改めて、もう一歩
 夕方、病室へとやってきたお医者さんが言うには、数日飲まず食わずだったからと念のため入院させられただけとのこと。もう一晩様子を見て、明日の朝ごはんに通常食が食べられたら退院してよいとの話になった。

「残りの手続きも保護者の方に対応してもらうから」
「え? ……あ、はい」

 一瞬、誰のことかと呆けてしまった。少しして、こういう時のための後見人かと頷けば、お医者さんは声を潜めてぼそぼそと話を続ける。

「……城戸さん、って言ったっけ。忙しいときに申し訳なかったけど、必要書類とかいろいろ対応してくださったらしいんだ。よろしく伝えて」

 そうだったのか、とおずおず頷けば「じゃあお大事にね」と言ってお医者さんは去っていく。ボーダーの最高司令官ともあろう人が、大規模侵攻の後処理もある中で、私の入院手続きにまで対応してくれていたとは。
 ふと端末の通知が目についた。なんだろうと見れば、迅さんからのメッセージ。なるほど、『明日の退院、何時くらい?』というからには問題なく退院できそうだ、と安堵の息を吐く。説明の中で聞いた時間を伝えれば、すぐに返信があった。

『本部に寄ったら、そのまま玉狛だから』

 知らぬ間に立てられている予定に『了解です』と返す。ただでさえ三雲君が入院していて落ち着かないだろうに、玉狛にお邪魔して大丈夫なんだろうか。それでも、じわりと下心が滲む自覚もあって。
 ――空閑君はどうだったんだろう。大丈夫だったのかな。話を聞かないから、大事にはなっていないとは思うけど。……でも、レプリカがいつの間にかいなくなっていたようで、呼びかけても答えてくれない。だとしたら空閑君につきっきりなのかもしれないし、やっぱり、なにかあったんじゃないかと心配で……。

「……明日、会えるかな」

 顔が見たい、と思ってしまう。そわつく心をなだめるように、私は病院のベッドで最後の夜を過ごした。

§

「お、和音。大丈夫か?」
「見てのとおりです」

 朝ごはんも食べられたし、様子を見に来てくれた看護師さんからも「元気そうね〜」の太鼓判つき。お医者さんに確認も取れたとのことで、粛々と退院のために手荷物をまとめ終えたところだ。

「あれ、荷物それだけ?」
「ほとんど開発室に置きっぱなしで、身ひとつで入院になったので……」
「あぁ、なるほどね。じゃあ行くか」

 言いながら、迅さんは当たり前のように私の荷物を持ってくれた。それくらい自分で持てると、私が口を挟むより先に迅さんが「それでさ」と話を続ける。

「城戸さんから手続き書類もらってこいって頼まれてるんだけど」
「あ、帰る前にナースステーションに寄って、って言われました」
「はいはい」

 うまくはぐらかされてしまった。迅さんは、ほかに荷物がないのを確認し終えてから「で、ナースステーションってどっち?」なんて言ってのける。私も忘れ物がないか見回しつつ「行きましょうか」と病室を後にする。
 本部に寄るとは鬼怒田さんのところだと思っていたけど、この様子だと書類を届けに城戸司令のところにも行くことになりそう。そうなると、付き添い人として迅さん以上の適任者はいないだろう。迅さんは、私のブラックトリガーの事情と合わせて後見人が城戸司令であることも知っている数少ない人物だから。
 書類を預かった足でそのまま本部にやってきて、迅さんの後をついて城戸司令の部屋へ。迅さんがノックをすれば、すぐに「入れ」と声が返ってくるあたり、今も事後処理に追われているのだろうか。

「城戸さん。病院から書類、預かってきたよ」
「ご苦労だった」

 二人のやり取りを眺めながら部屋へと足を踏み入れる。城戸司令は、私を一瞥すると「変わりないか」と声をかけてくれた。私は大人しく「ご心配をおかけしました」と頭を下げる。
 迅さんが城戸司令に書類を渡すと、城戸司令はしばし紙面を眺めてから「助かった」と返している。デスク脇に置いたと思えば今度、別の書類を一枚手に取り、城戸司令は自然に席を立った。何事かと待ち構えているうちに目の前へやってきた城戸司令が立ち止まり、私を見下ろす。

「今回の侵攻において、おまえの貢献も評価に値するとして二級戦功を授与する」

 城戸司令は手元の書類を私へと差し出した。簡易的な表彰ということだろうか、私はおそるおそる「ありがとうございます」と両手で書類を受け取る。見れば、確かに戦功のことが書かれていて、聞いていたのは本当だったらしい。
 とはいえ褒章をもらえたのは、あくまで囮として成果を上げたからのはず。城戸司令の指示で東部に向かったあと――トラブルを起こしたことについて、お咎めなしということもないだろう。
 勇気を出して、書類から目を離して城戸司令を見上げた。真っ直ぐにこちらを見る目に怯みながらも待てば、少しして、再び頭上から城戸司令の声が降ってくる。

「……おまえのブラックトリガー所持を秘匿事項としている件について、限定的に解除しようと思う」

 城戸司令は眉ひとつ動かさず平淡な表情のままだ。声色も静かで、叱られているという雰囲気でもない。だから、気になったのは“限定的に”という言葉。

「……周知する、ということではないんですか?」

 つまりはブラックトリガーを持つ隊員――S級――になるというわけではない、という風に聞こえる。私の疑問を受けて、城戸司令はわずかに目を細めながらも話を続ける。

「太刀川が保護していたC級隊員に、おまえが倒れているのを見られている」
「……はい」
「さらわれたC級隊員がいるうえに、トリガーにも欠陥があるのではないかと彼らに不信感を抱かれるのは望ましくない」

 こればかりは私の失態なので項垂れるしかない。けれど、城戸司令は責めるわけではなく、淡々と話し続ける。
 結論からいうと、私はS級に昇級を控えている、という話にするらしい。C級に対しては、S級昇級に向けてトリガーの調整中だったが、今回の事故のこともあって昇級を見合わせることになった、と。

「B級以上の隊員に関しては……あまり流布することは好ましくないが、すでに知っている隊員もいる。これ以上隠匿する必要はない、と判断した」

 城戸司令の視線が一瞬、迅さんを見たような。ともかく、隠さなくてすむのなら、いくらか気持ちも楽になる。素直に「わかりました」と答えれば、意外だったのか、城戸司令はまじまじと私を見下ろしている。

「この件について、お前から特に要望はないということか」

 まるで私の意見も汲もうとしているかのような城戸司令に、緊張の糸がふっと緩む。後見人の件でも、ボーダーに入隊する件でも、城戸司令は真摯な姿勢で取引に臨んでくれていたように思う。だから、今もたぶん対等な取引をするつもりで私に話してくれているのだろう。
 少なくともブラックトリガーの存在を明かすことについて異論はない。ブラックトリガーの管理については鬼怒田さんも尽力してくれている。ならば――

「……ブラックトリガーの使用については、どうなりますか」
「なにか希望が?」

 城戸司令は、慎重に様子をうかがうような眼差しを私に向けている。ただ、以前に見たときのような恐怖はなく、すんなりと希望を口にできた。

「……その……私はトリガーのことをよくわかっていないし、使用経験も足りていない、と思いまして……」

 城戸司令の顔を見ることはできず俯いてしまう。私はブラックトリガーのことを知ろうとなんて考えてもいなかった。怖くて、触れないように隠してきたようなものだ。もちろん、城戸司令から機密として扱うよう求められたことは一因としてあるが、私自身がそう望んだからに違いない。
 だから、自分の望みが変わったことに戸惑う気持ちはある。それでも私は、どうにか勇気を振り絞って城戸司令の顔を見上げた。

「……ブラックトリガーの訓練をする機会を増やしてみることは難しいですか……? そうしたら少しは……その、万が一のときに、どう対処すればいいのか……気づけることがあればいいな、と……」

 城戸司令はどこか感心したように「……ほう」と相槌を打つ。うっすら目を見張っている様子からも、やはり想定外の希望ではあるのだろう。そもそも、ブラックトリガーを使わない、と言ってボーダーに入ったのは私なのだから当然の反応か。
 一瞬の間をおいて「いいんじゃない?」と答えたのは迅さんだった。

「防衛任務だとか、トリオン兵相手に訓練として使用するのはアリでしょ」
「……だが、ほかの隊員をトラブルに巻き込むのは避ける必要がある。今までのような混成部隊での防衛任務時には使用を許可できない。もちろん、ランク戦ブースなど隊員相手に使用することなど、もってのほかだ」
「構いません」
「お前はS級ではないし、こちらからS級としての仕事を頼むつもりもない」
「はい」

 城戸司令は確かめるようにじっと私を見つめるが、異論がないと伝わったのだろうか、ふぅと息をついた。納得してもらえたらしい。
 戦いたいとは思えないけれど、戦えないのも嫌だと思う。ワガママな気持ちだけど、せめて足手まといにはならないように。私に必要なのはブラックトリガーを知り……怖いものじゃないんだって、確かめること。

「……ブラックトリガーを、誰かを守れる力として使えるようになりたいです」

 昔の私にとって、このブラックトリガーは恐ろしいものでしかなかった。私からお母さんを奪い、私を追われる身にし、私を拾ってくれたボーダーからも厭われるものだから。
 お母さんがいなくなったことは変わらないし、目的がなんであれ、やつらに追われたままなのも事実。ボーダーにとっても有益とは言い難いこのトリガーを――それでも、今の私なら受け入れられる気がする。

「……いいだろう。では、その方向性で調整しておく」
「はい、よろしくお願いします」

 深く頭を下げれば、城戸司令は踝を返して席へと戻っていった。城戸司令から最後「病院のほうの手続きはしておく」との業務連絡。後見人としての話に「ありがとうございます」と返せば「下がっていい」との指示に従い、私達は司令室を後にするのだった。


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