まぁだだよ、と逃げていく

 玉狛へ向かう足取りはどことなくフラフラしていて、やっぱり疲れているのだろうかと様子をうかがう。さっきから口数も少ないので、あまり話さないほうがいいかと、おれも口を閉じたままだ。
 ようやく食堂までやってきて聞いたことには、今日は迅さんが夕飯当番で、あとはおれと連れてきた和音ちゃんだけらしい。レイジさんが帰ってきたら和音ちゃんを送っていってくれるからと話を聞きつつ、ご飯を食べ終える頃に帰ってきたボスに呼ばれて、向かった部屋で見せられた紙が一枚。

「隊員追加の書類だ。明日朝イチで処理してもらえば、初戦に間に合う」
「りょーかい」
「どうやら夜の部に決まったらしいぞ」
「へぇ」

 書くものを渡されて、机の上におかれた紙をボスがひとつ指で示す。ここに名前を書け、ということだ。相槌を打ちながらも書類に向き合っていると、ボスはいつもより静かな声で「例の件だが」と話を続ける。

「おまえにも、協力してもらうことになるかもしれない」
「なに?」
「いや、まだ具体的には決まってないんだ。駆け引きの最中でな」
「ふぅん。まぁ、おれにできることなら、なんでもいいよ」

 玉狛には世話になっているし、協力を惜しむ理由もない。そう相槌を打ちつつも、慣れない日本語でどうにか名前を書く。少しはキレイに書けただろうかと眺めていれば、ボスも満足げに「よし」と頷いて書類をさっさとカバンにしまった。

「修は大丈夫そうか?」
「まぁまぁ元気そうだったよ」
「ならいい。明日からの本番、頑張れよ」

 そう激励したボスは「ほら、もういいぞ」と手をひらひらと振る。おれは言われたとおりに部屋を出て、それから――。

「……どうするか」

 いつもなら、部屋に戻ってもつまらないしと屋上に出るところだ。けど、今はまだ食堂に迅さんも和音ちゃんもいるのだろう。レイジさんが帰ってくるまで、和音ちゃんは待っているのだろうし。
 だとしたら、暇つぶしに付き合ってはくれないだろうかと食堂へ戻ることにする。扉を閉めそこねていたのか、近づくにつれて微かに話し声が聞こえてきた。なにとはなく足音を忍ばせて、様子をうかがう。

――ぽん、と迅さんが和音ちゃんの頭を撫でている。

 見た瞬間、背筋がぞわりとして妙な感覚が湧きあがるのを感じた。
 気のせいだと、飲み込んでいる間に迅さんはすっと手を離す。和音ちゃんも自然と距離をとり、向かいの椅子へと腰掛けた。それから二言、三言かわす様子はいつもと変わらない。
 今しかないと考えたおれは、いつもどおりに食堂へと入っていく。足音に気づいたのだろう、迅さんと和音ちゃんの視線がこちらへと向いた。

「遊真、もう終わったのか?」
「うん。明日には間に合うってさ」
「ちょうどいい、和音の暇つぶしに付き合ってよ」

 一方的に話を進められて驚いたのだろう、和音ちゃんは「えっ」と肩を跳ねさせている。迅さんは和音ちゃんとアイコンタクトをしたと思えば、「おまえはこっち」と言っておれを食堂から連れ出した。

「迅さん、どうしたの?」
「んー、ついでだから、おまえに渡しておこうと思って」

 進む先は迅さんの部屋だ。「入って」と言われたので素直に従うと、迅さんは部屋の隅から小さな毛布を引っ張りだしてくる。

「どうせおまえたち、屋上に行くんだろ。寒いだろうから持ってきな」
「ほう。ありがとう」
「それで悪いけど、しばらく上にいてくれ。和音はまだ知らないはずだから」

 知らない、という言葉に迅さんを見上げる。なるほど、和音ちゃんをおれに任せたのはそういう意図か。
 玉狛支部では今、大規模侵攻の時に置いていかれたアフトクラトルの近界民を捕虜として預かっているらしい。ボスにもさっき協力を頼まれたばかりだし、扱いについて決まっているわけではないようだ。そして機密扱いだから、和音ちゃんにも知らされていないと。

「どれくらい?」
「そんなに長くなくていいぞ。たぶん飯も食い終わってるだろうから、片付けたいだけだし」
「りょーかい」

 引き受ける“ついで”に毛布を受け取って、さっさと食堂に戻ろうと思ったのだが……不意に「遊真」と呼び止められた。まだなにかあるのかと顔を上げれば、薄暗い部屋で表情が読みきれないものの、口の端を上げた迅さんが見える。

「和音のこと、頼むな」

 どうして、という言葉を飲み込んだ。ひと言「うむ」とだけ頷いて部屋を出る。
 胸がざわざわするような感じがして落ち着かない。むずがゆい感覚に急かされるように、おれは食堂へと戻る。こちらを見る和音ちゃんに「……どうしたの、それ」と問われたので、もやもやを吐き出すように口を開く。

「……屋上は寒いだろうって、迅さんが」

 和音ちゃんはきょとんとして、それから――ふっと穏やかに笑った。
 嫌だ、と思った自分に驚いた。だって、和音ちゃんが笑っていることは悪いことじゃないのに。でも、たぶん目の前の笑顔はおれに対してじゃなくて、それが。
 ――これ以上はダメだ。とにかく話題を変えようと思ったら、和音ちゃんがゆるり首を傾げて笑っている。

「空閑君のお茶、淹れてあるよ。行こっか」
「……おう」

 ほっとして、おれはさっさと階段へ向かう。後ろに続く和音ちゃんの足音に安心したような、やってしまったと思うような、妙な気持ちに惑わされないよう淡々と登っていくだけ。屋上の扉を開け放ち、そのままいつもの場所へと向かう。
 縁へと腰かけて、おれは手に抱えたままの毛布を見下ろした。敷いてやるのがいいか、かけてやるのがいいか、それとも――と考えていると、和音ちゃんが後ろからすっとマグカップを差し出してくる。

「緑茶、苦手だったら淹れなおすからね」
「大丈夫。ありがとう」

 受け取って、少しだけ冷ましてからすするように飲む。独特の苦く、渋いそれを飲み下していると、まるで胸のモヤモヤまでも腹に落ちたようだ。ふた口目を飲んで、ようやく少し気が晴れてきた。
 気づけば、すくそば、ちょっと後ろに立った和音ちゃんがコトリとマグカップを縁に置いた。視線はぼうっと景色に向いていて、見惚れているのだろうかと横顔を眺める。

「和音ちゃんは?」
「――え?」

 どうせなら、座ればいいのに。と言うだけなら簡単だ。言えば、和音ちゃんはどうするのだろうか。そうだね、と言って同じように座るのだろうか。いや、和音ちゃんのことだから、危ないだとか言い出しそうな気もする。
 だから、おれも持っていたマグカップを脇においた。毛布を抱え直し、空いた片手を和音ちゃんへと差し出す。

「どーぞ」

 座るなら、手を貸すよ。と、言えばいいのに言わなかったのはどうしてか。
 和音ちゃんは少し驚いたようにしていたが、それでもすぐに手を繋いでくれた。迷いのないそれにほっとする反面、困ったものだと笑えてしまう。和音ちゃんはまだ動かないので、少しくらいはせっついてもいいだろうかと問いかけた。

「怖いか?」
「えっ、と……?」
「立ってるの、疲れるだろ」

 さすがにおれの考えがわかったようで、和音ちゃんは少しだけ目を伏せておれの隣を見る。やっぱり、怖がりの和音ちゃんには難しいだろうか。それとも、もっと違う理由で迷っているのか。決断を見守っていると、和音ちゃんがおれの手をきゅうと握った。

「……ちょっと、待ってね」

 和音ちゃんはおれの手を握ったまま、こちらに背中を向けるようにして縁へと腰掛けた。それから、片足ずつゆっくりと持ち上げては縁の向こうへと投げ出して体勢を整えていく。そうしておれと同じように縁に腰掛けおえたと思えば――大きく息をついた。

「……やっぱり、ちょっと、怖いね」
「和音ちゃん、怖がりだもんな」

 けらけらと笑ってみせれば、和音ちゃんは小さく「うぅ……」と唸っている。こういう時に、違う、だとか意地をはらないのが和音ちゃんのかわいいところだ。
 ――おっと、ついつい考えが滑ってしまった。おれは視線を和音ちゃんから離して夜景へと向ける。
 迅さんの片付けが終わるまで、和音ちゃんを下に帰すわけにはいかないのだ。だから、もう少しだけこのままでいい。だけど……と、おれは少しだけ力をこめて、和音ちゃんの手を握りかえした。


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