あなたの手のひら、恋心
 クエスチョン。もし、あなたの目の前に片想い真っ最中の彼の上着が残されていたら、どうする?

 時刻は夜十時を過ぎた頃。玉狛支部、台所兼食堂は今、私以外には誰もいない。皆がそれぞれどこで何をしているかは知らないけれど、ともかく、今ここには私しかいないのだ。
 そしてそんな状況下では、目の前にある一着の上着は私にとって非常に魅力的で仕方ない。だってこれ、間違いなく空閑くんの上着だ。少しくすんだ亜麻色のジャケット。今日はこれを着ていたから間違えるはずがない。

「……空閑、くん?」

 おそるおそる、いないとわかっていても名前を呼んでみる。大丈夫、返事はない。だとしたらこれはやっぱり置き忘れ、のはず。

「…………まぁ、そりゃ、普通に届ければいい、よね」

 独り言で必死に理性を保ちながらも上着に手を伸ばす。どのくらい置かれたままだったのだろうか、すっかり冷めきっている様子。ちょっと残念なような、安心したような気持ちを胸にそっと抱えればふわり、鼻をくすぐる香り。うわぁ、これだよこれ。間違いなく空閑くんの匂いがする。

「………………部屋に、いるかな」

 危ない、危ない。誘惑に負けてしまいそうな自分をどうにか持ち直して私は踝を返す。向かう先は客間もとい、現状ほぼ空閑くんの部屋となっている二階の一室だ。
 トントントン、とノックを三回。応答はなく不在らしい。空閑くんだから寝ている、ということはまずないだろうし、だとしたら屋上にいるかもと当たりをつける。そこまで推測できているのだから、足を延ばして屋上まで届けにいけばいい。でも、空閑くんが屋上に行く時はよく戦術を考えている時らしいから、邪魔したくはないなと――言い訳をして――ドアノブを捻る。

「失礼しまーす……」

 予想通り、室内はもぬけの殻だ。いやほら、なんかわざわざ届けに行くのも大袈裟で下心が見え透いてるかもなって感じだし。そう言い聞かせて私はこれまで胸元に抱えていた上着を置いて帰ろうとして、またしても頭を抱える。
 さすがに適当に放り投げておくのはどうかとは思う。じゃあ、椅子の背中にかけておくとか? せっかくのアピールチャンスかもしれないのに勿体ないだろうか。とは言え丁寧に畳んでおいておくのは……ちょっとあざとい? いや、でも人のものを雑に扱うのもなと決めかねて、脳内で天秤がぐらぐら揺れる。
 片想いって、そんなことばっかりだ。下心ばっかりなのに、そうと察されてしまうのはちょっと困る。いや、いつかは伝えたいと思うし伝わってほしいとも思うけど、せめて少しでも好意的に見てもらえるまで下心は察されたくない。けれどちょっとだけ、下心があるって気づかれたい。なんて自分勝手な乙女心。

「……よし」

 結局悩んだ末に、きちんと畳んで返そうと決めた。そうと決めたら肩口を持って、ばさりと広げて皺を伸ばして。

「…………意外と、大きい?」

 事情はあれど背が低い空閑くん。だけどこうしてその上着を手に取ってみると、思っていたよりは普通のサイズだ。っていうかこれ――私も普通に着れるかも。
 ごくり、と思わず生唾を飲み込む。私はなんてことに気づいてしまったんだ。いや、でもちょっと、彼シャツみたいなのってやっぱり憧れるじゃないですか。ちょっとサイズが気になって確かめてみるくらいだったら……セーフ、じゃない?
 最後の最後で理性を吹っ飛ばした私の行動は早かった。だって、躊躇ってる暇はない。ちょーっと試して、そしたらすぐ脱いで畳んで逃げよう。大丈夫。置き去りにされていた上着を返すという目的が達成できれば問題はない。

「失礼します」

 誰もいないのにそう断って、私は空閑くんの上着に袖を通した。そうして、反対側も。ほら、やっぱり思っていたより大きい。なんだ、背が低いとは言っても男の子なんだなぁ。
 自分の腕を持ち上げて、くんくんと匂いを嗅いでみれば変わりなく空閑くんの香り。はぁ、いい匂い。玉狛の洗剤と柔軟剤の銘柄は知っていても、なんでか同じ匂いにはならないんだよなぁ。落ち着く。確か、遺伝的に相性が良いとか悪いとかって匂いでもわかるらしい。私は空閑くんの匂い大好きだしすっごくいい匂いだと思うから、相性はいいんじゃないかな、なんて。
 ――浮かれて羽目を外してしまうと、大体は痛い目を見るもので。

「……なにしてるんだ?」

 冗談じゃなく、死ぬかと思った。だって今身体中の血がすっと無くなったような、そんな感覚がしたし。
 反射で振り返った先には憮然とした表情の空閑くん。湿った髪の毛と肩にかけられたタオルを見るに、どうやらお風呂に入っていたらしい。なるほど。お風呂上りのさっぱりした気分で部屋に帰ってみれば――自分の上着を来ている知り合い。うわ、軽いホラーじゃん。

「えーっとですね、その、食堂にこの上着が置かれたまんまで……」
「あぁ、そういえば脱ぎっぱなしにしてたか」
「届けようと思って部屋にきて、置いて帰ろうと思ったんだけど……」

 ここまではすらすらと言える。多少の下心はあったけど、別にマズイことをしようとしたわけでもなく、したわけでもないと自負しているから。
 問題はこの先。置いて帰ろうと思った私がどうして空閑くんの上着に袖を通しているのか? 下心しかない私として、苦し紛れに絞り出した答え。

「……思ってたより、空閑くんの服大きいなって思って、ちょっと、確かめてみたくなったので着てました」

 当然、相手は空閑遊真くんですから。ウソを言えば余計に墓穴を掘るだけなので、どこまでもストレートに言うしかない。

「ふーん? そうか」

 そして、空閑くんはホントのことであればさして追及することもないらしい。よかった。首の皮一枚つながった。
 既に目的は達成していたので、ともかく私は来ていた上着を脱ぐことにする。合間で「思ってたより空閑くんって大きいんだね」と適当な話題を振りつつ。「そうか?」「うん。だってこの上着、私も着れたし」。さて、この会話でどうにか下心は誤魔化せただろうか。手早く、それでも雑にならない程度に上着を畳んで、私は空閑くんへと差し出す。

「えっと、勝手に着てごめんね?」
「別にいいよ」

 受け取った空閑くんはいつも通りの表情。普通に笑顔で返事をしてくれている辺り、そこまで引かれなかった、っぽい。いや、そうであってほしい。
 とにかく、これにてどうにかミッションコンプリートだ。「お邪魔しました」と声をかけ、私はそのまま廊下へと出る。

「一応、教えておくけど」

 ドアを閉めようと振り返った私。目の前には同じようにドアを閉めようとしたのだろう、ドアノブに手をかけた――笑顔の空閑くん。

「ウソじゃないから、わかりやすいんだぞ」

 じゃあな、と言い残した空閑くんはそのままパタンとドアを閉めてしまう。さすがにいつまでも空閑くんの部屋の前で呆けているわけにはいかないから、足だけはどうにか動かしてその場を後にして――じわじわと身体が熱を持ってくる。
 今の私、顔が赤くなってやしないだろうか。だって、わかりやすいって何。まさか、私の下心なんてお見通しってこと? でも、じゃあ、それならなんで。

「……もう、空閑くんかっこいい……」

 何あれ、ずるいよ。あんな勝気な笑顔で『わかりやすい』だなんて、期待しちゃうじゃん。

あなたの手のひら、恋心

(隠したいけど見てほしい、乙女心に完敗です)

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