この住所を訪ねた時にレプリカは言っていた。住所を頼りにあそこの家主を探すことはできるかもしれないと。
けれどそうして見つかるのは名前も知らないこの猫の飼い主で、私の知らない人たち。そして、その人たちが猫を探しているとしてもそれは『リア』ではない。もちろん私でもない。名前も、どんな子かも、今はどこにいるかもわからない猫。
「……リア?」
私が腰を上げたことで、栞ちゃんが驚いたように名前を呼んでくれる。
そう、私はもう『リア』だから、前の飼い主さんと会うつもりはない。会ったところでお互い寂しい思いをするだけだ。私はまったく記憶のない前の飼い主さんにお世話になりたいと思っていないし、飼い主さんだって、自分が可愛がってきた猫とまったく違う猫を可愛がるかもわからない。
――と、いうのは建前かもしれないけれど。だって私が一番大切にしたいことは、もう決まった。
私は首輪を咥えて机から下りた。そうして食堂の隅にあるゴミ箱へと歩いていき――それを捨てる。
「り、リア!?」
小南先輩が驚いたような声を上げるがなんのその、私はてくてくと歩いて戻り、遊真くんの足元へと腰を落とす。
(私は、遊真くんの猫だよ)
にゃぁんという鳴き声は、遊真くんにはどんな言葉に聞こえただろうか。それでも、遊真くんは目を逸らさずしっかりと私を見つめ返してくれる。私もただじいっと見つめ続ける。
「……おまえは、それでいいんだな」
(もちろん)
遊真くんの最後の確認に、間髪いれず返事をする。遊真くんはいよいよ私の意志を汲んでくれたようで「わかった」と頷いた。
すると一区切りついたからか、小南先輩と栞ちゃんが食い入るように会話に入ってくる。
「ちょっと待ちなさいよ、今のなに!?」
「前から思ってたけど、リアってまるでアタシたちの言葉がわかってるみたいじゃない?」
「たぶんわかってるよ。でなきゃトリガーが使えるわけないと思うし」
「はぁ!? トリガーが使えるって――」
小南先輩がまさに遊真くんに食い下がろうとした時、食堂の扉が開く。賑やかな雰囲気にも臆せず入ってきたのは迅さんだ。
「ずいぶんと騒がしいけど、なんの話?」
「今リアの――……なに、それ」
小南先輩の勢いが急速に落ち着き、呆れたような雰囲気で迅さんを睨むだけになった。それ、とはなんだろうと私も迅さんを伺えば、片手に持っているのは見覚えのあるおもちゃ。お風呂場にあった、ひらがなのパネルだ。
「風呂場から持ってきたんだよ」
「はぁ? なんでよ」
「それより宇佐美、進捗はどうだ?」
「どうにか進んでるよ〜。今はやっとデータの分類が終わったとこかな。これから本格的な解析に――」
迅さんの質問に答えていた栞ちゃんの声がふっと止んだ。少し逡巡するような間があって、すぐに叫ぶように「来て!」と呼ばれる。栞ちゃんの勢いのままに、全員で移動したのは地下訓練場だ。
備えつけのパソコンに飛び掛かるように、栞ちゃんはカタカタと忙しなくキーボードを叩きつつ、なにかのデータを画面に表示させる。四人がそれぞれ立ったまま画面を覗きこむので、私は机の上に乗ってその間にどうにか潜り込んだ。
「これ、中にあったデータのひとつなんだけどね」
栞ちゃんはそういって画面を指でなぞる。かろうじて、うっすらと指輪のような、ともかく輪っか型のなにかが表示されているということだけはわかった。
「……親父のトリガーとはちょっと違うな」
「うん、凄い単純なトリガーだよ。トリオン体を生成できること、換装できること、それから位置情報の発信。このトリガーの所有者の場所がわかる、くらいの単純なものだけど。それから……生成するトリオン体にちょっとした機能が搭載されてる」
遊真くんの呟きに、栞ちゃんは食いつくように続ける。画面上のデータをなにやらクリックしたり操作したり、水を得た魚のように機能を説明するばかり。
「ボーダーのトリガーってトリオン体はトリオン体として生成して、武器は武器として生成するの。だから武器を切り替えられるんだよ。その代わり、同時に二つまでしか使えないんだけど」
「なるほどな」
「でもこのトリガーはトリオン体と武器の区別がほぼないの。起動者をスキャンしたトリオン体生成時に、身体の一部をトリガーブレードに置き換えてるんだよね。その初期指定位置が――爪」
「爪? ってまさか、引っかいて攻撃しようってことじゃ……」
栞ちゃんの説明に小南先輩がツッコミを入れた、瞬間合点がいったように顔を見合わせて固まる。遊真くんも後を追うように「あ」と声をあげて。
「首輪か、これ。リアのトリガーのつもりだったのかも」
遊真くんが納得したように頷くと、小南先輩と栞ちゃんがぐるりと顔を向けて私をじいっと見つめてくる。猫にトリガー、なんて新たなことわざができてしまいそうな勢いで、不信感たっぷりに私の反応を伺っているようだ。
そんな状態に一石投じたのは迅さんの一言。
「遊真、どうする? その気になれば作れるよ。おれのサイドエフェクトがそう言ってる」
けろっとした迅さんに、驚いたように食ってかかる栞ちゃんと小南先輩。
「迅さん!? まさか、本部に持ち込むの!?」
「そりゃ〜、今作るとしたらそうなるなぁ」
「こんな猫がいるなんてバレたら大騒ぎじゃないの!?」
「だから早いほうがいいだろ?」
二人の猛攻をひらりとかわし、確かめるように「どうだ?」と首を傾げる迅さん。問われた遊真くんはしばらく考えたあとで、今度は画面を見ていた私に問う。
「――リアは、トリガーほしいか?」
悩ましい質問だ。そりゃあもちろん興味がないわけではない。とはいえ、私にトリガーなんて宝の持ち腐れでは? という気持ちがないわけでもない。
遊真くんは私が黙っている様子を見て、自身も逡巡するように画面を眺めつつ呟く。
「レプリカがいないから、リアが自由に動くならいざって時に場所がわかる機能は便利だと思う。あと、生身だとおまえ、体力ないみたいだからな。なにかあって逃げるって時のためにトリオン体に慣れておくのはいいと思うんだ」
「どうすんのよ遊真。まさかリアも戦えるように、とか言うんじゃないでしょうね」
小南先輩が顔をしかめながら確認するのに、遊真くんは「しないよ」とすぐさま否定。
「不意をつくくらいならできても、戦いが長引くほどリアが不利だろ。おとり役くらいならできるかもしれんが……」
「いやいやいや! こんな猫見つかったら絶対捕まえられちゃうよ! 実験動物みたいにされちゃうかも!!」
栞ちゃんが必死に遊真くんに訴える。私としては囮役ができるのならそれはそれでありかも……? なんて思ったけど、遊真くんとしては栞ちゃんに同意らしい。平然と「うん、だから」と肯定しつつ――じいっとまた私を見つめて話す遊真くん。
「いざって時のために、トリガーはあったほうがいいと思うんだ」
記憶の中で誰かが、『パワーアップはできる時にしておいたほうがいい』と言っている。
いざって時のための手段を得られるチャンス、だとは思う。けれどトリガーを作ってもらうとしたら……。
「……で、ここでこれの出番というわけだ」
迅さんがいよいよ机の上にひらがなパネルを置いた。栞ちゃんと小南先輩は疑うように、けれどどこか期待するようにパネルと私を見比べる。
確かに、この心配は猫の挙動だけでは伝えきれないだろう。私は迅さんに感謝しながらも、パネルを選んで引っ張ってきて、皆に見えるように並べる。
「……お、か、ね?」
「はぁ!? 猫なのにお金の心配するの!?」
小南先輩の荒げた声にびくりとしつつ、にゃぁん、と相槌で肯定する。
だってカルワリアでだってトリガーは貴重品だった。使える人間が限られているということもあったけど、少なくとも『タダ』でやり取りするようなものではなかったのだ。
それはボーダーでも同じハズ。トリガーを作るにはお金も人手もトリオンもかかる。訓練生のトリガーにベイルアウト機能がないのはそれらに限りがあるからだと誰かも言っていた。ならばこのトリガーだって、作ろうと思ったらそれなりに大変なことになるのではないか。
けれどおそらく、パネルを持ってきた迅さんだけは、私の不安要素を見抜いていたのだろう。だからか余裕たっぷりにふっと微笑みつつ「遊真」と声をかける。
「リアに懐具合を心配されてるみたいだけど、大丈夫なのか?」
「うむ、しんがいだな……。迅さん、今回おれがもらった報奨金じゃ足りないの?」
――え?
「う〜ん、リアのトリガーにベイルアウトがつけられるかどうかにもよるな」
「お金払えば大丈夫なんじゃないの?」
「あー、それはリアによるよ、遊真くん。トリオン量が少ないと、そこまでは難しいかも」
「ふぅん……まぁまだあるから、とりあえずお金に問題はないな」
ちょっと、正直背筋が冷えた。遊真くん、サラリと結構すごいこと言ってない? 遊真くんが今回もらった報奨金っていくらだったかは知らないけど……それ、遊真くんへのご褒美なのにいいのだろうか。
これ、気軽に『ありがとう』って言える感じでもないんだけどどうしたものか。考えていると近くにいた小南先輩が「っていうか」と遊真くんに食ってかかる。
「リアは、お金もそうだろうけど、遊真にそれを払わせるのも心配なんじゃないの?」
「ほう? そうか?」
遊真くんが確認するように私を伺うので、おずおずと相槌。控えめなにゃぁ、の声に遊真くんもまた唸る。
「うぅん……なぁリア、一応確認しとくけど」
遊真くんは少しだけ腰を屈めた。机の上に座る私としっかりと目線を合わせるように。
「おまえ、よくわからんがもう前の主人はいいんだろ?」
(? うん)
私が鳴く時はだいたいが肯定の合図だ。そして遊真くんはそれを聞いてきょとりと不思議そうな顔。
「じゃあ、おれ以外に主人のあてはいるのか?」
――まさか、いるわけがない。私が主人として、飼い主として頼るとしたら、カルワリアで私を見つけてくれた遊真くん以外にいるはずがない。
思わず一歩、遊真くんへと歩みよる。まるで自分が主人だと言わんばかりのそれに、遠慮よりなにより嬉しさが勝ったのだ。
遊真くんはそんな私を見てふっと微笑んだあと、優しく頭を撫でてくれた。そうしてゆるりと首元をくすぐるように撫でて静かに問いかけるのだ。
「だったら、新しい首輪はあったほうがいいだろ?」
まだ少しだけ迷いはあったけど、私はぐっと堪える。名残惜しいが撫でてくれる遊真くんの手から離れて、パネルの前へと戻った私。いそいそとパネルを並び替えて見せれば、覗き込んだ小南先輩と栞ちゃんがちょっとだけ首を傾げる。
「……お、ね、か、い……?」
しょうがないじゃないですか! このパネル、濁点がないんだもの!!
「うん、まかせろ」
私の悲痛な鳴き声もなんのその、遊真くんはいよいよ笑ってくれた。私はもう一度、あらためてよろしくお願いしますと鳴くのだった。