伸ばされた手、交代の時間
 暗くなった支部の中を上がっていけば、やはり食堂には誰かが残っているのか、光が廊下まで漏れていた。おそるおそる扉を開けば予想どおり、迅さんと和音ちゃんが揃っている。

「おー、遊真、おかえり」
「ただいま」

 二人はこの前と同じようにお茶を飲んでいたようで、やはり密会の邪魔をしてしまったようだ。さっさと通り過ぎようと思ったのだが、一歩踏み出すより先に「遊真」と声がかかる。

「屋上に暇つぶし行くなら、和音も貸すけど」

 じわり、腹の底に淀むものを吐き出しそうになって、どうにか堪えた。和音ちゃんが呆れたように「貸すってなんですか……」と文句を言っているので、深呼吸をひとつ。でなければ、皮肉のひとつでも口走ってしまいそうだった。
 なるほど、嫉妬していると自覚すると加減が難しくなるな。反省している間にも迅さんは「実力派エリートは四六時中忙しいんだって」だとか言っている。

「どうだ?」
「……和音ちゃんがいいなら」

 様子をうかがえば、和音ちゃんは「私は大丈夫だよ」と穏やかな笑顔で頷いてくれる。だからだろう、迅さんはあっさりと「じゃあ、おれは部屋に戻るか」と言って立ち上がり、さっさとおれの隣をすり抜けて食堂を出ていってしまう。
 違和感が引っかかって、気を落ち着けるためにも静かな呼吸を繰り返す。
 見送っていると、ふいに和音ちゃんが立ち上がった。それから流し台のところに行くのを見て――あぁ、おれの分のお茶を淹れてくれようとしているのだろうな、と気づく。

「おれはいいよ」

 止めれば、和音ちゃんは少しびっくりして「……そう?」と首を傾げるので「うん」と返す。屋上でゆっくりしたい気持ちはあるのだが、正直、今のおれでは自信がない。どうにもモヤモヤがうまく消化できないでいるので、八つ当たりしてしまいそうだし。

「……先に行ってるぞ」

 迅さんは、おれと和音ちゃんが二人で過ごしても平気なんだろうか。それどころか、むしろおれたちが一緒に過ごすように仕向けているような気さえする。
 屋上について、息をつくと同時に背後から「さむ……っ」と小さな声が聞こえて振りかえった。今日は和音ちゃんも飲み物をいれず上がってきたようで、急な寒さに驚いたのだろうか首をすくめている。
 あぁ、だからこの前の迅さんは、おれに毛布を持たせていたんだっけか。当たり前のように和音ちゃんを気遣っていたのだろう、と気づいてはまた――腹立たしい。

「空閑君……あの、どうかした?」

 黙っていたからか、和音ちゃんがおずおずと声をかけてきた。おれが妙にむかむかしているのを察しているのだろうか、困ったようにしてるのも嫌な気分で――また、引っかかる。
 付き合っているのかもしれない、と誤解されることは困ること。おれにそう教えたのは和音ちゃんだった。もしかして、和音ちゃん自身も困るから、おれもそうじゃないかと訊いたんじゃないのか?

「……おれ、今日本部に行ったんだ」
「そうなの」
「うん。ちょっと気になるトリガーがあったから、教えてもらおうと思って。そしたら、ちょうどミドリカワに会ってな」

 よくわかっていないのだろう、和音ちゃんは曖昧に頷くだけだ。おれは淡々と、ミドリカワにトリガーを教わったあと、休憩に呼ばれたことまでを話して――

「どうやら和音ちゃんとおれが付き合ってる、ってウワサされてるらしい」

 びくり、和音ちゃんの肩が震えた。そのまま「そう、……なんだ」と相槌を打っているが、この雰囲気はどうにも、知っていたんじゃないだろうか。和音ちゃんは視線をさまよわせたあとで、おずおずと口を開く。

「……ごめんなさい」
「いや、おれは構わないんだが――」

 ――続いた言葉はきっと、おれが嫉妬していると自覚してしまったからだろう。

「……和音ちゃんが困るだろうと思って」

 言えば、和音ちゃんは驚いておれを見つめる。心当たりがないのだろうか、それとも自覚がないのだろうか。いや、和音ちゃんのことだから、おれが気づいていないと思っているのかもしれない。様子を見るためにも、静かに話を続ける。

「好きなやつに誤解されたら、困るんだろ?」
「……え、っと……」
「前に、そう言ってたじゃん」

 和音ちゃんは困った顔で「えっと……」やら「その……」と言葉を詰まらせている。
 おれは、似た光景に見覚えがあった。和音ちゃんみたいな素直なやつが言葉を選んでいるときは――本当のことを、どうやって誤魔化そうかと考えているときだ。つまり、好きなやつのことを誤魔化そうと考えているはず。
 また、腹の底でなにかが淀んでいるようだ。だから、思わず口にしてしまった。

「……迅さんとは付き合わないのか?」

 和音ちゃんは目を丸くして、あげく不思議そうに「……迅さん?」と首をかしげている。思い当たりがなさそうな仕草に、和音ちゃんにはそんな気がないのだと勘違いしてしまいそうだ。

「――いやまぁ、無理には聞かないけど」

 口を開いたものの、閉じて、言い直せたのはそんなことだった。好きなんじゃないの? と聞けると思ったのにな。オサムにだって、ミドリカワにだって聞けたのだから、相手が和音ちゃんでも同じはず。
 だというのに不思議なことに、訊こうとしても声にならず、口を閉じてしまった。たぶん……嫌だった。和音ちゃんの口から、そうだ、と言われてしまうのが。

「……どうして、そんなこと聞くの?」

 和音ちゃんの小さな声は、集中していないと聞き逃してしまいそうだった。弱々しいそれは、まるで悪あがきでもしているようだ。ここまで来て「どうして」だなんて疑問でかわそうとするのは、和音ちゃんもなかなかに意地が悪い。

「好きなら、そう言えばいいのにって思っただけだよ」

 和音ちゃんは俯いてしまった。小さく「……そっか」と呟くような声が聞こえる。
 さて、どうしたもんか。これ以上話をしても仕方がないし、今日はもう切り上げてしまおうか。和音ちゃんは寒いのだろうし、おれも明日に備えるという建前があるし、ちょうどいいだろう。
 そろそろ潮時だ、と声をかけようとしたのだが――ふいに、和音ちゃんが顔を上げた。泣きそうな顔でおれを見つめて、震える唇を開く。

「…………じゃあ、聞いてくれる?」

 つやつやと光る瞳が真っすぐにおれを見ていて、腰が引けた自分に驚いた。和音ちゃんは微かに声を震わせながらも話を続ける。

「……付き合ってるなんて誤解されちゃって、空閑君も困るよね。……ごめんなさい。だけど、空閑君には……誤解されたく、なくて」

 ぽろり、雫がひとつ和音ちゃんの頬を伝った。和音ちゃんの泣き顔に驚いてばかりで、頭がまっしろになってしまう。だって、こんなのは初めてだ。おれを見る瞳は涙で揺らいでいて、おれは見惚れているかのように指先ひとつ動かせない。

「……私は……空閑君が好き、だから」

 泣きながら、おれが好きだという和音ちゃんを――きれいだと思った。
 しかし、すぐに頭を下げて「ごめんなさい」と謝っている。どうしてだろうか、取り繕ったような笑顔を浮かべて、ぽろぽろと涙を流したまま「本当にごめんね。明日はランク戦なのに、また迷惑かけちゃって」と繰り返し謝るのだ。
 和音ちゃんの言う迷惑ってなんなんだろう。そもそも、誤解ってなんだ? 訊くに訊けないまま、和音ちゃんは最後にぐしりと涙を拭って、また笑顔を作る。

「――もう、手を繋いじゃ、ダメだよ」

 和音ちゃんは「ごめんね。明日のランク戦も、頑張ってね」と震えた声で告げたと思うと、一目散に去っていく。混乱したままでは追いかけることができず、走っていく背中を眺めるしかできなかった。
 呆然としている間も、和音ちゃんの泣き顔が目に焼きついて離れない。
 
「…………和音ちゃんが迅さんを好きだって……おれが誤解するのは嫌だって……ことか?」

 今頃になって、ようやく頭が回ってきた。そうか、だから和音ちゃんは誤解を解くために、おれが好きだと言ったのか?
 でも、泣いた意味も、ごめんなさいの意味もわからない。迷惑だとか言っていたような気がするが……どういう意味か。おれも困る、と言っていた。なんでおれが困るんだ?

――おれが、ウワサに巻きこまれたから?

 そうだとしたら、なんだか和音ちゃんらしいと思った。別に、ウワサなんて適当に放っておけばいいのにな。だけど、きっと和音ちゃんは気にしていて、おれがウソを見抜けるからこそ、おれを好きだと……本当のことを、言わないといけなくなってしまったのか。

「……そうか」

 思い出したのは、昔、長くいた国での出来事だ。瞼を下ろせば耳の奥で『ユーマ、覚えているか?』と確かめるような声が聞こえてくるようだ。
 おれはそのまま、過去の記憶へと意識を沈めた。


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