私からの了承を得て、流しから戻ってきた空閑君は再び私の向かいへと腰を下ろした。なにもないローテーブルを囲んで話すのも、と今度は私が立ちあがる。
「お茶、淹れようか。ココアと紅茶ならどっちがいい?」
「うーん……ココアがいい」
リクエストに応えるべく、冷蔵庫から牛乳を取り出した。それからココアも用意して――せっかくなら、少しくらい時間をかけてもいいだろうか。
小鍋で二人分のココア粉をちょっとの水で練ってから、牛乳を少しずつ加えて温めながら溶いていく。温かい牛乳にココア粉を入れるだけでもいいのだけど、こうして丁寧に溶いていくと、なんとなく贅沢な味になる気がするのだ。
ひとすくいを味見して、まぁまぁ上出来。マグカップに注いで部屋へと戻る。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
空閑君の前にマグカップをおけば、両手で持ってふぅ、と冷ましている。それから間を置かずカップを煽って、空閑君は「おいしい」と笑ってくれた。日本には、空閑君にとってのおいしいものがたくさんあるんだなぁ、なんて微笑ましい気持ちになる。
……さて、どうしたものか。どんな話か、と聞いてしまえば本題には入るだろうが、急かしたいわけではない。かといって他愛のない話を振ると、お別れの時間を引き延ばすばかりで迷惑じゃないだろうか。
手持無沙汰にマグカップを弄んでいれば、向かいの空閑君は優しい声を落とす。
「和音ちゃんは、聞かないんだな」
静かな声だ。どことなく拗ねているような、もしくは呆れているような、混ざって本心が読みきれない呟き。
私が視線を上げれば、やはり静かな表情の空閑君が私を見ていた。疑問というよりは断定。私ならそうするだろうと予想していて、まさにそのとおりになった、と言わんばかり。
「……聞いたほうがよかった?」
「どっちでもいいよ。和音ちゃんらしいし」
ふっと笑ったかのような吐息が落ちた。いつの間にか表情を和らげた空閑君が私を見据える。
「今度は、おれの番。昔話の相手してくれるだろ?」
空閑君は紅い瞳でじっと私を見つめている。揺らぎはなく、当然聞いてくれるとわかっている様子が見てとれた。もちろん聞かないという選択肢はなく、私は静かに頷く。
空閑君はすうと目を細めて、それからゆっくりと話を始めた。
「おれは、ちっちゃいころから親父に連れられて旅をしてたんだ」
冒頭は、つい先日レプリカから聞いたことと同じだった。いまさらながら、空閑君とレプリカは旅をしていたから、お母さんの国を知っていたのだろう。そんなことを考えながら、私はじっと空閑君の話へと耳を傾ける。
「それで、4年くらいまえに寄った国で戦争をはじめたんだ」
「……え……!?」
突然の展開に思わず声をあげてしまったが、よくよく聞けば話が違う。その立ち寄った国にはお父さんの友人がいて、よその国からの侵攻を受けていたのだと。だから、空閑君たちは防衛のための戦争に手を貸したらしい。
「おれはまだ半人前だったけど、それなりにやってたよ」
「……すごいね」
初めて会ったときの体さばきを思えば戦闘に慣れていることは疑う余地もなく、訓練の様子を見ても頭一つ飛びぬけた実力はうかがえた。とはいえ、それが戦争に参加したからだ、とまでは考えていなかった。私は呆然と相槌を打つ。
静かな声で淡々と話す様子からは、空閑君の心情を汲みきれはしない。続く話では、お父さんの言いつけを破って奇襲しようとした空閑君が迎撃されてしまい――
「……親父は、死にかけたおれを助けようと、ブラックトリガーを作った」
空閑君は優しい手つきで自身の左手、人差し指に嵌った黒い指輪にそっと触れる。きっとそれが、お父さんが遺したブラックトリガーなのだろう――と気づいた瞬間、胸がぎゅうと苦しくなる。
「見たんだろ?」
「……え?」
見上げれば、空閑君の穏やかな眼差しが私へと向いている。
「和音ちゃんの話を聞いたとき、同じとこ、見たんだなって思った」
「……そう、だね……」
脳裏に蘇るのは、目の前で砂となって崩れたお母さん。思い出すだけで血の気が引くような光景を空閑君も見たのかと思うと、なんとも言えない気持ちで胸の奥が淀む。
空閑君は変わらず淡々と話し続ける。命をどうにか繋ぎとめたものの、代わりに生身の身体はブラックトリガーに封印し、今もトリオン体で生活しているのだと。
「だからおれは寝なくて大丈夫だし、背が伸びないのもしかたない」
「……ごめん」
「いいよべつに。気にしてない」
にしし、と空閑君は笑ってみせる。まさか夜更かしの裏にそんな理由が隠されていた、なんて考えつくわけもない。早朝に平然と起きていた様子だったのも、そもそも眠っていないからだなんて。謝ってはみるものの、からりと笑う空閑君は本当に気にも留めていないらしい。
空閑君は話し続ける。お父さんに遺されたブラックトリガーを使って、レプリカと共に戦争が終わるまで戦い続けたと。そうして役目を終えた空閑君は今度、お父さんに言われていたとおり日本へ渡って来た。
「それで、オサムに頼まれたのもあるし、部隊戦とやらもおもしろそうだからボーダーに入ることにしたんだ」
「そ、か……」
あまりに凄惨な半生に、ぼんやりとした相槌を打つので精一杯だ。なにより、“死にかけた”という言葉が引っかかる。生身をブラックトリガーに封印しているというのは話を聞く限り、治るまで……という話でもなさそうで……。
空閑君もまた思うところがあるのだろうか。少しの間を置いて、それから「和音ちゃんは」と話を続ける。
「初めて会ったとき、おれが近界民だってわかってても殺さなかったな」
「……そんなの、当たり前だよ……」
「どうかな。おれが悪い奴だったら、殺されてたかもしれないのに」
剣呑な言葉選びのわりに、空閑君は穏やかに微笑んでいる。かつて敵に殺されかけた空閑君だからこそ思うところがあるのだろうか。けれど、続く空閑君の声はやわらかく響く。
「なんで、戦うのをやめたんだ?」
不思議だと思う。空閑君のこれまでを考えれば叱責されているようなもののはずなのに、対面している私はそう思えない。呆れているような雰囲気はあるが……仕方ない、とでもいうような響き。だからだろうか、あまり気負うこともなく返答が口から滑り出る。
「空閑君は、私を殺そうとはしなかったでしょ」
「……敵をそう信じられるもんか?」
「えぇ? なんというか、勘みたいなものだけど……戦わずにすむなら、そのほうがいいし……」
さすがに予想外の答えだったようで、空閑君はきょとんと目を丸くする。勘、なんて根拠にならないだろうか。たしかに人を動かすための論拠にはならないが、少なくとも自分の行動を選択する指針にはなる。つまり――
「私が無事だったのは、敵か味方かわからない私の取引を、空閑君が信じてくれたからだよ」
――間をおいて、空閑君はぷすりと吹き出した。
「……なるほど。それはまいりましたな」
私に向けてというより、呟くように落とされた言葉だった。どうして、と聞く前に空閑君はゆるく首を振る。本当に降参しているかのような身振りに首を傾げていると、空閑君は「じつは」と話を切り出した。
「おれには、ウソを見抜くサイドエフェクトがあるんだ」
「……えっ!?」
「和音ちゃんがウソを言ってないってわかったから話を聞いたんだよ」
まさか、空閑君がサイドエフェクトを持っていたなんて。だから、初めて会った私と敵対することなく引いてくれたんだと、今さらになって合点がいく。
ならば、空閑君が日中に「つまんないウソつくね」と言い切ったのも、私がついたウソを確実に見抜くことができたから。つまり、あの夜も――
「……奴らの目的は回収じゃない、って言ったのは……」
「ん? ……あぁ、そうだよ。ウソをついたのが、おれにはわかるから」
だから迅さんは、私に着いてこようとした空閑君を止めなかったのだ。辻褄が合ってしまえば、やられた、と思うばかり。迅さんのいいように動かされた部分が少なからずあったのかもしれない。
いっぽうで空閑君も困った様に笑っている。
「あのときはびっくりしたな。あいつを揺さぶるつもりだったのに、和音ちゃんがひっかかるから」
「……う……ごめん、私もびっくりしちゃって……」
さすがに情けなくて視線を泳がしている間に、空閑君がぽつりと呟く。
「死ななくてよかったよ」
――あれ? と引っ掛かりを感じて視線を戻す。空閑君は穏やかに微笑んでいるが、その目はどこか遠くを見ている気がした。
私はあの時、自分が死ぬかもしれないとは思っていなかった。ただ、このまま意識を落としてしまえば、なにが起こるかわからないと怖かっただけ。結果として、近くにいた空閑君は巻き込まれることもなかったから――
「……空閑君だって、無事でよかったよ」
自分で口にした言葉なのに、違和感が拭えない。無事、といえばそう。けれど空閑君はそもそも死にかけている身体のまま、ここにいるわけで――それは、無事だと言えるの?
これ以上考えてはいけない。なにより、聞いてもいけない。本能が告げるまま、私は話題を変えるべく席を立つ。見下ろせば、おあつらえ向けと言わんばかりに空になったマグカップがふたつ。
「ココアのおかわり、淹れてくるね。空閑君もいる?」
「うむ、よろしくお願いします」
了承を得られたので、遠慮なくマグカップを持ってキッチンへと逃げ帰った。ココアを淹れなおしながら――静かに息をつく。深呼吸すれば甘い香りに包まれて、だんだんと落ち着きを取り戻していくようだ。
ココアを淹れ終えて部屋へと戻り、ローテーブルにマグカップをふたつ置いた。空閑君は小さく「ありがとう」と口にするが、なんだか覇気がなくて、私はおそるおそる声をかける。
「……疲れちゃった? 昔の話をするって大変だよね」
「まぁ、そうかも」
ゆるい相槌のあと、空閑君はココアへと手を伸ばした。そうっと口をよせて啜るように飲んだあとで、ふう、と息をついている。
昔の話……というより、自分が抱えていたものを誰かに話すのは気疲れするものだろう。自分にも身に覚えがあるもので、空閑君の重く抱えていたものだって同じはず。それを、どうして……と考えて、私はゆるりと頭を垂れる。
「ごめんね。もしかして、私が昔話したから気遣わせちゃったかな」
私の昔話もまた空閑君にとっては重いものだったのかもしれない。少なくとも、聞いてしまったと思わせるくらいには。それで話してくれたのだとしたら、私が話させてしまったようなものじゃないか。
だからと謝ってはみたものの、空閑君はゆるりと首を振って「ちがうよ」と答える。
「……おれが、そうしないとダメだって思っただけ」
――どうして? とさらに聞きそうになって口が開いたけど、私はすぐに唇を引き結ぶ。マグカップの水面をとおして、どこか遠くを見ている空閑君に理由を問うてはいけない気がした。
私と空閑君の間には今、明確な壁があるように思えた。きっと手を伸ばしても、届かないのだろうと思えてしまうような。だから私が言えることは、たったひとつしか残されていない。
「……話してくれて、ありがとう」
ふっと顔を上げた空閑君とぱちり、目があった。それから二人、ゆったりと微笑みをかわす。
最初に空閑君に言われたとおり、私は『聞かない』……いや、『聞けない』のだ。聞き出すことはまるで、古傷を抉るようで怖いから。いや、もしかしたら空閑君にとっては痛むものではないのかもしれない。むしろ、聞いてしまう私のほうが苦しくなる予感がする。
結局、ずいぶんと夜が更けてしまったけれど、ココアを飲み終わった空閑君は「帰るよ」と切り出した。玄関で「またね」とお別れをして、夜の三門市に溶けていく背中を見守る。
「……おやすみなさい」
些細な挨拶ひとつすら言いそびれたのはどうしてか。私はぼんやりとした気持ちのまま部屋へと戻る。
眠れない空閑君は、長い夜をどう過ごすのだろう。