいと思ってるよ」

ある日、自らをスコッチと名乗っている男はテレビを見ながらそう呟いたことがあった。
私はいつも通りパソコンの画面とにらめっこをしていて、彼のその無責任な言葉に顔を歪めた。

なんて残酷なことを言う男なのだろうと。
私がこうしてまともに生きられなかったのは、もちろんこういう風にしか生きられないようにして、とっとと死んでしまった両親が一番の問題だろう。
でも、それを利用して良いように使っている男の言う台詞なのだろうかと。

「…ケンカ、売ってんの?」
「まさか!それよりそんなに眉間にシワを寄せるとかわいい顔が台無しだぞ」
「アンタしかいないのに可愛くする必要ないし」
「酷い言われようだなあ」
「だって名前知らないし」
「スコッチって呼んでくれたらいいだろ。あ!それか『お兄さん』でもいいぞ」

私は彼の名前を知らない。
私が彼の家に連れてこられてから数ヵ月経っているが、未だに私に名前を教える気はないようだった。

「コーアンって呼ぼうか?」
「いや、それだけは勘弁してくれ」
「だって日本の公安なんでしょ?いいじゃん」
「今潜入捜査中だからな。身元がばれるのはやばいって」

「一緒に潜入捜査してるゼロのことは私に話してるけどいいの?公安の捜査員さん?」
彼は自分の話をほとんどしないのに自分の親友であり同じ組織に潜入しているゼロの話を私によくしていた。

「そこを突かれると痛いな」
頭を掻きながら困った顔で私を見る。

「ま、名前とゼロの繋がりは今のところないしな。いずれ名前をゼロに会わせたいと思ってるし問題ないだろ」
「……私とゼロが出会ったら繋がりができてまずいんじゃないの?」
「それもそうだな」
思わずため息がこぼれ落ちた。
本当に何を考えているかわからない。

「ゼロにも名前みたいな女がいれば良いと思うよ」
「それはどういう意味で?」
「さあな、調べるのは得意だろ?俺の心を調べてみろよ」
「私は!ハッカーだからね!!人の心の中は覗けないの!」
「名前には、普通で幸せな人生を送ってほしいと思ってるよ」
「え!ちょっと話そらさないでよ!」

無駄で意味のないやり取りはいつものことだった。
私は彼の潜入してる組織のコードネームと日本の公安だということしか知らなかったけど、それでも彼のことをそれなりに信用していたし今まで会った大人の中で一番好きな人だった。

くだらないやりとりの最後に、雨が降った週末に、ラジオを聞きながら彼が事あるごとに言っていた言葉がある。

「俺は名前のことを名前が思っている以上に真剣に考えているよ」



『先ほどの話ですが、僕は真剣ですよ。お休みなさい、名前さん』



今まで聞こえていた心地よいスコッチの声は、安室さんの声に変わっていて
スコッチとの数ヵ月いた日本とは違う粗悪な作りの家から高級スポーツカーに場面は変化していた。

『僕とお付きあいしてくれませんか?』






夢、だ。



暗い部屋から手探りで探り当てたスマホが表示してるのは午前4時15分。
来ていたメッセージは店長からで、きょうのバイトは休んで良いというものだった。

夢のせいか顔が熱い気がして触ってみるといつもよりベタついた感触に眉をしかめる。
そういえば、昨日は帰ってからすぐに寝てしまったからメイクもそのままになっていた。

お風呂に入ってからもう一度寝ようと重い体を起こす。





スコッチの夢、久しぶりに見たな。
お湯の中に鼻まで浸かって思い出す。
昔の、懐かしい夢だった。
名前を教えてくれないのが嫌で、頑なにスコッチとは呼ばなかった。
『お兄さん』とも一度も呼ばなかった。
それなのに、スコッチがいなくなってから私は彼をスコッチと呼ぶようになった。皮肉なものだ。


表の世界で生きられなくて、かといって裏の世界へ入る勇気もなかった私を拾ってくれたのはスコッチだった。
ただ、利用されてると思っていたが、彼は私のことも真剣に考えてくれていて、その思いに少しでも応えたくて、表の世界で生き抜くことを決意した。
もう危ない橋は渡りたくない。


昨日は考えるだけの余裕がなかったけど、安室さんはスコッチの親友のゼロなのだろうか。
見た目の特徴は一致していたが、もう10年も前の写真だ。名前も違う。
ゼロだとしたら、私に告白してきたのは何か訳があるのだろうか。彼が潜入しているはずの組織にはスコッチの依頼で少し探りを入れたこともあったが、私だとバレるようなミスはしていない。スコッチが死んで数年、ハッカーとしての活動は一切していない。今さら私の元へ来るとは思えなかった。

ゼロとは関係ないなら、ますます意味がわからない。まさか私を探るような依頼があったとも思えない。
……本気、なのだろうか。

『僕は真剣ですよ』

彼の言葉を思い出して思わず顔が熱くなる。決して私がチョロいのではなく、相手がイケメンだから仕方ない。イケメンなのが悪い。