はじめての責任を、ふたりで
 日曜日のお休みを挟んだ月曜日、学校が終わればいつものようにボーダーへ。技術開発局で経過観察だけして、開放されたと同時に玉狛支部へ移動。迅さんのお鍋をごちそうになり、人もまばらになった食堂で、このあとどうしようかと考えはじめた頃だった。

「和音ちゃん、今日は遅くなっても平気か?」
「え?」

 ドキリと心臓が跳ねて言葉に詰まる。一瞬、期待するような邪な考えが浮かんでしまったのを振り払いつつ、平静を取り繕って「大丈夫だけど、どうして?」と理由を訊ねる。

「ヒュースが、おれたちと話したいことがあるんだと」
「……ヒュース君が?」

 途端に期待がしぼむような妙な心地と、それでいて不信感。ヒュース君はどうしたのだろうと首を傾げるが、空閑君もよくわかっていない様子。いわくお風呂に入ったり陽太郎を寝かしつけたりするようで、ちょっと遅くなるとのこと。

「だから、それまで待っててほしいってさ」
「うん……なんだろ」
「ま、あとでわかるだろ。屋上行くか」

 うかがうような、どこか決まっているような声の調子に思わず笑ってしまった。台所に向かいつつ「お茶淹れるから待ってて」と言えば、空閑君は素直に「おう」と頷いて待っている。
 そうして二人分のあったかいお茶を淹れおえる頃、不意に空閑君が背後へと立つ。

「おれが持ってくよ」
「……ありがとう」

 触れていないのに、空閑君がいると思うだけで肌がぞわぞわするような感覚。伸びてきた手がふたつのマグカップを手に取ると、空閑君は普段と変わらない様子で「行こうぜ」と笑う。その近さにまた、心臓がどぐんと唸った。
 動揺を悟られないよう「うん」と頷きつつも、ひと足先に屋上へと向かう。両手が塞がってる空閑君では扉を開けるのも大変だろう。体のいい言い訳で階段を登り、予定通り屋上へ。空閑君はとっとと端へと向かい、両手のマグカップを端へ置く。

「和音ちゃん、どうする?」
「へ?」
「座るか?」

 当然のように差し出された手に、考えるより先に手が伸びる。重なった手に引かれるままに端へと歩み寄ると、ふいに手が離れていく。どうしてかと聞くより先に――背中に、手が回された。

「ひゃっ!」
「うお、……悪い、まだケガが治ってなかったか?」
「ち、ちが、くて、ごめん、びっくり、して……」

 空閑君の手はまだ背中にあって、それが妙に恥ずかしい。手持ち無沙汰な両手で今にも飛び出そうな心臓を必死に抑えるが、こんなにばくばくと弾けていたら、背中にある空閑君の手にも伝わってしまいそうだ。
 
「……大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ、だけど、どうして……」
「いや、前はずいぶん危なっかしかったから、抱き上げたほうが早いかと思って」

 抱き上げる、だなんてとんでもない言葉が飛び出てきて、顔から火が出そうだ。頭が回らなくて、なにも言えない。すると空閑君はこてりと首を傾げる。

「どうしたんだ? 今日はずいぶん恥ずかしがりだな」
「や、あの、ちょっと、ち、近いのが、恥ずかしい、というか……」
「――へぇ?」

 恥を忍んで正直に答えたというのに、空閑君はここぞとばかりに私の顔を覗き込んでくる。からかってるのだろうか、意地の悪い笑みが眼前にあって、紅い眼差しに息が止まる。見つめあって、もう心臓が壊れてしまうと限界を感じた頃、空閑君はくつくつと笑いながら顔を離していく。

「……空閑君は平気なの……?」

 まだ背中にはあったかい空閑君の手が添えられている。だから、離れるといってもたかがしれているのだ。目の前にいる空閑君は「どうかな」と首を傾げてみせるが、笑顔を見せているあたり余裕そう。

「オオゲサだな。なにかしたわけでもないのに」

 ――なにか、ってなに? 頭の中に浮かんだあれやそれで、またしても心臓が跳ねる。
 こんなことを考えてしまうのは私だけなんだろうか、私は空閑君の言う“なにか”が知りたくて「あ、あのさ」と声を振り絞る。

「その、三雲君とかも彼女ってよくわからない、みたいに言ってて……」

 さわ、と背中を撫でるように空閑君の手が動く。びっくりして肩が跳ねてしまうが、空閑君は顔色ひとつ変えず「……それで?」と続きを促した。

「……だから、その……空閑君って彼女と、手を繋ぎたいっていう、感じ……?」
「彼女っていうか、和音ちゃんと、かな」

 ぐ、と思わず唸ってしまうと、空閑君は柔らかく目を細める。まるで彼女だからではなく、私であることに意味があるんだと言われているようで胸がいっぱいになってしまう。
 さらには、空閑君の手がゆっくりと背筋を下りて腰へと添えられる。ぞわりとする妙な感覚に耐えながらも、私はやっとの思いで息を吸い、吐き出すと同時に声を絞り出す。

「……それ、だけ……?」

 空閑君がきょとんと目を丸くしてしまうのを見てられなくて、私は顔を逸らす。
 ……えっちな子って思われたかな。こんな聞き方はまるで、それ以上を求めてるみたいになってしまう。間違いではないけれど、もっと上手な聞き方がなかっただろうか。いや、それだってもう後の祭りだ。

「……おれも、和音ちゃんに聞きたいんだけどさ」

 私の質問に答えないまま、空閑君の声が耳元に落ちる。

「前にも言ったと思うけど、おれ、いつまでここにいられるかわからんから、責任が取れない」
「……う、ん……?」

 曖昧に頷くのは、空閑君が話すことの意味がよくわからなかったから。いつまでここにいられるか、というのはわかるが、責任が取れないとはどういうことだろう。
 腰に回された空閑君の手に力がこもったような気がした、次の瞬間にはもう片方の手が私の頬に触れる。驚いて、反射で空閑君を見れば、妖しく光る紅い眼差しが私を捉えた。

「なのに、手繋ぐ以外のこと、してもいいのか?」

 ぶわりと、身体の中心から脳みそまで一気に燃え上がってしまったかのようだ。どうしようもない恥ずかしさと戸惑いで混乱するばかり。空閑君が言う責任の意味って。

「……な、なんで、そんな……?」
「だって、初めてのキスとか大事なんだろ?」

 動揺しすぎて、空閑君がどんな表情で話しているのかも見えないくらいだ。初めて、というのを確信されているのにどぎまぎしつつも「た、たぶん……」とやっとの思いで返事をすれば、空閑君は「だから」と追撃する。

「責任とれないけど、はじめて、もらっていいの?」

 ――やっと責任の意味を理解して、泣きそうになった。
 ファーストキスっていう大事なもの。その相手が、最後まで一緒にいられない空閑君でいいのか、と聞いているんだ。もしかしたら、告白の返事をくれたときのように、自分ではない誰かに取っておいたほうがいいんじゃないか、という意味?

「……空閑君は、したくない?」

 問えば、頬に添えられていた空閑君の手、親指が私の頬を撫でた気がする。そのまま空閑君が黙って顔をこちらに近づけるので、反射で目を閉じれば――頬に――ふわりとした柔らかい熱が触れた。ちゅ、と音を立ててすぐに離れていくそれに、キス、されたのだと気づく。

「おれがそれに答えたら、ずるいだろ?」

 思わず、両手を空閑君の身体に手を伸ばした。
 抱きついてしまいたくて、でも、恥ずかしくて空閑君の服の裾を掴むのがやっと。自分から空閑君に近づくにもこれが精一杯。それでも、かすかに身体が触れ合うような心地がする。目の前に空閑君の顔があるのが恥ずかしくて、でも、逃げちゃいけないと堪える。

「……私は、空閑君がいい」

 手を繋ぐのも、触られるのも、キスをするのも全部、空閑君じゃないと嫌。
 溢れた感情は不恰好に震えた声で響いた。空閑君が静かに「目、つむって」と囁くので、従ってぎゅうと目をつむる。暗闇の中で衣擦れの音がして、空閑君が近づく気配がする。
 ふにり、唇に少し冷たいものが触れた感覚がした。優しく押し付けられるそれは私か、空閑君か、わずかに震えている。やわらかくて、優しくて、少ししてふわりと離れていった。こわごわと目をあければ、空閑君の紅い眼差しと視線が絡む。ほう、と漏らした吐息と一緒に――

「……好き」

 ――口をついて出たのはありきたりな告白だった。
 好きで好きでたまらなくて、幸せ。でも、最後まで一緒にいられない空閑君とできるキスは、あと何回残っているんだろう。嬉しいのに、さみしい。

「……和音ちゃん?」

 目の奥が熱くて、けれど、見せたくない。離れたくもなくて、私は空閑君の肩に額を寄せた。
 なんで、泣きたくなるんだろう。幸せなときにも涙が出るというから、そうかもしれない。けど、それだけじゃないとも、心のどこかでわかっている。

「……後悔したか?」

 静かな声に、首を横に振る。なにか、伝えたいことがあるはずなのに、気持ちがぐちゃぐちゃだ。言葉が見つからないのに次から次へと湧き出る感情は、いよいよ目の奥から滲み出していく。
 気づいたのか、それとも違う理由か、空閑君は肩に埋めたままの私の頭を撫でてくれた。嬉しいのに、幸せなのに、もっと触れたいと願ってしまう。だからきっと、苦しいのだ。

「……もうちょっと、このままでいてもいい?」

 私が泣いていることは、きっと空閑君に伝わってしまっているんだろう。それでも悪あがきをしようと、空閑君に身体を預けたまま。
 空閑君は、良いとも悪いとも言わない。ただ、私の腰に添えられていた手で空閑君の方へと身を引き寄せられ、もう片方の手が優しく私の頭を撫でたあとで背中へと添えられ――優しく抱き寄せられる。

「……おれも、好きだよ」

 小さな声の告白。きっとこの距離じゃなかったら、届かなかっただろう。傍にいられてよかったと思うと同時に、じんわりと痛む胸。
 私達は今日、またひとつ、恋人の選択をしたんだと思う。


[90/110]

 

サヨナラの引力

 

ALICE+