ばちり、今日も瞬いた未来から目を背けた。人は視線の先へと無意識に体が向かうようになっている。だから今もこうして、彼女と出会わない未来へと足を向けている。
彼女に、もう会わないと決めたから。
あんな突拍子もない話を信じるとは思えないけど、これから先二度と会わない他人なら、影響だってたかが知れてる。伺う未来に何ら支障が出ていないのは、そういうことだ。
そんなおれの意識を肯定するかのように未来はどんどんぼやけていく。通り過ぎる人達を眺めても彼女に繋がる未来は視えなくて、それが、あるべき姿に戻ったのだという実感に変わっていく。やっと終わった。これで一つ、未来が枯れたんだ。
しかしそう思っていたおれの目論見は、思いもよらないところから崩された。本部で通りすがった唐沢さんを視てぱちりと瞬いた映像。誰かが病院のベッドにかけていて、その脇に唐沢さんが立っている。本来ならプライベートな事だろうかと見逃す所だったけど、何故かその時のおれはそう考える前に唐沢さんに声をかけていたのだ。
「唐沢さん、病室に営業に行くんですか?」
「ん? 見舞いだよ。さすがに怪我人に営業するのはマナー違反だろう」
呆れたように笑う唐沢さんに曖昧な笑顔を返す。あぁ、ボーダーに関係の無い話なら悪いことを聞いてしまった。そのまま話題を逸らそうかと思ったけど、唐沢さんは気にせず説明を続ける。
「迅くん前に見かけただろ? ミカドケミカルの人達」
「はい、嵐山隊が護衛してた奴ですよね」
「その一人がね、偶然警戒区域の近くで近界民に襲われたんだ」
「……え?」
「取引があるから下手に記憶処理するわけにもいかなくてね」
ばちり、見えた未来が鮮明に色づく。唐沢さんが見舞う相手がはっきりと見知った顔になった。そんな、まさかどうして。そんな未来は、視えていなかった。違う、わかってる。目を逸らしていたのは自分じゃないか。
「保障は当然として、ボーダーとしてお詫びしないわけにはね」
「あの! 唐沢さん、それおれも行っていいですか」
反射的に同行を申し出れば唐沢さんは難なくそれを許してくれた。忙しなくちかちかと瞬き始めた映像を脳内で処理しながら、早く現実で無事な彼女の姿をこの目で見たいと足を急がせる。
唐沢さんの背中を追いかけて辿り付いた市民病院の一室。ノックの音に応えたくぐもった女性の声が入室を促した。
「唐沢です。具合はどうですか苗字さん」
「あ、はい、こんにちは、っ」
唐沢さんの声に自然な動作で頭を下げた彼女は、顔を上げるや否やおれの存在に気付いて驚いたような表情を見せた。その変化を不審そうに伺う唐沢さんと平静を取り繕う彼女を見て、怪我人に心労をかけるわけにもいかないと一歩前へと踏み出す。
「今度は随分大怪我だね、苗字さん」
「……迅、くん?」
「なんだ、知り合いだったのか」
自分の名前が呼ばれたことで、隠す必要がないと悟ったらしい。おれを呼んだ苗字さんを見て唐沢さんは驚いたようにおれ達を見比べる。一方彼女は次第に表情を曇らせてすっかり顔を俯かせてしまった。
「……今回の怪我は私の不注意です」
「いえ、ボーダーとして市民の安全を守るのは責務ですから」
「責めるつもりもありません。保障を頂けただけで充分です」
彼女はどこか冷淡さを感じさせる声色で静かに告げて、頭も下げたままだから表情を伺うことができない。唐沢さんも頭を下げるけど、謝罪も必要ないと突っぱねる彼女。その様子にこれ以上ボーダーとして話すのは意味がないと悟る。
「唐沢さん、おれに少し彼女と話させてもらえませんか」
「それは、どちらの意味かな」
「個人的な理由です」
おれがそう告げたことに唐沢さんはやっぱり驚いた様子を見せた。けど、頑なな苗字さんに思うところがあったのか、少ししてそれを了承してくれた。お大事に、と軽く挨拶をすると病室から去って行く唐沢さん。
それを見送って彼女へと向き直れば、変わらず俯いたままの顔。おれは一度深呼吸してから覚悟を決めてそっと声をかける。
「苗字さん。申し訳ない」
「……視えてたの? 私がこうなる未来」
「そしたら、こんな怪我させなかったよ」
助けたり、手を貸したり、そういうことがあの時まで出来ていたのに。立場を明かした途端に彼女が守れなくなるなんて馬鹿らしいにも程がある。ボーダーとしての迅悠一じゃ、ひとりの女性を守る事すら出来ないのか。普通逆だろうそんなの。だけど現実はそうじゃないらしい。
自嘲に顔が歪むのを自覚しながらも笑みを繕えないままでいると、おれの言葉に思うところがあったのか、おずおずと彼女は顔を上げる。
「じゃあ、私がどうして警戒区域に近づいたのか、知らない?」
不安そうな、少し泣きそうな顔。
何の力もない彼女が近界民を目の前にした時に何を思っただろうか。それがいつも通りの彼女の不運だとしたら、なんて残酷なんだろう。だけど彼女はおれのどろどろとした思考をたった一言で吹き飛ばす。
「迅くんを、探しに行ったの」
告げられた不運の理由は全く予想していなかったことだった。彼女の仕事の都合とか、それこそ物資の補給だとか、そういう理由で近くまで来たのだと、何故か勝手に思い込んでいたからだ。
「話すだけ話して、勝手にバイバイなんて言って」
「……」
「今まで会った所とか三門市あちこち行ったけど一度も会えなかった」
「……うん」
「視えてて避けられてるのかもって思ったけど、そしたら」
ひゅ、と細い喉が鳴って言葉が途切れる。
おれが読み逃した未来はもう既に過去になってしまった。だから彼女がどんな目にあったのか、もうおれには視る術がないんだ。彼女は震える身体を自ら抱き込んで堪えながら話を続ける。
「本当に、死んじゃうと思って、だけど迅くんには会えなくて」
「……」
「迅くんが視えるのは目の前の人間の未来なんでしょう? だから」
一度言葉を詰まらせて、とても苦しそうに、彼女はそれを口にする。
「もう、視えてないのかもって」
彼女はおれのサイドエフェクトのことをちゃんと知っているわけではない。だから未来が視えるなんて、万能なものだと感じていても不思議じゃないんだ。
だけど彼女は簡単にそれを否定した。視えてない可能性を信じたのだろうか。それは、そんなことは、ありえるんだろうか。
「そのくらい私と迅くんの世界って違うのかもって」
それを信じた彼女の根拠は、おれが彼女から逃げた理由と同じなのか。彼女はきっと今痛いくらいに同じことを実感していて、だけど揺れる瞳は決して逸らされることなく、小さな唇を震わせる。
「私、迅くんのこと好きだよ」
唐突に告げられた言葉はまるで必死に手を伸ばしているようだった。お互いに交わるの無い平行線を歩いていて、世界が違うとわかっている。おれ達の歩む世界が交差することもその理由がないこともわかっているのに。喉が引き攣ってなんの言葉も出てこないおれを見て、苗字さんは一つ残らず吐き出すように言葉を続ける。
「ごめんね、ボーダーのこととか、未来の話とか、どういうふうに受け入れて欲しいかわからないし、私もどうしたいかまだわからない」
ぼんやりと曖昧な目の前の景色の中で、彼女の頬に雫が走って光る。あぁそうだ、彼女が必死になって話すそれは決して結論なんかじゃない。何一つわからなくて、決められなくて、彼女はきっと自分の不甲斐なさに泣いている。顎まで伝ったそれは少ししてぽたりとシーツを叩き、それを厭うことなく彼女はおれを見つめ続ける。
「でもね、死んじゃうって思った時、会いたかったって。好きかもしれないって思ってたけど、ちゃんと好きって言いたかったって思ったの」
次第にぽろぽろと涙を溢れさせる苗字さんを見てピクリと指先が引き攣るのを感じた。おれも、そんな風に手を伸ばしてもいいのだろうか。理解されないだろうからなんて突っぱねなくてもいいのだろうか。わからなくても傍に居たい、わかってもらえなくても傍に居て欲しいと、願ってもいいのだろうか。
「鬱陶しくてごめんね、でも、言いたかったの」
病院服の袖で乱暴に涙を拭った彼女は、聞いてくれてありがとう、と言葉を落とす。落とす、直前にそれを拾い上げたいと無意識に体が動いていた。
――ぱちり、世界が瞬く。
それはまるで小さな双葉だった命がぐんぐんとその身体を目一杯伸ばしていくかのようだ。次から次へと分岐が生まれてそこからまた枝を伸ばすように広がっていく可能性。生まれたそれらの未来への道筋を辿るには、後一歩踏み出せばいいだけだ。
おれはもう躊躇うこともなく彼女の身体を引き寄せて抱きしめる。
「……おれも、好きかもしれないって思ってたんだ」
細い、力を込めたら簡単に壊してしまいそうな身体。消毒液の匂いと手に触れる包帯の感触が胸をつきりと刺す。
おれはこれから、こんな彼女の姿を何回見る羽目になるんだろうか。枝葉の先のそんな未来すら欲しいだなんて、自分勝手だとわかっていて、それでも手を伸ばしてしまうおれを彼女にも同じように見て欲しい。
「でも最初から諦めてて、それでもどっかで期待して、やっぱり逃げた」
ボーダー、トリオン、サイドエフェクトの未来視。
それらを一般人の彼女に理解して貰おうなんてただの傲慢だ。ましてや理解してもらえないと一緒にいられないなんて何様のつもりだろう。おれは彼女の事を何一つ理解しようとしないままに逃げたのだから、なおさら。おれはおれである限り特別で、だけど同じくらい普通の人間だというのに。
「避けてた。会うのが怖かった。けどおれがちゃんとしてたらこんな怪我しなくて済んだのに」
不意に服の裾が引っ張られる感覚。苗字さんに縋られていると気づくのは簡単だった。だからおれは怪我に響かないように、抱き締める手の平に力を込める。
「おれ、そんな情けないガキだけど、それでも、いいかな」
そんなおれの不安に寄り添うように、服の裾を握る彼女の手に力が篭る。きっと彼女も同じことを思っているのだと今ならわかるんだ。互いに理由なんて一つもなくて誇れるものも何もないというのに、それでも手を伸ばしたくなってしまうこの感情を、おれは初めて知った。
「好きだよ、苗字さん」
病室の傍らに飾られた花束はふわりと風にその身を躍らせる。そんな花のように色鮮やかに瞬く未来の数々は、おれ達の邂逅を祝福してくれているようだった。