『まずいな――』
レプリカの呟きに背筋が凍る思いだ。まさか、今の今まで大規模侵攻のことを忘れていたなんて。
これまでに過去の記憶を思い出す時は、必ずなにか関連したものを見聞きしていた。だから今日まで玉狛で呑気に過ごしていた私は、大規模侵攻の一片すらも思い出すことがなかったらしい。
(……もし、ここが本当にボーダー西部なんだとしたら……)
瞬間的に記憶を再構築していくなかで脳裏を過ぎるのは更地になった警戒区域。そうだ、ボーダーの北西、西部辺りは更地にさせられてしまうんじゃなかったか。
『リア、迅から通信が入った。ここは危険だ。ともかく、一度出るぞ』
(了解)
迅さんからわざわざ連絡が入るくらいだ、これは間違いなさそう。私はレプリカについて玄関へと向かう。
レプリカがまた扉を押してほんの少しの隙間を開けてくれたので、私は振り返らずに家から出た。もしかしたらこの家を見るのは最後かもしれない。それでも、私には思い出すことも、名残を感じるものもないことだけはわかった。それで充分だ。
『迅によれば、ともかく南西部辺りにて隠れろとの指示だった。西側は危険だが、私達の機動力ではそう遠くまでは逃げきれないからな』
私は指示を聞きながら先導するレプリカの後を追う。生身で戦場真っ只中を駆け巡るなんて二度とごめんだと思っていたのになぁ。
とはいえ後の祭りだし自業自得でもあるしで、私はともかく必死で走る。少しすればボーダー隊員が交戦しはじめたのか、いよいよ戦闘音が響いてくるようになった。
『トリオン兵たちは市街地に向かっている。奴らの背後でやり過ごすことを――』
ふとレプリカの指示が止まる。けれどレプリカは私を案内するように進み続けるので、変わらず後を追いかける。
少しするとレプリカはまた指示を再開しはじめた。
『新型トリオン兵が現れた。この近くにも反応がある。いったんこの辺りに身を潜めよう』
レプリカはそう言って近くの民家の庭先へと入っていく。囲うように植えられた生垣の根元へどうにか身体を滑り込ませれば、一息。
思ったより疲れてしまうのは、やはり切羽詰まった状況だからなんだろうか。そもそも猫って瞬発力はあるイメージだけど、持久力とか……つまりは、長く逃げ続けるみたいなのって苦手なのかもしれない。
そんな私がこれからどう逃げればいいのか。不安に思っているとレプリカはまだ淡々と指示確認を続ける。
『トリオン兵はトリオン器官を持つものを捕獲対象として認識する。リアも、以前あったように捕獲対象として判断される可能性がないともいえない』
(……ここにいて大丈夫……?)
『だが、新型トリオン兵はトリガー使いを捕獲対象とする。今のリアなら、新型の捕獲対象としては優先順位が低い。おそらく索敵から逃れられるだろう』
なるほど、だから警戒区域の外に向かうよりも身を潜める方が安全だと判断されたのか。私を標的にするであろうトリオン兵の群れを追いかけて逃げるより、新型の傍のほうがまだ、直接的な被害は避けられると。
それなら、よかった――と安堵すると同時に爆発音。
怖くてうずくまってしまうけど、轟音の最中にもレプリカが淡々と現状を説明してくれる。
『本部基地に爆撃されているが、持ちこたえている。大丈夫だ』
(……イルガーの、爆撃)
『リア、もう少し移動しよう。めぼしい場所を見つけた』
レプリカがそう言って生垣から出ていくので、私もどうにか重い腰を上げる。レプリカに案内されてしばらく駆け、着いたのは一軒家の庭先。どうやらこの家では犬が飼われていたようで、残された犬小屋にお邪魔させていただく。
これまで、どれくらい時間が経ったのだろうか。この戦いはあとどれくらい続くのだろうか。ここから先どうなるんだったか。
隊員の人たちが各々撃破したり、されたりなのは覚えているけれど、それらが『どこで』行われていたのかは記憶が薄い。今、本当にここにいて大丈夫なんだろうか。いざという時逃げきれるのか。
『――リア、少しだけ私の話を聞いてほしい』
ふと落ちたレプリカの声は凛としていて、頭の中のもやをすっと吹き飛ばしてくれた。
突然改まってどうしたのだろうかと顔をあげてレプリカを見れば、レプリカは静かに話しはじめる。
『ずっと考えていたことがある。リアは、なぜトリガーを使えるのかということだ』
思わず(……なぜ?)とオウム返しした言葉はにゃん、と小さな鳴き声で響く。するとレプリカは、まるで顔を覗きこむように私への距離を詰めた。じぃっと、猫の表情の変化ひとつも見落とすまいとするかのように。
『元々、トリガーを使えるのは人間だけだとされていた。それは決して人間だけがトリオン器官を持つから、などといった理由ではない。トリガーを理解できなければ起動することができないからだ』
にゃあん、と相槌を打つ。それは私も薄っすらと記憶にある。
トリガーを使うのに必要なのは、トリガーを起動する意志をなんらかの形で発すること。だから人間にはトリガーが使えるのだ。人間には意思があり、それを顕現することができるから。だから動物には扱えない、というのが私の知る結論だった。
『つまり逆説的に言えば……リアはトリガーがなにかを理解しているということになる。伝わるだろうか』
私は返事ができなかった。レプリカの意図がわからなかったからだ。
するとレプリカは、意を決したように私に告げる。
『私は、リアが私と同じような存在ではないかと思っている。言語を理解し、技術を理解し、自らの意志を持ち自らの考えを持つが――人ではない。そういうものだ』
それは、あまりに分不相応な評価じゃないか。
けれどようやくレプリカの伝えたかったことを、なんとなくでも理解した気がする。私がトリガーを使えるということは『人とほぼ同じ知能、思考を持っている』と評価するに値するのだろう。
だからレプリカは自分と同じような、というのだろう。トリオン兵であっても、猫であっても、私達は人の言葉を理解し、技術を理解し、だからこそトリガー技術を使うことができるのだと。
『……しかし、リアには的確にコミュニケーションをとる手段がない。今の私の知識では、それを解決する方法はまだ見つかっていない』
それはそうだ、と思う。私の知る限りの技術では動物の言語を理解できているわけではなかったはずだ。たゆまぬ研究の結果おおまかな意味はわかっていたとしても、動物の鳴き声の意味をすべて理解しきるなんて難しいだろう。
でなくても人間同士だって、同じ言語を使っていても理解し合えないことがあるのだ。いわんや猫をや、だ。それなのにレプリカは……どこか、残念そうで。
『できるなら、リアに意志を伝える手段を残したかった。だが、それも難しいようだ』
瞬間、背筋が冷えた。だってまるで、これで終わりみたいな気配を感じたのだ。
そんな、まさかと思わず腰を上げる。レプリカの表情は変わらない。けれどここまでずっと落ち着いて話を続けてきたレプリカの本体は、今、どうしているのか。
『まもなく、ユーマから受けた私の任務は完了する。その前に、私からリアに頼みたい』
修くんと、千佳ちゃんを守る。それが完了する時は、つまり――
『どうか、ユーマを一人にしないでやってくれ』
どうして、って尋ねられないのがもどかしい。なにも言葉をかけられないのが辛い。
――言い終えたレプリカは、ことりと地に落ちた。