ぬくもりまどろみ
 すん、と鼻から空気を吸えば、甘く柔らかい香り。
 私は部屋の片隅に置いてあった遊真の服をこっそり――といっても今この場に遊真はいないのだけど――拝借している。多分、まだ着てない、私が洗濯して畳んでおいたもののはず。だけど確かに遊真の香りがするから、つい出来心で。

 いつもなら、遊真はよく深夜に我が家へと足を運ぶ。それが一番暇な時間だから、らしい。つまり私が眠りに堕ちるまでの時間は、貴重な、遊真との恋人の時間なのだ。
 今日は用事があると言っていた。だから、時計の針はそろそろてっぺんを指そうとしているのに、遊真はきていない。ということはもう、今日は会えないのだろう。仕方ないことだとわかってはいるけども、未練がましい私はいそいそと遊真の服を拝借して一緒にベッドへと潜り込むことにしたのだ。少しだけ冷たい布団。縮こまりながらも服をぎゅうと抱き締めて、顔を埋めて一息。
 ゆっくりと吸えば、空気が肺を満たしていく。同時に、鼻の奥にふわりとこもる香り。思わず溜息を漏らせば自然とまた息を吸い、何度繰り返しても変わらず香る。
 匂いというのは、嗅げば嗅ぐほど嗅覚が麻痺してわからなくなるのだと言う。自分の匂いがわからないのはつまり、慣れてしまうからなのだとか。けれど何度呼吸を繰り返しても、遊真の香りはただそこにあって。心地よさにまどろむ。
 まるでいつもと同じ、すぐそこに遊真がいるかのようだと。

「……ゆうま」

 名前を呼べば少しだけ胸が冷たくなる。寂しい。いつもならきっと、どうしたと声が返ってくるのに。可笑しな話だ。小さな子供でもあるまいし、独り寝が寂しいなんて情けない。
 そもそも遊真は眠ることのない体だ。本来なら布団に入るどころか横になる必要もない。それでも遊真は私と共に横になって、他愛もない話をして、私が寝つくまで傍にいてくれる。遊真の好意によって成り立っている時間で、私が強請るものでもないだろうに。それでも。

「……寂しいなぁ」
「……そうか」

 零れた弱音に、相槌。この場で聞こえるはずのない返事に何事かと頭が真っ白になる。
 戸惑う間もなくばふりと掛け布団が捲られて冷たい空気が入ってきた。ぎしり、ぎしりとベッドがきしむ音と、はずみで身体がぐらりと揺れて。マットレスが沈んでできた隙間に背後からもぞりと潜り込んでくる腕。目まぐるしく状況が動く中、ぎゅうと抱きしめられた感覚を最後に沈黙が落ちる。
 背中に感じる熱も、ここまでくれば誰かなんて聞くまでもない。問題なのは、今も私の手には遊真の服が握られていることだ。

「……あの、ねぇ、いつきたの?」
「ついさっき」
「……えーと、その」
「部屋が暗かったから静かに入ってきたんだけど、お前がおれの服を持ってベッドに入ったから、どうするのかと思って見てた」

 ……うわ、めちゃくちゃ恥ずかしい。私が遊真の服の匂いを嗅いでるとこも、あまつさえ抱きしめて名前を呼んだとこも見られてたってこと。恥ずかしすぎる。そんな乙女チックなの柄じゃないし、寂しいとか言ったのも聞かれてるし。なんかもう、穴があったら入りたい。

「えーと、あの、遊真さん」
「なんだ?」
「とても恥ずかしいのでこう、少し離れてもらえませんか」
「なんで」
「とりあえず布団にこもりたい」

 理由をちゃんと答えたのに、遊真は抱きしめる腕にぎゅうと力をこめる。無言の、放さないというアピールだろうか。ちょっと嫌な汗かいてるしほんと少しでいいから心を落ち着ける時間をくれないかな。もうどんな顔をしたらいいのかわからないんだけど。いや、それなら逆にこのままの方がいいだろうか。背中から抱き締められてるだけなら顔を合わせることもないし。
 すると唐突に、すぅーと空気の音が響いた。それから、ふすーという音と一緒に背中に感じる熱。

「うむ、なるほどな」

 くぐもった声。まさか、と思っているともう一度、すぅー、と吸う音。ふすー、と吐く音。

「これが名前の匂いだな」
「……えっ」
「甘くて、優しくて、あったかい匂いだ」

 ――心臓がぎゅうと縮んで、そのまま止まってしまうかと思った。
 背中越しとは言え、匂いを嗅げるほど顔を寄せている――というよりは埋めている――のだとしたら、ばくばくと鳴り響く心臓の音が遊真にも聞こえてしまうんじゃないか。というかそれ以前に、匂いって。どうしよう、嗅ぐのを見られたのも恥ずかしかったけど、こうして匂いを嗅がれるのもすっごく恥ずかしい。やだ、臭くないかな。変な汗かいてきたし、まずいんじゃないかな。そう思っても遊真はまたすぅー、と深呼吸の音を響かせる。

「あ、の」
「うん?」
「……は、恥ずかしいんだけど」
「なんで? 名前だっておれの服の匂い嗅いでただろ」
「それは、だって、遊真の匂い落ち着くから、その……よく眠れるかな、って」
「おれも。名前の匂い落ち着くから好きだぞ。だから、やめない」

 遊真はまたすぅ、と息を吸う。あぁもう、そのまま息を吐かれると妙に背中があったかくてくすぐったくて、本当に恥ずかしくなるのに!
 けれど恥ずかしくて嫌だと思っている反面、このままでいてほしいとも思う私は身勝手だ。抱き締められることが嬉しい。少し怖いけど、私の匂いを落ち着くと言ってくれたことも好きだと言ってくれたことも嬉しい。背中が温かいのが、嬉しい。
 つまりは、遊真が今ここにいてくれることが、嬉しくて。そうなると、空っぽの服を抱きしめていることが寂しい。

「あ、のさ」
「やめないけど」
「じゃあ、私も……遊真の匂い落ち着くから、その」
「おれの服、そこにあるだろ」

 ……意地悪だ。今まさに服を抱いていることに虚しさを感じたばかりだというのに、持ち主に改めて指摘されるとなんとも居心地が悪い。つっけんどんに返されて少しは怯んだものの、けれど考えるより先に言葉が滑り出る。

「や、やだよ、遊真がいい」

 ――私はなんて恥ずかしいことを言っているんだ。
 気づいたところで後の祭り。覆水盆に返らず……ってそういう言葉は出てくるのに、どうしてもっとこう気の利いた言葉一つ言えないのかな。と、少しだけ返事が怖くなる。
 けれど遊真の腕は、まるで私を促すように緩んだ。許されたのかと寝返りをうてば、目の前には柔らかく頬を緩める遊真の顔。優しい笑顔を向けられるのがなんだか照れくさくて直視できないので、私は逃げるように布団に潜りつつ遊真の胸元に顔を埋める。
 すぅー、と息を吸えば、さっきより穏やかな甘さの、優しい匂いが鼻の奥をくすぐってふわりと香る。ここに遊真がいる、生きた匂いがする。心地良い温もりと香りに、あっというまに意識が緩んでいって。

「……ねむ、い」
「……もう遅いからな。無理しなくていいぞ」

 遊真の手のひらがさらりと私の髪を撫でた。何度か繰り返されただけで瞼が重くなっていく。遊真は、私が眠くなったとわかると自分からは喋らない。何も言わずただ私を抱き締める遊真に甘えて、その熱と匂いを堪能する。
 甘くて、柔らかくて、優しくて、あったかい。きっと世界で遊真だけが纏うもの。世界で私だけが、遊真から感じられる香り。

「……あぁ、そうだ、遊真……」
「うん?」
「……おかえり……」

 まどろみが私の意識を襲うものだから、眠りに堕ちる前にと必死で言葉を振り絞る。
 ただいま。そう告げる優しい音が、私の夢の始まりを告げた。

ぬくもりまどろみ

とにかく先生には添い寝をしていただきたい

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