逃げて負けるが大勝利

『自分からキスしたこと、ある?』

 ぽん、と鳴ったスマホに目を落とせば、画面に表示されていたのはそんな質問。なんと返すべきか手が止まる。
 ひょんなことから始まった友達との恋バナは、段々と悩み相談になりつつあった。あんまり会う時間が作れなくて、くらいから始まったのが、最近彼氏と仲良い女子がいて、という愚痴を経て今。

『ないよ、できない』

 考えてもしょうがないし、素直な気持ちを返す。
 単純に恥ずかしいという気持ちが一番。女子から積極的なのって引かれるかな? という不安が二番。あとは少しだけ、自分でするよりされたいな、なんて下心。
 ほかにも混ざった複雑な気持ちで悶々としている間に既読がついて、ややあってから再びぽんと鳴る。

『私、挑戦してみようと思ってるんだ』

 へぇ、と思わず声が出てしまった。すごいなぁ、私にはできそうもないなぁ。なんて眺めていたら、続けて表示されたメッセージ。

『一緒に挑戦してくれない?』

 ぐ、と今度は唸ってしまう。どうして私まで、と思っていると、思考を先読みされているのかメッセージの追撃がくる。

『さっき言ってた、マンネリ防止にだってなるじゃん!』

 ――これはとりあえず、降伏すべきだと渋々キーボードをタップ。

『挑戦するだけだからね!』


***


 私と遊真の慣れ染めは、私から好きになった勢いあまってランク戦シーズンの真っ只中に告白してしまったことから始まる。最初は難色を示した遊真だったけど、粘るうちに折れてくれて、なんとか彼女へと昇格した。
 喜んだものの時期が時期なので忙しいのが悩ましいところ。付き合っているとはいえできることは、ちょっとしたメッセージのやりとりと、たまに一緒に帰ること。恋人らしさといえば、人目がなければ手を繋いだり――ほんの数度だけキスをしたくらいだ。
 慣れてくるうちに、付き合うってこんなものかなぁなんて思うようになった。それが友達に言ったマンネリの正体だ。

「――ぁ、」

 呼びかけた名前をどうにか飲み込んで、一息。
 ラウンジだとか、自販機の前だとか、ランク戦ロビーだとか。ボーダーで見かける遊真は、気づくと傍に誰かがいる。今だって、本部に来たばかりなのだろう遊真の背中、隣にはチームメイトである千佳ちゃんの背中が並んでいる。

 ――うらやましい、なぁ。

 小さく溜息をひとつ。ボーダーで会える時はあくまで先輩と後輩というのが私と遊真の関係だ。そこだけは絶対に、お互いがボーダー隊員だからこそ弁えなきゃいけないところ。
 つまり、こんな気持ちの時は会うこともできない。会って、上手に、普通に、先輩として振る舞える自信がないから。
 私はそっと踝を返す。ちょっとだけ遠回りをして、私も私でボーダーでやるべきことを済ませに。

 空閑遊真といえば玉狛第二のエースだ。B級上位チームのエースたちにも引けを取らず、ユニークな戦い方は解説席をも唸らせるほど。遠征部隊を目指して日々ランク戦にて研鑽を積む姿は、ボーダー隊員ならきっと誰でも一度は目にしたことがあるはず。
 私も例にもれず、遊真の個人ランク戦はよく見ている。過去の記録があるものはそれも、今みたいに端末室で、繰り返し。

 ――だってそのほうが、安心して遊真を見ていられるし。

 はぁ、とまた溜息ひとつ。友達には見栄を張ってマンネリなんて言ったけど、実際のところはそれ以前の問題な気がする。だってなんか、付き合ってるのかもよくわからなくなりそうだし。
 厄介なのが不満も不安もあれど……遊真を見るたび最初に浮かぶのは、好きだな、ということひとつで。映像越しの遊真にすら見惚れてしまって、記録を再生し続けるPCに釘付けになる。
 真剣な横顔。敵を落としきって試合終了のアナウンスを聞き終えたあとの、肩の力が抜けた背中。続けて、安堵したのかほんのりと口角が上がる唇が目の前に映って――頭を過ぎるのは昨日のこと。

「挑戦、かぁ……」
「なにに?」
「なにって――」

 キス、だなんて口走る前に気づけてよかった。振り向いた先にいたのは遊真本人だったから。

「え、な、なにしてんの」
「ログの確認に来たんだけど」
「あ、そりゃそう、だよね」

 私だって、今まさに遊真も映っている記録を見ていたのだ。遊真だって他の人の記録を見にくるだなんて当たり前だし、ちょっと、さすがに動揺しすぎている。

「隣いいか?」
「うん、どうぞ」

 断ってから隣の席に腰を下ろした遊真は、普通にPCを操作しはじめる。少しして目的の記録に行きついたらしく、画面を見つめる横顔が映像の光をうけてちかちかと瞬きはじめた。
 私も私で目の前の記録に集中し直すことにする。確かに遊真を見たい気持ちはあれど、勉強する意味合いだって兼ねているのだから。
 隊員達の挙動と、マップなどの各種データを並列に眺めて試合を追う。たまに映像を戻してデータを再確認しつつ、隊員達が行動に出た原因を推測しながら。

「――なぁ」
「……ん?」
「この時、どうしてこっちに出たんだ?」

 隣の遊真から声をかけられて、指さされた画面を見つめる。映っていたのは過去の私で、とある隊員との個人ランク戦での一幕だ。

「あーっと……その時は……マップのここに違和感があったとかだった気がする」
「どんな?」
「さっきここにいたし、置き弾とかあるかもって感じ?」
「まぁ、置いてたけど……気づくもんか」
「人によるんじゃない? 私は結構マップ見てるから」
「ふぅん。わかった、ありがとう」
「はーい」

 簡単なやり取りは、あくまで仲間としてのもの。色のない会話をすませて、お互い記録へと向き直る。ボーダー内ではこれが当たり前。今更疑う余地もないし、変えるつもりも――なかったけど。

 ちょうど人気の少ない端末室と、隣に遊真がいる状況というのは滅多にないチャンスなのかもしれない。だって、私から遊真にキスができそうなタイミングなんて早々ないから。
 第一に、年の割に背の低い遊真なので、私と並んでも遊真の方が低い。となると、お互い立っている状態――たとえば、帰り道だとか――でキスができるかというと自信がない。遊真にはちょっと上を向いてもらわないといけないし、でもじっとしてるわけじゃないだろうから、狙ったとおりにキスできるか、どうか。
 第二に、キスに持ち込めそうな雰囲気がないと。会話が盛り上がってるとキスはしづらいよね。実際に遊真がキスしてくれる時も、帰り道で周りに人がいなくて、ちょっと話題が途切れたタイミングだったりするし。

「――遊真」
「……ん?」
「今日って、一緒に帰れる日?」
「……どうかな。このあとのしゅんが何戦で満足するかによる」
「はは、無理そうだね」

 遊真は私の返事にどう思ったのか、「すまん」なんてしおらしく謝ってくれる。けれど私はといえば、むしろ好都合だと内心では喜んでいた。
 第三に、キスしたあと、どうするか。キスって嬉しいけど、ちょっと恥ずかしかったり照れくさかったりで困っちゃうし。帰り道なら、また明日、で逃げられる。だから挑戦する時にも、そのあとの逃げ場を確保しておかないと。

「名前は今日、いつもどおりか?」
「うん。いつもの時間に定例ミーティングしたら終わり」

 時計は刻一刻と集合時刻に針を進めている。だから、私が記録を見終えてPCの画面を淡々と整理、消していく姿はなんら不自然じゃない。遊真も特に気に留めた様子もなく、視線をまた画面に戻している。
 ミーティングという逃げ場は確保した。今日このあと会う予定がないなら、顔を合わせて気まずくなることもない。今日さえやり過ごせば、なんとなく、いつもどおりに戻していけると思う。

 図らずも今、条件が揃った。逃げ場がある安心感に背を押されるように、いよいよ決行へと踏み切ることに。
 私はいつもどおりに立ち上がるように見せかけて、隣にあった遊真の――頬に、そっと唇を押しつけた。すぐに離れれば一拍おいた遊真がゆっくりと振りむいて、驚いているのかどうか判断のつかない表情を浮かべている。
 席を立った私はなるべく普段どおりを心がけて、笑う。

「じゃあ、また明日」
「――おう」

 口にはできなかったけど、私にしては上出来だ。なんの変哲もない挨拶をすませた私は達成感を胸に、これまた普段どおりを心がけてミーティングへと足を向けた。

 *

 なんて、本当ならこれで、今日はいい日だったと終わるべきだと思うんだよね。
 ミーティングへの移動中、短い時間でさっそく友達に報告だけ済ませた。『ほっぺだけど、私からキスできたよ!』と、スタンプもおまけにつけて。少ししたら既読がついて『私も頑張る!』なんて返事がきたので大満足だ。
 意気揚々と定例ミーティングに臨んだら今度は、久々にあれこれと盛り上がった。私もテンションが上がってたし、鉄は熱いうちに打てと言うし。そのまま共同訓練になだれこみ、いつもより帰る時間が遅くなったものの充実した時間を過ごした。
 ――あとで。

「よ、遅かったな」
「……ど、したの?」
「さっきまでしゅんといたけど、名前がまだ帰ってないみたいだったから」

 待つ間が暇だったのか、手元の小型端末の画面にはランク戦の記録らしきものが見えた。けれど遊真はすぐに画面を消してしまい、私を伺う。

「……なんだ、まだ帰らんのか?」
「いや、帰る、けど」
「じゃあ行こう」

 遊真が歩き出してしまうので、私も渋々と後をついていく。嫌なわけではないんだけど、嬉しい、と素直に喜べるような状況ではないから。
 今も、内心では冷や汗をかきっぱなし。どうして今日に限って帰る時間が合ったりするんだろう。いつもだったら嬉しいハプニングなのに、今はちょっと居心地が悪くて落ち着かない。

「珍しいな」
「、え?」
「今日は長引いたのか?」
「うん、まぁね」

 相槌を打ちつつ、そっちか、と安堵。別に悪いことをしたつもりはないんだけど、いつ、さっきの私からのキスを追及されるんだろうかと……執行を待つ罪人のような気分だ。
 いっぽうの遊真は……たぶん、いつもどおり。照れてる感じでもないし、そわそわしてる感じでもない。それはそれでちょっと、私は頑張ったんだけどなぁという悔しい気持ちも湧いてくるけど。何事もなく今が過ぎるならそれに越したことはない、と思い直す。

「遊真も珍しいね」
「うん?」
「待っててくれてるとは思ってなかった」
「……まぁ」

 ――話題選びを失敗したな、と思った。歯切れの悪い返事に妙な緊張感がぶわっと湧いてきて、慌てて話を変えようと、真っ先に目についた自動販売機を指さす。

「あ、連絡通路に入る前にさ、自販機寄ってっていい? 喉乾いちゃって」
「……いいよ」

 了承は得られたものの、これもちょっと失敗したかもな、なんて。ジュースを買っただけですぐ帰り道に、と言うのも変だろう。ましてやここにはベンチがあって、喉が乾いたなんて言ってしまっているから、なおさら。
 せめて、いつでも帰ろうと切りだせるようにペットボトルのにしよう。企みつつもさっそく一本買って、遊真へと振り返る。

「遊真は? おごってあげようか」
「じゃあ、これがいい」
「はーい」

 選ばれたのは缶だったけど、まぁ遊真ならすぐに飲み終わっちゃうでしょ。私が続けて小銭を入れているうちに、遊真はしゃがんで私のペットボトルを取り出してくれる。そのまま待っている様子だったので、私は遊真の希望どおりのボタンを押した。遊真は落ちてきた缶を取り上げて立ち上がり、私にペットボトルを差し出す。

「ほい」
「どうも」

 受け取って、そのままベンチへと腰を下ろす。空いていた右隣には当たり前のように腰を下ろす遊真。その距離感がまた――さっきのことを思い出してしまう。

「遊真、時間大丈夫なの?」
「しゅんとやるんだから遅くなるだろうと思って、もう連絡してある」
「そっか、ならいいけど」

 ……いいけれど。急ぐ必要がないというのも悩ましい。時間の余裕があるからといってゆっくりするには、忙しない心臓が邪魔をするし。ひとくち、ふたくちとジュースを飲んでも落ち着ける気がしない。
 そうなると頭も上手く周らなくて、私はまた手っ取り早い話題へと逃げる。

「……なんか、人がいないね」

 墓穴を掘ってどうする、という気持ちはあれど事実なのだからしょうがない。連絡通路の出入口のすぐ傍なんだから、もっと人の出入りがあってもいいはず。なのにどうしてか、今は私と遊真だけだ。

「防衛任務の交代も終わったし、このくらいになるといつもこうだぞ」
「へぇ、そうなんだ」

 なんだか今日はものすごく、二人きりになるタイミングが多いような。
 隣には遊真の左手。うっかりとベンチに手をついてしまえば触れてしまいそうで――手を繋ぎたくないわけじゃないけど――そう甘い雰囲気になってしまうの、今の私には恥ずかしすぎて無理。
 しょうがなく私は行き場のない両手でペットボトルを弄ぶ。すると遊真が缶をベンチに置いたようで、カツン、と音が響いた。そうして空いた手が、私のペットボトルへと伸ばされる。

「それ、ちょうだい」
「え、うん、いいけど――」

 遊真、これ好きだったっけ? そんな疑問を抱きつつ、蓋を取ったペットボトルを素直に差し出す。
 けれど、受け取った遊真はペットボトルを自分の右脇へと置いてしまった。

「え、なん――」

 で、聞き終えるより先に、頬にふにりとした感覚。温かく、柔らかいそれは間違いなく遊真の唇で。

「え、と」
「これはさっきのお返し」
「お、お返しって――」

 なんで、と言おうとしたら、隣にあった遊真の腕が私の背中を回って腰へと添えられた。そういう、気配。距離を詰められて、成す術なく私は遊真のキスを受けとめる。
 私の閉じた唇に押しつけられた遊真のそれは、最初、同じように少し緊張していた。けれどわずかに離れて、また重ねられ、繰り返すほどに優しくなっていく。私も段々と、驚きより恥ずかしさより、嬉しさと気持ちよさのほうが大きくなっていく。

 最中、唇の間をこじ開けようとする遊真の舌先に気づく。
 どうして、と薄ら目で様子を伺ったのがダメだった。細められた紅と目があってしまって、恥ずかしさからぎゅうと目をつむる。同時に、遊真の手のひらが私の腰をゆるりとさすった。ぞわりとして声が出てしまいそうになって、耐えられず唇の力が抜けてしまう。見逃してくれるわけもなく、いよいよそれが中へと入ってきた。
 ねっとりとうごめく遊真の舌。最初は微妙な気持ち悪さを感じてしまったものの、擦りつけられていくうちに思考が解けていく。私、今、遊真とディープキスしてる。なんでだろ、なんて呆けつつも、私はただ遊真に応えるように舌を擦りつけていく。

 カツン、と音が響いた。持っていたペットボトルの蓋を落としてしまったらしい。
 ふっと遊真が離れていき、まるで夢から覚めたような気分だ。呼吸をすることを思い出して、ほぅ、と息がもれる。

「…………遊真、は」
「……うん?」
「……どうしたの、急に」

 恥ずかしさも照れくささも、キスでぐずぐずに溶かされてしまった。息をつきながら遊真の肩に頭を寄せて一息。変わらず腰へと添えられている遊真の手が、私を抱き寄せるかのように力がこもる。

「名前だって」
「なに?」
「急にキスしてくるから、びっくりしただろ」

 まるで内緒話でもしているみたい。ささやくような声は甘ったるくて、『彼氏』の遊真だなって実感する。

「……びっくりしただけ?」
「…………嬉しかったけど」
「嬉しかった?」
「そりゃ、まぁ」

 素直に肯定しないのは、少しくらいは照れているからなんだろうか。私は手持ち無沙汰にしている遊真の片手へ、そっと自分の手を伸ばす。手の甲に触れて、指先を絡めて。握り返された手が嬉しくて、また遊真の肩へと擦り寄る。

「それなら、よかった」
「……名前は?」
「…………それ、聞くの?」
「おれは言ったぞ」

 声をひそめなくたって、近くに人の気配はないのに。それでも、甘ったるい恋人の声を独占したい気持ちで、私はそっとささやき返す。

「好きだなって、思った」
「……おれも」

 好きだぞ、と遊真のささやき声が優しく鼓膜を揺らす。

「今日の遊真、なんか、すごい彼氏っぽい」
「彼氏だけど」
「知ってる……ここ、ほんとに人来ないね」
「うん。だから、ちょうどよかった」

 うわ、遊真ってば今、すごいこと言ってる。ちょうどよかった、なんてまるで虎視眈々とタイミングを狙ってたみたいな言いぐさだ。

「……なんかやらしい」
「なんで?」
「はじめからキスしようとしてたみたいじゃん」
「当たり前だろ」

 言質とっちゃった、なんて思わず笑ってしまいそうになったけど、遊真はどこか拗ねたような声色で言葉を続ける。

「されっぱなしで逃げられるのは悔しいからな」

 どうやら私からのキスという挑戦は、遊真にとってもある種の挑戦状を叩きつけられたようなものだったらしい。受けてたった遊真からの反撃が……あんなにとろけるキスならば、私は喜んで全面降伏しますとも。


逃げて負けるが大勝利

(キス逃げがテーマでした)

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