昼の月、夜の月
 二月をだいぶ過ぎた頃、中学校生活の終わりまで、あと少し。おれはボーダーの推薦もあって、三門高校への入学が決まった。
 けれど、まだ高校が決まってない奴もいる。そういう奴らはこれから試験を受けるらしく、最近の授業はその対策ばかりだ。毎時間配られる問題を解き、先生が説明をする繰り返し。
 そういつも通りの授業の中で先生が、説明ついでにヘンな話をはじめた。

「――さて、今回使われていた作品は夏目漱石のものですが、みなさんは漱石の有名な逸話を知っているかな?」

 おれは、ニホン人が勉強している内容はよくわからない。生きていくために必要な知識と学校で勉強する知識は違っていて、今回もそうだろうとぼうっと話を聞いていただけ。

「I love you. “愛しています”という言葉ですね。漱石はこれを“月が綺麗ですね”と訳したと言います」

 なのにその話が印象に残っていたのは、単純に、ヘンだと思ったからだ。
 愛している、という言葉ならおれにも理解できる。けど、『月が綺麗だ』と言われたら、月がキレイなんだと思うだけだろう。まったく違う意味だなんて思いもしない。ヘンな話だ。
 結局、ソーセキという人の話を聞いている間に鐘が鳴り、なんだか締まらないまま授業が終わった。スッキリしなかったので、おれは隣のオサムへと訊ねる。

「オサム、ニホンゴには暗号があるのか?」
「……は?」

 顔を上げたオサムの眼鏡が少し下にずれていたのは、真面目にプリントを見下ろしていたからなんだろう。さらには、おれの質問の意味がわからなかったようで、ぽかりと口が開いた間抜けな顔。
 どうしたものかと、おれはもう一度オサムに訊ねる。

「月がキレイだという言葉には愛しているという意味もあるんだろ?」
「いや……えーと、それは……」

 難しい質問だったのか、オサムは少しの間唸る。その後、いつものように眼鏡をかけ直すと「たぶん、」と前置きをしてから答えてくれた。

「さっきのは言葉そのままの意味だけじゃなくて、その場の雰囲気で言葉以上のものが伝わる、という話だ」
「ふむ? ちゃんと伝わるのか、それ」
「……この場合は、むしろ伝わらなくてもいいのかもしれない」

 なんだかオサムまで、さっきの先生みたいにヘンなことを言いはじめた。
 言葉は何かを伝えて、伝えられるためにあるんだろう。なら、伝わらない言葉をわざわざ使うことに何の意味があるんだろうか。
 訊ねるより先に、オサムは自分から続きを話しはじめる。

「あぃ……、いや、そういう特別な言葉は、面と向かって言いづらいだろう」
「ふむ」
「それでも伝えたいから、言葉を濁すんじゃないか」
「……だから、伝わらないだろ、それ」
「伝わらなくてもいいから、それでも伝えたい時があるんだ、きっと」

 オサムは『愛している』と言いかけただけなのに、焦ったような恥ずかしそうな表情を浮かべている。おれはわかったようでわからないまま「ふぅん」と相槌を打つだけ。
 そのまま話題は途切れて、すぐに次の授業がはじまった。

 ――その時のことを思い出したのは、青空にうっすらと月が見えたからだと思う。

 今日の玉狛支部では、オサムが過去の対戦記録をもう一度確認しておくといって端末にかじりついていた。チカは、もう授業がないおれ達とは違って学校に行っている。だから本部でそれぞれ過ごして、支部へ行く時に合流しようと約束していた。
 それで一人、着なれたパーカー姿で本部に向かっていた途中のこと。視界の隅の青空に、雲と見間違えそうなほど白い月がぽつりと浮かんでいた。そうして月か、と気づいた瞬間になぜか、あの授業の話を思い出したのだ。
 足を止めて、ぼーっと月を眺めながら記憶を確かめていると、背中から「遊真くん?」と声がかかる。

「……名前先輩?」
「やっぱり遊真くんだ。どうしたの? これから本部?」

 偶然会ったのは、ボーダーにいる時とは違う、高校の制服を着た名前先輩。見慣れない格好に、おれは少しだけ見惚れながらも返事をする。

「そうだよ。名前先輩もか?」
「うん。日直の仕事したから遅くなっちゃって、一人だったんだ。本部なら一緒に行こう?」

 笑顔で首を傾げるので、おれは迷わず頷いた。隣に並んだ名前先輩を見届けて、さて歩き出そうと視線を道の先へ。
 それとすれ違うように名前先輩の手のひらが、おれの背中へと伸びた。反射で身構えてしまいそうになって踏みとどまれば、おれの肩の後ろで何かをもぞもぞと動かしているような気配。

「パーカーの帽子、裏返ってたよ」
「……あぁ、なるほど。ありがとう」

 変わらない笑顔で「どういたしまして」と答えた名前先輩は、何事もなかったかのように他愛のないことを話しだした。唐突に近づいた距離があっという間に離れたことは、名前先輩にとって大したことではないんだろう。
 それを『つまらない』と思うようになったのはいつからだったか。
 恋というものは、自分には縁がないと思っていた。だってそれはウソの元だし、しょうがないとは言っても、感情を持て余すのは疲れるだろう。どうしようもないものに振り回されるのは面倒だと、思っていたはずなのに――ふいに、名前先輩の端末が鳴りはじめたので思考が途切れる。

「あれ?」

 名前先輩は不思議そうに端末を取り出したと思えば、まじまじと画面を眺めはじめた。少しして満足げに笑うと、「いいねいいね」と何やら呟いて端末をしまう。
 なんだかやけに嬉しそうだったから気になって「なにが?」と訊ねてみた。すると名前先輩は、案外気前よく答えてくれる。

「実は今日、私じゃなくて友達が日直だったんだよね。でもその友達が……なんていうか、気になる人に近づけそうなチャンスだったっていうか」
「ほう?」

 教えられたのは意外な内容だった。名前先輩から恋愛に関わるような話を聞くのは初めてで、なんだか不思議な気持ちになる。先輩自身の恋愛沙汰ではないにしろ、そういう話を聞けるのは、まるで少しだけ距離が近くなったようにも思えたからか。

「日直なんて代わるから行っちゃえ! って応援したんだよ。うまくいったみたいで、今お礼が来てた」
「律儀なヤツだな」
「だよね。でも、なんだか私まで嬉しくなっちゃったよ」

 言葉通り嬉しそうな名前先輩。見ていて、話を聞いているだけで胸の奥にすぅっと風が吹くように気持ち良くて、好きだと思う。
 笑った名前先輩は可愛い。無理に気遣うこともなく自然でいてくれる名前先輩が好きで、明るい雰囲気も居心地がよくて好きだ。
 そう素直に思えるようになったのは最近のことだった。いいヤツだって思うだけ、可愛いって思うだけなら誰にでもある。オサムとチカはいいヤツだし、チカだって可愛いだろう。そういうもので、名前先輩も同じ、特別じゃなかったはずなのに。

「こんなところで遊真くんにも会えたし、今日はなんだかついてる気がする」

 そう言って屈託なく笑顔を見せる名前先輩に、胸の奥がぎゅう、と縮まったような感覚。トリオン体なんだからそんなハズないのに、苦しいようにも思える気持ちを唸って誤魔化す。

「うむ、じゃあせっかく一緒になったしランク戦でもするか?」
「えぇ〜やだ。ポイント取られちゃったらアンラッキーじゃん」

 けらけらと笑う名前先輩に裏がないことはわかっている。さっきの言葉にだって深い意味はない。ただ、友達の恋が進展したらしいことを喜んでいた、その名残がおれへの笑顔に滲んでいて、なんとも言えない気持ちになっただけ。
 人のことでもあんなに嬉しそうにするんだ、自分に“そういうこと”があればもっと喜ぶんだろう。どんなヤツを好きになるのかは想像もできないが、そいつはきっと、さっきよりもっと可愛い名前先輩の笑顔を見ることができるんだろうな。
 ――おれはきっと、そんな顔を見られない。見たいとは思うが、その後のことを考えれば想うだけで、望むことはしない。

「……なぁ、名前先輩」

 これを愛とは思わないけど、好き以上だとは自分でも感じている。そして、名前先輩はおれのことが嫌いじゃない。むしろ好きだ。会話の端々から感じられる、それ以上を望むつもりはない。
 呼ばれて、おれへと顔を向ける名前先輩の後ろ、青空には変わらず白い月が浮いていた。せっかく思い出したのだし、不思議とその“台詞”がおれに合っていると感じて、出来心からそれを口にする。

「今日は、月がキレイだな」
「え?」

 きょとりと驚いたような先輩は、おれの視線を辿って振り向いた。そうして青空の月に気づいたらしく、「ホントだ」と当たり前のように頷いたあと、またおれへと笑顔を向ける。

「昼間に月が見えると、なんだか得した気分になるね」
「そうか?」
「夜だったら、月って眩しいからすぐ気づくでしょ。でも昼間の月は気づきにくいじゃない? やっぱりラッキーだね」

 名前先輩は、おれの台詞に裏があるだなんて考えもしなかったのだろう。“月がキレイ”だと、言葉そのままに受け取った名前先輩は変わらずに笑っている。その笑顔に、おれはようやくオサムの言った気持ちを実感した。
 ――伝わらなくてもいいから、それでも伝えたい時があるんだ、きっと。
 あの時のおれだったら、意味がなかったと思ったんだろうか。けれど不思議なことに、今のおれの心は青空のようにスッキリしていた。伝わらなくてよかった。それでも、言えてよかった。妙な満足感に、おれも笑顔で名前先輩に答える。

「うん、ラッキーだ」

 もしいつか、夜に会えたら。その時の夜空に月が輝いていたら、もう一度同じ言葉を伝えてみたいと思った。その時の名前先輩も、「ホントに、月がキレイだね」って笑ってくれればいいなって思ったんだ。

昼の月、夜の月

(好きな人だけに伝わってほしい暗号の話)

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