おちて、落ちて、堕ちる

 屋上の縁に腰掛けてみると、下から聞こえる川の水音がやけに大きく感じる。屋上に出るときに履き替えたスリッパは、危ないからと脱いでしまった。だからだろうか、夜風が足の裏をくすぐる感覚が靴下越しでもむずがゆく、落ち着かない心地で息をつく。

「……やっぱり、ちょっと、怖いね」
「和音ちゃん、怖がりだもんな」

 間髪をいれずそう言われてしまうと、こちらとしても言い返せない。怖がりじゃないと言うには、今の私じゃあまりに説得力がないだろうし。
 隣の空閑君はいつもどおり飄々としている。よく屋上に出ているからだろうか、用意していたらしい靴をしっかりと履いているあたりずるい気がするが……。靴を履いていたらそれもそれで、川に落としてしまいそうだと冷や冷やするだろうし……。

「そうだ、これ」

 空閑君がずっと小脇に抱えていたブランケットを差し出してくれる。迅さんが貸してくれたらしいそれをありがたく受け取ると、繋いでいた手が自然と離れた。名残惜しい気持ちはあれど、寒さには勝てず、私はいそいそと両手でブランケットを広げ、夜風から守るように腰から下へとかける。
 それから、片端をつまんで空閑君へと差し出して。

「そっち、空閑君も――」

 どうぞ、といいかけて固まってしまった。ブランケットに一緒に入るのって、どうなんだろうか。
 ありがたいことに、空閑君が「おれはいいよ」と辞退したので、妙な雰囲気にならずにすんだ。私はおずおずと自分の足元をブランケットで軽くくるんで、ほっと息をつく。
 ――もう一度、手を繋いでほしいなんておかしいだろうか。
 疚しさに視線を下ろすと、感じる高さに平衡感覚がおかしくなったのか頭がくらりとして背筋が冷えた。反射で空閑君の腕を掴んでしまうと、空閑君はやっぱりけらけらと笑う。

「危なっかしいな」
「……ごめん」

 怖いやら、恥ずかしいやらで視線を泳がせていると、私が掴んだ腕の下、手のひらを見せながら空閑君は「どーぞ」と言ってくれる。私がおずおずと自分の手を重ねれば、空閑君はまた、当たり前のように手を握ってくれた。平然としているのは慣れているからなんだろう。
 ――なにに? と、脳裏を過ぎる不安。

「……みんな、こうやって座るの?」
「いや? おれは見たことないな」
「……危ないもんね……」

 だとしたら、こんなふうに空閑君の隣に座るのは、手を繋いでもらえたのは――

「ひとりのときは、やめたほうがいいぞ」
「ひとりじゃ怖くて座れないよ……」

 こんな怖い座り方、空閑君がいなかったら試みることすらないだろう。繋いだ手の先に空閑君がいるから、勇気を出せたようなものなのに。
 ……そんな人が、私だけならいい。なんてずるい考えが浮かび、欲張りな気持ちを持てあまして、ため息をつく。聞こえなかったのだろうか、空閑君はからからと笑った。

「――ま、夜なら暇してるから、大丈夫だよ」

 空閑君は、これということもなく自然にそんなことを言ってのける。

「……ありがとう」

 考えるより先に口をついて出たのは、そんな自意識過剰な言葉。
 だめだ、勘違いしちゃだめ、誤解しちゃだめ。だけど今の私には下心があって、まるで言葉の裏に“おれがいるから”大丈夫だと隠されているように聞こえてしまう。そうだといいと、思ってしまう。こんな“好き”は、きっとダメなのに。
 我に返った私はあたふたと「で、でも」と慌てて言葉を続ける。

「戦術の復習とか……も、あるだろうし、えっと……」
「そんなの暇つぶしだし、気にしなくていいよ」
「……だって、明日からはランク戦……なんだよね?」

 おずおずと訊けば、空閑君は「うん、夜からって聞いた」と軽く頷いてみせる。やはり林藤支部長に呼ばれていたのは、部隊加入関係の手続きなんだろう。ふと、部隊のことについてなにも聞いてないな、と気づく。

「……そういえば、隊長って誰なの?」
「オサムだよ」
「そうなんだ……それで千佳ちゃんと、空閑君と……オペは?」
「しおりちゃん」

 まさかの名前に面食らうが、消去法で考えれば当然なのかも。新たにオペを本部から勧誘してきた、なんて話も聞かなかったし、オペをやるとしたら栞しかいないだろう。師匠たちも三雲隊を応援するとなると、しばらく玉狛は大忙しだろうし、あまりお邪魔しないほうが良さそうだ。
 それからも空閑君とぽつぽつ他愛もない話をしているうち、段々と手足が冷たくなってきてしまった。持ってきたお茶はすっかりと冷めきっているし、寒さを凌ぐにもブランケットではもう限界かもしれない。

「……お茶、おかわり淹れてきてもいい?」
「おう」

 身体の芯まで冷え切ってしまったので、せめて温かいお茶でもう一度温まりたい。そんな思いから提案すれば、空閑君は素直に頷いてくれる。
 マグカップを少し離したところに置きなおして、私は片足ずつおそるおそる屋上へと戻っていく。もちろん、片手は空閑君と繋いだまま。でなければ、寒さで強張った身体がバランスを崩して落ちてしまいそうだから。
 そうして最後、ブランケットを回収しようとしたら――かじかんだ指先を掠めた。

「――あっ!」

 反射で声を上げてしまうが手遅れだ。ふわりと風に吹かれて舞ったブランケットは、そのまま川上のほうへ落ちていく。

「ど、どうしよう」

 暗闇で目視しづらいが、着水したブランケットはそのまま流されている様子。川上のほうに落ちたのは不幸中の幸いだろうか、急げば間に合うかもしれない。
 だからと、屋上のドアへ向かおうとした足が、空閑君の声で止まった。

「大丈夫だよ」

 繋いでいた手がするりと抜け出していく。空閑君が――目の前で、落ちていく。

「――っ!!」

 ひゅ、と喉が引きつって声にならなかった。反射で伸ばした手は空を切り、全身の血がすうと冷えていく。間を置いて、ボヂャン、と鈍い水音が響いた。

「…………く、……が……くん……」

 名前を呼びたくて、呼べなくて、じわりと目の奥から涙が滲んでくるのを感じる。胸が詰まって、息ができない。寒くて凍えていたはずなのに、身体の奥がじんじんと熱を持つような錯覚に目がまわりそうだ。
 ふいに、暗闇の中でうごめくものが見えた。よくよく見れば空閑君だろう人影が川を泳ぎ、流れてきたブランケットをしっかりと捕まえる。こちらにひらりと手を振ったかと思えば、あがるのだろうか、今度はすいすいと川べりに向かって泳いでいるようで。

「……行かなきゃ」

 私は震えの止まらない手足を奮い立たせて屋上をあとにする。はやく、迎えにいかないと。そう足を急がせていると、食堂を出たところでバスタオルを持った迅さんに会った。

「……和音、大丈夫か?」
「私より、空閑君が、さっき……!」
「遊真なら大丈夫だって。ほら、迎えいくぞ」

 少しだけ早足ながらも、落ち着いた足取りで下へと向かう迅さんに追従する。急がなきゃと思う反面、震える足がもつれて転んでしまいそうで、私はどうにか手足を動かしながら迅さんの後を追うばかり。
 玄関を出れば川べりに、すでに川から上っていたらしい空閑君の姿がうっすらと見えた。水を吸って重くなった服をどうにかしようとしているのだろう、服の裾を繰り返し絞っているようだ。

「おーい遊真、大丈夫かー」
「うむ、大丈夫」

 迅さんの軽い声かけに、空閑君も平然と応えているあたり問題はないのだろう。あまりにあっけらかんとしていて、なんだか私だけが置いてけぼりだ。

「別に、そこまでしなくてよかったのに」
「うぅむ……借り物だし、ゴミにしたらまずいだろ」

 ――たった、それだけのことで――と、脳裏にまたさっきの光景が過って震えてしまう。なにか、言わなきゃ。そう思うのにどの言葉も場違いな気がして、喉に引っ付いて離れず、私ははくはくと息をするのがやっとだ。

「……和音ちゃん?」

 呼ぶ声はいつもどおりで、きっと、本当に平気なのだと思う。でも、理屈じゃなくて私は――。

「…………ごめんなさい」

 ただ、申し訳ないと頭を垂れるしかできなかった。どうしてあの時、指先が動かなかったのだろう。もっと上手に下りられたはずだし、もっとうまくやる方法だってあったはず。私のせいで、空閑君が冬の川に飛び込む羽目になったのだ。あんな、屋上から飛び降りるような――
 思い出すだけで背筋が冷たくなって、次第に溢れてきた涙がこぼれてしまいそうだと思った。けれど悪いのは私で、泣く資格もない。そう堪えていると、ぽん、と頭の上に大きな手のひらが降ってくる。

「遊真も大丈夫って言ってるだろー? 大丈夫だって、な?」

 迅さんはそう慰めてくれるけれど、とてもじゃないが頷けない。空閑君の返事はなく、けれど顔を見ることすら怖くてたまらない。
 ふいに足音が聞こえてきた。間をおかず、聞き慣れたレイジさんの声が「なんだ?」と問うのが聞こえる。どうやら防衛任務を終えて戻ってきたようだ。

「ほら、和音。レイジさんが来たから、おまえは帰る支度だ」
「……はい」
「遊真は風呂だなー」
「りょーかい」

 結局、迅さんに促されるままレイジさんに送られ、あっという間に帰宅させられてしまった。自室のベッドに横たわり、ぼうっと暗闇を眺めるばかり。時間がたって落ち着いてきたのか、ようやく頭が回りはじめた頃に浮かんだことがひとつ。

「……呆れられた、かな」

 前にも情けないところを見せてしまったが、謝ったら空閑君は「いいよ、別に」と言ってくれた。でも、今回はなんの返事もなかった……気がする。それが、痛い。なんでやらかしてしまったのだろうと、後悔しても遅い。

「…………だめだなぁ、私」

 暗い部屋に沈んでいく言葉と一緒に、私はゆっくりと眠りに落ちたのだった。


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