自分が見えているもの、手の届くところはすぐそこまで。世界の終わりは思ったより目の前にある。人はそれを、井の中の蛙と称した。
つまりは目の前の少年も、言うなれば赤子のような蛙なのだろう。
「あんたがここだけにいたら、おれ以外を見ることはないのか?」
ここ、と少年が示すのは私の部屋という解釈でいいのだろうか。突然訪れた少年は、私が勧めたままに部屋の真ん中にあるクッションに腰を下ろしていて。平坦な表情のまま、透き通った赤い瞳を向かいに座る私だけに向ける。
少年以外を見ない、ということは現実的にはひどく難しいことじゃないだろうか。
「二つ聞いていいかな?」
「おう、いいぞ」
「ここってどこ?それと、空閑君以外って人? もの? 景色? 全部?」
疑問符ばかりを並べて問いかければ、少年は顔色ひとつ変えず、視線も逸らさないままにわずか唸った。
ぱちぱち。瞬きの合間だけ少年から逃れられる今の状況は、少しだけ居心地が悪い。それだけ真っ直ぐに自分を見てくれているのは、まぁ、嬉しいことでもあるのだけど。
けれど少年は残念ながら、性根があまり優しくはない。というか、どちらかと言えば意地が悪いので、結局あまり心安らかな時間を得られないまま、心乱される答えを寄越される。
「あんたが、おれだけを見れるとこ。ものも景色もいいけど、他の奴は見ないような」
――さて、私は少年に何と返せばいいのだろうか。
「空閑君からは、他の人が見えているんでしょう?」
「うん、そうかな」
「そんな空閑君が見えるところにいる私が、他の人を見ないって難しいんじゃないの?」
「そうか、それならおれとお前以外いない所ってことになるのか?」
少しだけ、聞き方を失敗したかもしれないと思った。できればそうであって欲しくないとは思ったけれど、得られた最終解は『二人だけの世界』らしい。
どうして少年はそんなことを考えるようになったのだろうか。正確な境目を私が知るわけがない。ただ、偶然二人でお茶をしたことがあって、気づいたら懐かれていたような気がする。記憶が確かなら、好かれていなかった筈なのだけど。
少年の幼い見目に似つかわしくない賢さ、妙に達観した視点は好ましく思っていたし、好かれるのならそれもいいと思っていた。可愛い後輩に懐かれた。それはそれで、ハッピーエンドじゃないか。
だがしかし、残念ながら物語は続いているらしい。それも、かなりあくどい方向に。
「そしたら、空閑君何も出来なくなっちゃうじゃない?」
「うん、それは困るから、全部終わった後に」
「……全部?」
「うん。やることをやって、やることがなくなった後」
少年の瞳は一切の濁りもなく透き通ったままだ。だからか、純真な願いのように聞こえる。きっとそれは誰もが一度は夢見てしまう甘い誘惑。悪魔が唆す夢に人が焦がれてしまう理由は、大体相場が決まっているもの。
「……寂しいの?」
聞くと、ぱっちり、ゆるりと瞼が下りて再び開いた。肯定も否定もしないまま私を見つめる紅。少年はよくこういう顔をする。私の真意を汲みかねているような、探っているような、そして答えを待っているような顔。
案の定少年は少しだけ待つ素振りを見せて、痺れを切らしたのか首を傾げつつ、何が、と問い返した。何が、寂しいのか。その質問はどちらかと言えば私がしたいのだけど。
いつもなら、もう少しからかうように話が出来るのに、今の少年相手じゃ難しい。意地を張っている様子ではないからだ。純粋に、寂しいとは何か問われているようで。
「空閑君は何が嫌で、私と二人だけになりたいの?」
自分で言っていて、何とも恥ずかしい台詞だ。少し頬が熱くなったような気さえする。けれど目の前の少年相手に照れていてもしょうがない。別に、多分、そういう意味ではないだろうから。
私の葛藤など知らないのだろう。少年はようやく視線を私からそらした。目線を下げて、恐らく意識を全て考えることに費やしている。はてさて今度はどんな答えが返って来るのやら。緊張しながらも待っていれば、いよいよ視線を上げた少年が紡いだ言葉。私の鼓膜だけでなく、心すらも震わせる音が響く。
「あんたが、おれ以外の奴を見てるのが嫌だ」
もし私が思春期真っ盛りの少女だったら。間違いなく赤面し、うろたえ、同時に言葉に詰まっていただろう。そのくらい少年の答えは私の心臓を打ち抜きそうなほどの破壊力を持っていた。
けれど。幸か不幸か私はそれなりに酸いも甘いも経験した上でここにいる。なので動揺はするものの、思考が止まるようなことはなかった。多少鈍りはしたかもしれないけど。
「……困ったなぁ」
そうでなければ、素直な感情を零してしまうことはなかったはずだ。口が緩んで漏れた本音に、少年はぴくりと眉を引きつらせる。それを境に、値踏みするような鋭い視線が私へと向けられて。
「嫌か?」
聞いている。訊ねている。なのに声色には一切の猶予がなかった。嫌だとは言わせない。そう圧力をかけてくるような迫力。
少しだけ気が引けたものの、私は一度深呼吸をしてから答えを返す。
「空閑君の真意がわからなければ、嫌ともいいとも言えないよ」
「シンイってなんだ。何が嫌かちゃんと答えただろ」
思ったよりも面倒なことになっているんじゃないか。その考えは間違っていないと思う。
どうしたものか。私もまた少年がしていたように目線をそらし、意識を思考へと集中させる。考える。私は何をどう聞き出せばいいのか。
何せ今の会話だけでは圧倒的に情報が足りないのだ。わかるのは、私が他の人を見るのが嫌だということ。だから、やるべき事が終わった後に私と二人だけの所に行きたい、と言葉そのままのことだけ。どんな意味が含まれているのかは依然わからない。
言葉のまま受け取るならば。執着、が一番近いように感じた。恋とかそういう理由ではなくて、独占欲に近い。自分だけが、その存在を見て、感じ、恩恵を享受する。
見る、という意味が視界に映すことではなく、意識する、という意味であるならば? だとしたら自分だけのことを考えてほしいという意味にとれなくもない。でもどちらかと言えばそれは恋愛に近い感情になってしまう。
考えているうちに、私は不覚にも油断してしまっていた。少年の意地の悪さは知っていたというのに。
影が動いた。そう気づいた瞬間には背筋を走る悪寒。恐怖。まずいと思うのと同時に、床についていた手の上に温かい感触が被さって。気づいた時には目の前に少年がいた。まるで獲物を前にした獣のようにぎらついた瞳で、私の瞳の、さらに奥を覗きこむように少年は顔を寄せる。
「近ければいいのか?そうしたら、おれ以外見えない?」
言うように今、私の視界は全て少年で埋め尽くされている。さすがの私も平静ではいられなくなってきた。少年はきっとパーソナルスペースなんて言葉は知らないだろうけど、この近さはどんな相手にも普通は許さない距離だ。
――許すとしたら、恋人だけ。
「……ええと、とりあえず、少し離れてくれないと困るなぁ」
「嫌だな。そうしたらあんた、おれを説得するつもりだろ」
「説得?」
「おれが他の奴を見るように、あんたが、他の奴を見れるように」
何も言われていないのに、許さないと言われているような。それくらい少年の瞳、顔つき、態度全てに執着心がありありと滲んでいた。
どうして。なぜ。疑問しか湧かなくなる。少年がそこまで私に執着する理由に心当たりがまったくなかったからだ。
「空閑君は、私の何が欲しいの? 何が、必要?」
聞いてしまうしかなかった。それ以外に現状を打破する方法が、追い詰められた私には思い浮かばなかったのだ。何をどうすれば少年が落ち着いてくれるか、冷静になってくれるか。とりあえず打てる手は全て打ってしまわないと。
目と鼻の先で紅い瞳が揺らぐ。まるで泣いているかのように。けれど微かに見える頬はピクリとも動かず、どういう精神鍛錬をすればそうなれるのか、少しだけ教えを乞いたくなった。
「あんたは人間のまま、おれを許してくれる。それでいいって。だから……」
細々と紡がれ、けれど最後まで言い切らないままに少年は唇を閉じた。言葉にすることでようやく感情を自覚したらしい。そして同時に、おそらくそれがどれほど傲慢なことかにも気づいたのだろう。目の前の愛らしい顔がぐにゃりと歪む。涙を零さないまま泣いてしまったように。
「……やめる。ごめん」
謝罪を告げて、身体を起こそうとする少年。止せばいいのに私は、引かれる身体を引きとめてしまった。どうしてか。言い訳が許されるなら母性のようなものが擽られてしまったからだと思う。
力の抜けた腕。少年は許されたと思ったのか、それとも好機と思ったのか、私の胸元へとその顔を埋めた。ぴとり。あぁ、襟ぐりの広い服を着ていたのは迂闊だった。少年の頬が私の鎖骨辺りに柔らかく触れる。同時に首元を白い髪が擽って。色々と居心地が悪いけど腹を括る。
「許すのとは違うかもしれないけど、寂しいのは仕方ないね」
少年はよく私のことを人間と称して呼ぶ。聞けば、彼のサイドエフェクトが理由らしい。ウソを見抜く力が発動している間は視界が歪むのだとか。目に映る全てがぐにゃりとうねり、形を失っていく。醜い様を散々に見てきた少年は、けれど私の歪んだ姿は見たことがないと言うのだ。
別に、意識してウソをつかないようにしているわけではないと思う。少年自身も真実か否かではなく、『ウソをつこうとしている意識』を見抜いているのだろうと言っていた。つまり私にはそういう意識が――罪悪感が、抜け落ちているのではないか。けれどやっぱりウソを言っているつもりはなく。
「もしかしたら、空閑君は優しさに飢えているのかもね」
「……お前別に優しくないだろ」
「優しくなかったら、こうして甘えさせてあげてないと思うけどなぁ」
少年はもぞもぞと体制を整えて、ついには私に抱きつくような姿勢になった。私の両足の間に腰を下ろし、投げ出した足はゆるく私の身体へと巻きつけて。顔は私の胸元に埋めたまま腕を緩く私の腰の後ろで組んでいる。
そして私はと言えば、そんな縋るような少年を無碍にもできず。幼子だと思えば仕方ないと、ふわふわの髪に何度も指を滑らせては落ち着くのを待つことにした。
優しさ。きっと誰もが欲しがる甘い毒で、温かい薬。少年に必要なのはそれなのかもしれないと思った。そういえば母親の話は聞かないし、あまり女性に甘えるようなところも見た事がない。父親の躾の賜物だろうか、礼儀正しくも男らしい振る舞いをするけど、少年は少年なのだ。母性的な愛に飢えて中途半端に大人になりつつあったのかもしれない。
「ねぇ知ってる。子供がえり」
「……知らん」
「子供がね、弟とか妹にお母さんを取られちゃうと、寂しくて、子供に戻っちゃうの」
「どうやって」
「甘えたり、我侭いったり、出来たことを失敗してみせたり、とにかく気を引こうとする」
説明しながら、思わず頬が緩んでしまった。羅列した全てがまるで、今の少年に当てはまるようだったから。
少年が私に母の影を求めたのかと、思うことは傲慢だろうか。
けれど、今もなお私に抱きすがり、頬を胸元にすり寄せてみせる姿はどう見ても母に甘える子供のようだ。されるがままに頭を撫でられている様なんて、まさに。
その甘い考えに、私は再び油断していたことを知る。
ぴとりと濡れた感覚。背筋が震えた途端、腰の裏にあった少年の手が逃がさないとばかりに私の背中を抑えた。身体を反らそうにも離れることは出来ず、じくりとした痛み。数秒の後、少年の頭が離れていく。
「ふむ、本当についた」
「……それ、何かしってる?」
「だれかのものだって、そういうシルシだろ」
確かに、キスマークは所有印とも言われる。言われるけどそれは恋人の独占欲からくるもので、今の場合には不適切ではないだろうか。私は少年のものになったつもりはないのだけど。
「あのね、そういうのは恋人にするものでね」
「おれにとってお前は特別だから、似たようなもんだろ」
――あ、まずい。
「恋人は作る気ないよ。どうせ死ぬし。だけどお前は特別で、おれのものだ」
私の心臓はバカなのか。急に暴れださないで欲しい。驚くじゃないか。
それに空閑君も空閑君だ。なんて傲慢なことを言うんだろう。事情を知ってしまっている私からしたらそれは独善的にも程がある。
しかも少年は不敵な笑みを浮かべながら、私の心臓に止めを刺すのだ。
「長いわけじゃないんだから、短い間くらい、お前をおれにくれたっていいだろ」
傲慢すぎる。恋人でもない立場で、特別というだけの曖昧な括りで私を拘束しようとしている。しかもこの言い草だと、責任だとかそういう殊勝な心がけは一切ない。自分が死んだ後は自由だからいいだろうとでも言いそうな態度のまま少年は笑う。
「許してくれるか?」
卑怯だ、と小さく呟いた。この距離で聞こえないわけがないだろう。けど少年は笑みを崩さないままに答えることもせず、私の返事を待つ。
「同情されてるとは思わないの?」
「それは都合がいいな。あんたはそういうの見捨てられない性質だろ」
瞳に宿る強い光は未だ鈍る様子がない。迷いのない様子。なるほど、少年は本当に良い躾をされている。生き残るために、利用できる全てを利用する。それは同情も同じ、とでもいうのだろうか。少年には屈辱だとかそういう感情はないのだろうか。
「――あぁ、だから、恋人じゃないのね」
想い、想われ。互いを大切にする。そういう関係にはなりえないと少年は言っていた。そういう関係には、責任が生まれるから。誰かを大切に想うなら、簡単には出来ないこともある。どんなに悩んでも、最後の一線を踏み越えられないことだってあるだろう。
だから、同情でもいいのだ。恋人ではないから。所詮はタイムリミットのある関係。終われば互いに自由で、だから責任は取らないと豪語する。それでも特別だからと縛ろうとするのは間違いなく執着で。
「特別な関係で、何をしたいの?」
「これと言っては浮かばないな。あぁでも、またこうしてもらうのはいいかもしれない」
スキンシップ。そう言えばセーフだろうか。幼子が母にやれば微笑ましいふれあいであっても、血の繋がりがあるわけでもない、さすがに年もそこまで離れているわけではなく、それなりの年齢の男女がこう抱き合っているのは恋人の戯れとの区別が難しいような。
それでも。少年が求めているのは温もりなんだろう。触れるだけで感じられる温かさ。肌ざわり。
「……で、特別だから、こういうことは空閑君と以外は駄目だってことでしょ」
「もちろん」
念入りに条件を確認する様子に、恐らく私から許しを得られると踏んでいるんだろう。笑顔は耐えず、それどころかどんどんと機嫌がよくなっているようだ。
言葉を変えよう。これは恐らく契約という方が近い。互いを想うものでない以上、少年にはメリットが存在し、だからこそ契約を持ちかけている。だとすれば私が考えるべきは、少年に何を私のメリットとして差し出してもらうべきなのか。
そこまで考えて、私は愕然とする。そのメリットは少年となんら違いのないものだったから。
「私から求めてもいいんだよね?」
「……ん?」
「寂しいなぁって思った時に呼んでもいいんでしょう? 慰めてくれるでしょ?」
思い出してしまった温もり。必要のないものだと、諦めようとしていたはずなのに。目の前にちらついてしまえば誘惑を断ち切ることはひどく難しい。
これまでは、それでも相手に失礼だからと耐えてきていたのだ。けれど少年は私の責任感という最後の砦を越えてきてしまった。責任は必要ない。そんな甘言を目先に吊るされて耐えられるほど、私は強くはなかったようだ。
「全部に応える責任はないぞ」
「それは私も同じでしょ」
「……努力はする」
どんどんと矛盾が広がっていく。なのに、もうそれでいいと思えてしまうくらいには、浮かれていて。
「いいよ。特別、なってあげるから、特別になってよ。」
――契約、成立だ。
「あんたにも寂しいなんて感じる時があるんだな。」
「そりゃあそうでしょ。」
「弱みを握れるとは思わなかった。言ってみるもんだな。」
再び少年の頭が胸元へと沈んだ。くぐもった声でよろしくな、と響く。さっそく契約に基づいて私に特別を求めることにしたらしいので、私も契約の通り甘やかしてその温もりを享受する。
相手を思いやることなく、自分の為に享受する。それはなんて背徳的な甘さを孕んでいるんだろう。間違っているのに、肯定されている事実に妙な興奮を覚える。
「楽しみだな。」
「何が?」
「……あんたが、いつまで耐えられるのか。」
あぁ、幻聴だと思いたい。けれどいつかの会話を思い出した私には、確かに少年の声でその言葉が再生される。
『実体のないものを、いつまで信じていられるんだろうな。』
愛は無い。真心も無い。思い遣りもなく、あるのは温もり目当ての、優しさに似せたまがい物。
さて、私はいつまで少年の前で人間でいられるのだろうか。