エンドルフィンに溺れる

昨日川原で会った2人は、私に1度も痛いことをしなかった。ぶつかったボールはたしかに痛かったけど、その後もどこか痛くないか聞いてくれた。

きっと2人は優しい人。

「名前は?」

それなのに、そう聞かれた時にどう答えればいいかわからなかった。

知らない人に名前を教えたらいけない。
これは学校でも教わったことだけど、私はそれよりも早くお母さんから言われてた。知らない人に私の事を知られたらいけないから、私の名前を教えたらいけないって。だから聞かれても教えられなかった。
それに、私の名前なんてあってないようなもの。誰にも呼ばれないし、誰も呼ばない。そんなものを私の名前だと言っていいのかもわからなかった。

「お前しゃべれねぇの?」

しゃべれない訳じゃないと思う。いつも声を出すと怒られるからずっと声を出さないようにしてただけ。そうしたら、いつの間にかどうやって声を出してたのかわかんなくなってた。

「それなら俺たちで名前つけねぇ?」

名前を教えていいのかも声の出し方もわからなくて、どうすればいいのか迷っていたら、私に新しい名前がついた。

「お前は?きなこでいいのか?」

それは私の名前じゃないけど、私の名前。私を呼ぶための名前。それが嬉しかった。

あの日初めて会ったけど、学校のある日も来るのかな。お休みの日しか来ないのかな?それともあんまり来ない?そんなことを考えてると、どんなに痛いことをされても大丈夫な気がした。
帰ってからも、お母さん達の機嫌がよかったのかいつもより少し多いご飯があった。お風呂場から椅子を持ってきて溜まった洗い物を全部片付けた。いつもと同じだけど、痛くない。そんな昨日は本当にいい日だった。

そのおかげか、今日は学校でもいつもより静かに過ごせた。
でも私みたいなのがあんまり仲良くしたら迷惑になるから、ちゃんと他の人に見られないようにしないと。私が痛いことをされるのはいいけど、あの2人が私のせいで痛いことをされるのは申し訳ない。
今日もまた川原に行こうかな。2人に会えたらいいな。

そう思いながら家に帰ったけど、玄関のドアを開けられなかった。何があったのかわからないけど、酷く荒れてるのか何か倒れる音や割れる音がする。
一瞬ドアを開けるか戸惑ってたら、急に影が出来た。え、と思ったときにはドアが開いて、思いっきり玄関に突き飛ばされてた。

「玄関で邪魔なんだけど」

突き飛ばされた時、玄関の段差にぶつけた頭が痛い。

「このグズ」

踏まれると痛いから、急いでお姉ちゃんのスペースを開けた。

「お母さーん、こいつ玄関でなんかしてたけど」

お姉ちゃんが靴を脱ぐ前に1度蹴られて、すぐ横の下駄箱に頭をぶつけた。
どうやらお姉ちゃんの機嫌もよくないらしい。リビングに向かって声をかけると、すぐにお母さんの返事が来る。

「連れてきてくれる?」
「はぁーい」

靴、脱がないと。お姉ちゃんは待ってくれないから、急がないと靴を脱がなかったことも怒られる。

「ほら、さっさと歩いてよ。ホントグズなんだから」

髪を掴まれて引き摺られる。廊下はまだいいけど、このままリビングで引き摺られるのは少し怖い。
だって、なにか割れてたから。

「連れてきたよ」
「ありがとう」

部屋はいつもとあまり変わらないけど、割れたお皿がいくつかあるんだろう。破片がそこここにある。荒れててよくわかんないけど、刃物はたぶんない。
お母さんの目が薄暗く濁ってる。それを見て、きっとしばらく川原には行けないなとぼんやり思った。川原どころか、学校も行けないかもしれない。

「こっちに来なさい」

割れたお皿に気を付けながらお母さんに近寄ると、次の瞬間には叩かれた。

「なんであんたみたいな子がうちの子より褒められるのかしらね。うちの子の方がずっとちゃんとしてるのに」

うちの子って言うのは、お姉ちゃんのこと。私はお母さんの子じゃないってこと。

「ホント、イライラする…」

もう1度叩かれて、倒れないようにと踏み留まったら、今度はお母さんに髪を掴まれた。

「あんたなんて産むんじゃなかった」

今日は誰に何を言われたんだろう。髪の色だろうか。それともお父さんのこと?
お母さんの目を見ても全然わからない。

「お前のその髪も目も、全部全部気持ち悪いんだよ!」

力任せに髪を引っ張られて、そのまま床に倒れた場所が悪かった。割れたお皿が足に刺さった。早くこの上から動きたいのに、そのまま蹴られて私と床に挟まれたお皿の破片が耳障りな音を立てた。

「あんたさえいなければ!」

蹴られて壁にぶつかって、そのまま叩かれて思うのはいつも同じこと。

私がいなければお父さんがいなくなることはなかった。お母さんが苦労することなんてなかった。お姉ちゃんが虐められることもなかった。でも私が死んでもお母さん達の迷惑になる。私は存在することも、死ぬことすらみんなの迷惑になってる。

「なんであんたみたいなのが産まれたのよ!!」

普通の人と同じようになれると、一瞬でも思ったからバチが当たったんだ。私なんかが名前をもらって喜んだからいけなかったんだ。

痛みで朦朧とする意識を新しい痛みで引き留めながら、私はお母さんからもらう全てを受け止めることしかできなかった。