ボーダーを出てしばらく、外の空気で頭も冷えてきた頃――やってしまったな、と気づく。
どうやら私は、空閑君に手を取られることに驚かなくなっていたようだ。違和感なく、むしろランク戦の疲れで気が滅入っていたもので、縋るように手を握り返してしまっていた。温かい手のひらが優しくて、嬉しかったから。
しばらく互いの靴が地面を擦る音ばかり聞いていた脳みそが、ゆるゆると仕事をはじめる。
「……空閑君、もうB級に昇級したの?」
私の声を聞いた空閑君がこちらを横目でうかがう。それから、にっこりと笑顔を見せてくれた。
「うん。逃げられるまえに稼げてよかった」
「……おつかれさま」
「おう」
空閑君のことだから、きっとC級相手では肩慣らしにもならなかったことだろう。とはいえ、手持ちのポイントが高くなるほど、相手からポイントを取りづらくなる。数を重ねるしかないのは大変そうだが、空閑君なら苦もなく戦えるのだろうか。
ようやく動悸が治まってきたのを感じ、ため息をひとつ。
「……みんな、すごいね」
「うん?」
「空閑君も、みんなも、ちゃんと戦えるのがすごいなって」
B級にもなって、なにを言っているのかと自分でも思う。けれど私からしたら、五本戦うだけでもしんどい。いや、正確に言えば戦うことがしんどいというより――
「和音ちゃんも、ちゃんと戦ってたじゃん」
「……そうかな」
そうだといいな、なんて他人事みたいだろうか。戦わずにすむなら、そのほうがいい。けれどお母さんのブラックトリガーを受け継いでしまった以上、戦わなければならないときはある。
繰り返せば慣れていくのだろうか。かつて、あれほど怖かった迅さんとの模擬戦だって、今ではある程度平常心を保てている。だからきっとランク戦――つまるところ、人間との戦い――だって、当たり前のものにできるはず。
「……もっと、頑張らないと」
小さく呟いた言葉は、お母さんに聞こえたのだろうか。どくん、と心臓が唸った気がした。
§
玉狛支部に入るやいなや、鼻をくすぐる夕飯の香り。今日はなんだろう。
靴を履きかえるときに自然と離れた手はそのまま、空閑君と二人で淡々と階段を上がって食堂へと顔を出す。当たり前のように「おかえり」と声をかけてくれたのは迅さんだった。
「今日の夕飯は肉じゃがだぞー。ほら、手洗って支度しろ」
「……あれ、私達だけですか?」
今すぐにでも用意をして食べはじめそうな雰囲気に、思わず迅さんへ訊ねてしまう。ここにいるのは三人だけ。今日はやけに少ないな、なんて違和感が拭えない。
迅さんは「そうだよ」としれっと肯定したかと思えば、支度を急げと催促してくる。渋々と迅さんの言うことに従って、三人で食卓へついた。口々に「いただきます」と挨拶をし、普段より静かな夕飯の時間がはじまる。
「遊真、B級上がったか?」
「うん、間に合ったよ」
「ボスがもう少しで帰ってくるから、待ってろよ」
「ほい」
はふはふ、とじゃがいもを口に運びながらも頷く空閑君。やはり、明日からランク戦なのかと他人事のように聞き流していると、迅さんが「和音も」と呼ぶ。
「帰りはレイジさんに頼んであるから」
「……へ? あ、はい……」
またしても違和感。なんでだろうか。
別にレイジさんに送ってもらうことが珍しいというわけではない。むしろ、玉狛にきた時は必ずといっていいほどレイジさんに帰りを送ってもらっていたくらいだ。ここ最近は玉狛に新人が増えたからと遠慮したり、空閑君がいたりで機会がなかっただけで。
妙な引っかかりについて思考を巡らせている間にも、他愛のない会話がぽつりぽつりと交わされて、淡々と食べ進めれば食器が空になるのもあっという間。片付けに取り掛かろうとしたころ、階下から声が響いてくる。
「おーい、遊真、いるかー?」
「あ、ボスだ」
「行ってこい。片付けはやっとくから」
「お願いします」
二人は林藤支部長の声に反応したあとで、空閑君はさっさと食堂を後にし、迅さんは空閑君の空になった食器を片付けはじめる。
置いてけぼりの私も、空の食器を持っていそいそと迅さんの元へ。おずおず「お願いします」と差し出せば、食器を洗い出していた迅さんは「ん」と軽く頷く。そうして当然のように「お茶、おれのも」と一言。流れるように私は食器棚の中にある急須を取り出し、茶葉缶に手をかける。
「いやー、なんか久々だなぁ」
「……そうですね」
今までだって、レイジさんが帰りに送ってくれるまでの暇つぶしによく付き合ってくれたのは迅さんだった。そんな当たり前のことが、ここ一ヶ月でなんだか久しぶりのことのようだ。急須に茶葉を入れて、お湯を注いで蒸らす間にも迅さんの話は止むことなく。
「最近は遊真が面倒見てくれてたからなー」
「……人をまるで子どもみたいに……」
“面倒を見てくれる”だなんて不服だが、迅さんはへらりと笑うだけ。お茶を淹れおわる前に、と食卓の拭き掃除にとりかかる頃には、迅さんも食器の片付けを終えて食卓へと戻っていく。私もいそいそと小さめのマグカップに緑茶を淹れ、迅さんの分も持って流しを後にした。
「次の防衛任務、来週の月曜深夜の予定なんだけど」
「わかりました」
「……大丈夫か? なんなら小南とかに頼んでもいいんだけど」
先に食卓についていた迅さんは、わずかに眉をひそめて私をうかがっているようだ。けれど私の返答も想像がついてるのだろう、口角はゆるく上がっているのが視界の隅に見える。
私は用意したお茶を迅さんの前に置くからと、視線は合わせないまま返事をした。
「……まだ、怖いので。迅さんの都合がつくうちは、お願いしたいです」
迅さんの手がぽん、と私の頭に下りてくる。撫でるようなそれはまさに子ども扱いだろうと不服ではあるが、慰めるかのような優しい手つきを振り払う気にもなれない。自然と離れた隙に、私は自分の分のお茶を手に席へと腰をおろした。
迅さんの表情を見るのが怖くて、私は手元のお茶に視線を落としたまま、ふぅと冷ますように息をつく。向かいの迅さんも、ゆったりとお茶をすすっている。
「おれは全然いーんだけどね。時間がちょっと、高校生にはキツいかなってだけで」
「まぁ、公欠使いますから……担任も、ボーダー絡みだとなにも言いませんし」
「おまえ成績も悪くなさそうだしなー」
……まぁ、おそらく担任は私を心配する暇もなく、米屋君の成績に頭を抱えているだろうしな……とは内心に秘めておく。
ふと気づけば空閑君が戻ってきたようで、迅さんが「もう終わったのか?」と声をかけている。ランク戦がはじまるから、関連したなにかだろうと聞き流そうと……思っていたのだが。
「ちょうどいい、和音の暇つぶしに付き合ってよ」
「えっ……!?」
名指しされ、何事かと顔を上げれば迅さんの視線がささる。断るはずもないと確信があるのか「和音、遊真の分もなんか用意してやって」とまで言われてしまった。当の迅さんはお茶の入ったマグカップを持って、空閑君に「おまえはこっち」と声をかけ、どこかへ連れ出してしまう。
「……空閑君、なにがいいんだろう……」
さっき淹れたばかりだし、緑茶でもいいだろうか。まぁ、苦手だったら淹れなおせばいいかと、私は台所へ戻る。空閑君のことだから、やっぱり屋上で過ごすのだろうか。それなら空閑君にもマグカップで淹れてもいいかな、なんて考えつつ。
少しして戻ってきた空閑君の手には、小さなブランケットが抱えられていた。
「……どうしたの、それ」
「屋上は寒いだろうって、迅さんが」
間。それから――ふすり、吹き出してしまった。やっぱり屋上に行くんだなぁとか、迅さんにそう思われるくらい、いつも屋上で過ごしてるんだなぁとか。なにより、私もちょっと空閑君のことがわかっているみたいで嬉しいなぁ、とか、図々しい感情まで湧いてしまって。
「……空閑君のお茶、淹れてあるよ。行こっか」
「おう」
温かいお茶を両手に持って、二人で階段を登っていく。手が塞がっている私の代わりに、空閑君は屋上への扉を開けてくれた。私が扉を通ったのを見届けてからは迷うことなく歩を進め、縁へと手をかけたと思えばひょいと軽い身のこなしで腰を落ち着けている。
私はその後ろまで歩み寄ると、マグカップを空閑君へと差し出した。
「緑茶、苦手だったら淹れなおすからね」
「大丈夫。ありがとう」
片手で受け取った空閑君はふぅ、と冷ますように息を吹きかけつつ、そっとひとくち。気取ったように「うむ、これはこれで」なんて言うものだから、私の頬は緩んだままだ。自分も、とひと口お茶を啜って、それから邪魔にならないよう縁の隅へと置く。
視線を戻せば、目に映るのはポツポツと明かりの灯るボーダー本部と、それを取り巻く夜空ばかり。なんとなく見慣れてきたと感じるほど、私はここで空閑君と過ごしているのだろう。
「和音ちゃんは?」
「――え?」
視線をやれば、きょとんと不思議そうな空閑君が私の様子をうかがっている。なんのことか、首を傾げてしまうと空閑君も不思議そうな顔。けれど空閑君だけは合点がいったようで、ふいに持っていたマグカップを脇に置く。そうして空いた手が、振り向き様に――私へと――差し伸べられた。
「どーぞ」
そう言って微笑む空閑君の、こちらを見る眼差しに惹きつけられ呆けたまま――差し出された手に自分の手を重ねた。なんの躊躇いもなく、それが当然のことのように。
少しして、はっと我に返る。結局、どういう意味なのかわからない。手を取ってしまったのにいまさらだけど、どうしたものか。焦ってしまうが、空閑君は穏やかに微笑んだままだ。
「怖いか?」
「えっ、と……?」
「立ってるの、疲れるだろ」
そこまで言われて、ようやく私も合点がいった。空閑君はたぶん、座らないのか、と訊きたかったんだ。空閑君がしているように私も、ここに腰掛けたほうが楽だろうと。
怖いか、と聞かれれば……正直、怖いと思う。少しでもバランスを崩して、落ちてしまったらと考えてしまうような恐怖が拭えない。――だけど。
「……ちょっと、待ってね」
覚悟を決めるように、きゅうと握れば空閑君の手のひらを感じる。手を伸ばしてくれた空閑君はきっと、私を支えてくれるつもりで手を差し伸べてくれたのだろう。だから私は、勇気を出して片足をそっと屋上の縁へとかける。踏み越えて落ちてしまわないよう、ゆっくりと、空閑君の隣に座るために。
だって、私、まだこの手を離したくない。空閑君の隣にいさせてほしいから。