そして動き出す

「連絡先、無理矢理交換したみたいになっちゃってすみません」
赤信号で止まったタイミングでそう切り出した安室さんを横目で見るが安室さんから悪いと思っている雰囲気は伝わらない。

「場を白けさせたくなかったんでしょう?」
続けられた彼の言葉に正面から彼を見る。彼もまた、こちらを見ていて視線が混ざり合う。

「本気で嫌ならあなたは席を立つことも怒ることもできたはずだ。梓さんは従業員ですしあなたを本気で怒らせることはしなかったでしょう。僕がスマホを持ったときも奪い返すよりも僕の手元を見て余計な動きをしていないかどうかに注視していた。アドレス帳に一つデータが加わるくらいなら大した損害もない。あの場の空気を壊してしまうほうがあなたにとって痛手だった。違いますか?」
ぐうの音も出ない。
確かにあの話題になったときにスマホを鞄の中にしまうこともできた。でもそれをしなかったのは安室さんのデータが登録されてもさして問題ではないと思ったからだ。大人しく登録しておけば場を白けさせることもなく、彼女たちもしばらくの間は大人しくなると踏んでいた。
まさか梓さんが先週たまたま見えた私のパスコードを覚えていて、強制的に登録されるというのは予想外だったが。

それに別に安室さんのことが嫌いなわけではないのだ。
かっこいいと思う、優しいとも思う、とても頭が良くて周囲をよく見てる人だと思う。恋愛に興味もある。好きだと言ってもらえてとても嬉しかった。でも『もしも』を考え出すと怖いのだ。
『もしも』彼が悪い人で私は遊ばれていて、バカにされてるかもしれない。こんなかっこいい人が私なんかを好きになるはずがない。
『もしも』彼がゼロなら、昔のハッキングがバレて逮捕されてしまったら?私にはもっと後ろ暗いことがある。それがすべてばれてしまったら?
この数年で築いた私が望んでいた何もかもがなくなってしまったら?
それがとても怖い。

「私はただ、平穏に生きたい。危ない橋は渡りたくない…」

思わず口から漏れた一言はBGMに消えていった。

「意外ですね」
消えたと思った言葉は消えずに安室さんに拾われてしまった。

「意外、ですか」
「ええ。若い子はみんなスリルを求めているのかと思っていました」
信号が青に変わると同時に彼はまた前を向いてしまう。
「でも、そちらのほうが好感が持てます」

運転中なのに彼はこちらを見てきてまた、視線が混じり合う。真剣な目が私を貫く。
「まだまだあなたの中で僕という存在は危険なのでしょう。でも僕はあなたを知れば知るほどどんどんあなたを好きになっていく」
――必ず惚れさせますから覚悟、してくださいね――


いつの間にかマンションの前についていて、私は真っ赤な顔のまま車を降りる。前と違って引き留められるようなことはなかった。
前と同じように彼の「おやすみなさい」を聞いてから車のドアを閉める。
エントランスに入ってから振り返ると安室さんの車があの日と同じように走り去るところだった。


お風呂に入ってさっぱりしたところで、私は床に正座で座っていた。私の前には安室さんのアドレスが入った私のスマホ。
安室さんにメールを打とうと思う。
思うのだ。思うのだが、いざ打とうとすると尻込みしてしまう。
『送っていただいてありがとうございました』いやいや、素っ気なさすぎないか。そもそも絵文字や顔文字はいるのだろうか。というか、私はなぜこんな悩んでいるんだ。ただお礼を言うだけだ。せっかくだし、きっと何もやり取りがないと分かれば梓さんがうるさいだろう。だから仕方なく、だ。と頭の中で何度も何度もそれを繰り返しているうちに30分が経とうとしていた。


何の音もない私の部屋に突如電子音が鳴り響いた。ワンテンポ遅れて目の前のスマホの画面が光る。

誰かからメールが来た。たったそれだけのことだが、自分のことでいっぱいいっぱいになっていた私は飛び上がった。

恐る恐るスマホを覗き込むとあんなに私を悩ましていた安室さんからだった。

『梓さんが寂しがるので来週の木曜日もいつもどおり来てくださいね』

ほっと息をつく。
もう悩まなくてもこれに返信をすればいい。来たメールには返事をしないと気が済まない質だから、仕方ない。言い訳は完璧だ。安室さんが絵文字や顔文字を使っていないのだから私も使わなくて良いだろう。

『はい。来週も再来週も、梓さんのために通います』
今度はあまり悩まずに送ることができた。
そんなこと、わざわざ言わなくても、来週もちゃんとポアロに行ったのにな。ふふっと笑みがこぼれた。





あれから何週間か経った。
意外なことにあれからずっとメールは続いている。安室さんの返信は早いときもあれば半日以上無いこともあったが、それでも毎日やり取りは続いている。
天気のこと、授業のこと、変わったお客さんのこと、近所に住んでいる猫のこと……ありふれた、特別なことなど何もない日常の話を飽きもせず毎日しているのだ。
さすが安室さんと思うのは、そんな何でもない日常の話でも面白おかしくこちらの興味を引くように話してくれるのだ。
だから最初は警戒していたが、最近は安室さんからメールが来るのを楽しみにしている自分がいる。

「またスマホ見てるね。最近すごく見てるじゃん。何?彼氏でもできた?」
ある日の昼休みだった。最近癖になりつつあるスマホチェックを友人に指摘される。

「そういえば、ちょっと前に言ってた彼とはどうなったの?一目惚れだって言っていきなり告白してきたっていう」
もう一人の友人も食いついてくる。

恋の話というのは女子を強くするらしい。いつになく食いついてくる彼女らに誤魔化そうとした努力も虚しく、洗いざらい話してしまっていた。

「うん。それはずばり恋だね。恋!」

最終的に私は安室さんに恋をしているということが満場一致で決定したらしい。

「いや、でも安室さんは本気じゃないよ、きっと。あんなイケメンで頭よくて性格いい人が、私なんか相手にしないよ。あと、探偵とバイトの兼業っていうのが………胡散臭い」
「胡散臭いっていうのが本音だな」

さすがにゼロやら元ハッカーとやらは言えないので探偵だから胡散臭いことにしておく。

「その気持ちもわからなくはないけどさ。逆に今だからいいんじゃない?恋愛で痛手を負うなら若い今のうちだよ。30手前で遊ばれてたらきついけど、今ならちょっと火傷しちゃった、で済むじゃない」
「そうだよ。大体メールばっかで会ってないじゃん。…従業員と店員としての最低限の絡みは『会った』ことに入らないからね。実際にご飯とか行ってみて嫌だと思ったらそれで関わるの辞めたらいいし、仮に付き合ったからってすぐに体の関係を持たないといけないわけじゃないし。ゆっくりでも進んでみて、嫌だと思ったところで別れたら良い。まずは会ってみること!」

彼女らの言葉になるほどと頷いてから気づく、これでは私が安室さんに恋をしているのを肯定しているようだと。
慌てて否定するがからかわれて終わってしまった。




帰宅後、いつかの日と同じように私は床に正座し、目の前にスマホを置いていた。
……ごはんに誘ってみようと思う。
思うのだが、なかなか行動に移せずにいる。30分はとうに経っているし足も痺れてきた。
彼がゼロじゃないかという疑惑を解消するために。だなんて言い訳も考えて。言い訳を考えないと動けないなんて情けないというのは考えないようにした。

『よかったら、またご飯にでも行きませんか?』
短い、たったこれだけの言葉を打ち込むとその勢いのまま送信をした。
いつもは見ない送信完了のメッセージを見届けて。それでもしばらくそのままスマホを見続けた。
こんなすぐに返信が来るわけがない。でも気になりすぎて目を反らせない。
5分ほど経った頃、さすがにこれ以上待つのは心臓が持たないからと立ち上がりかけたときだった。

最近頻繁に聞くようになった電子音とスマホの画面が彼から返信が来たことを告げる。

『よろこんで!木曜日は講義が少ないんでしたっけ。来週の木曜日はどうですか?』
彼からの返信に口元が緩む。
『大丈夫ですよ!木曜日の講義は午前中で終わるんです』
送信を見届けてから、今度は返信を待つことなく立ち上がる。
頬はしばらく緩みっぱなしだった。