初めてのキス。それから二回目、三回目も。思い出すたびに顔が熱くなって心臓の奥がむずがゆくなる。今だったら、クラスメイトや友人たちの「彼氏とキスしちゃった」という、嬉しさと恥ずかしさの入り混じった告白を理解できそうだ。
だからと翌日、ちょっとだけ浮かれていた勢いで玉狛支部に顔を出したのだが――
「……で、あたしに声かけた理由は?」
「……………ごめん、あの、冷静になったのでちょっと待ってほしいというか……」
食堂のソファに女王のごとく堂々と座り腕を組む小南は、焦れったそうにしながらも待ってくれている。が、私の心の準備ができそうにない。
そもそも玉狛に来たのが迂闊だったと言えばそう。けれど空閑君と付き合ってる、なんて話を誰にでもしているわけでもない。知っている栞か小南に話をしてもいいだろうか、なんて足を運んで会えたのは小南だったもので、声をかけた。
……でも、そういえば小南って最初、付き合った報告をしたときに……キスがどうとかで怒ってたような……? と思い出して今にいたるわけだ。
「なによ、そんなに言いづらいこと?」
「……まぁ、それなりに……」
「安心しなさい。いつでも殴りこむ準備はできてるわ」
「そ、その準備は必要ないからね!?」
小南にキスの話なんてしようものなら、本当に空閑君に(トリガーでの訓練だろうとはいえ)殴りこみを決めかねない。しかし話がしたいなんて言った手前、やっぱりいいが通じる相手でもない。代わりになにか、それなりの話題はどうかと必死で考えを巡らせる。
だが、そもそも私は浮かれるあまり、たくさんのことを失念していた。
「こなみ先輩……と、和音ちゃん?」
食堂の扉を開いて現れたのは空閑君だ。もちろん、玉狛支部所属なんだから、いて当たり前。だというのに昨日の今日で顔を見て――思い出して、鼓動がじわじわと早くなる。
「お、疲れ様」
「どうも。来てるの知らなかった」
「今日はあたしに会いにきたのよ」
「ほう、それはそれは」
小南がドヤッと自慢するように言うのを、飄々と聞き流している空閑君。思い出して恥ずかしくなっちゃうから顔を見られそうにないし、この状況でどう普通にすればいいのかもわからない。
とはいえ、空閑君はそもそも小南に用事があって来たようだ。なんでも「チカが合同訓練行くから、おれも本部行ってくる」とのこと。小南が「じゃ、訓練は夕飯前か後ね」と答えれば、空閑君は「了解」と返している。
「和音ちゃんは?」
「――へっ?」
「夜までいるなら、送ってくけど」
唐突に話題を振られて、ちょっとだけ声が裏返ったような。慌てて「今日は小南と話したら、すぐ帰るから」と言えば、間をおいて空閑君の「了解」が返ってくる。
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃーい」
空閑君がひらりと手を振り、小南が間延びした声で見送る。私はせいぜいが、小さな声で「……いってらっしゃい」と呟くように言うのがやっとだ。
扉の向こうに空閑君が消えて、今日は安堵の気持ちのほうが勝った。さみしくないわけじゃないし、一緒にいたくないわけじゃないが……とても、心臓に悪い。この動悸を治めるにはどうしたらいいのだろうか。
と、空閑君のことばかり考えていたら、小南が「ふーん……」と妙に低い声を響かせる。
「あんたたち、なにかあったの?」
ぎく、としたのを見逃す小南でもないだろう。おずおずと様子をうかがえば、まるで戦闘中と見間違えるような真剣さで、こちらを鋭く睨んでいる。ここでウソをついたら、のちのち怒られることは火を見るより明らかだ。
「……言っても怒らない?」
おそるおそる念を押せば、小南は吊り上げた眉をピクリと引きつらせた。
「…………なるほど、ぶっ飛ばしてこようかしら」
「ま、まだなにも言ってないけど……」
「あいつに手出されたってことでしょ」
「なんでこういうときだけ勘がいいの!?」
小南は不機嫌がありありと見てとれるほどの表情で、腕組みをしたまま凄まれると普通に怖い。あげく私の返事で確信に変わったようで、小南はじいと私を睨む。
「あんたねぇ、遊真に甘すぎるんじゃない?」
「い、いやそんなことは……」
「さすがにそれ以上襲われたら言いなさいよ、あたしが怒ってあげるから」
「ま、待って待って!?」
小南が言う『手出された』というのが、なにを示しているのか。順当に考えたら、この前も言ってたくらいだし、キス、のことだと思う。だというのに、まさか『それ以上』なんて話を出されて、びっくりしてしまって。
「それ以上って、そんなのまだまだ先――」
自分で口にした言葉なのに、どこか冷静な自分が訊ねるのだ。――先って、いつ?
「……和音?」
「……あ、いや……」
よほど様子がおかしかったのだろうか、小南が怪訝そうな表情を浮かべているので、慌てて言葉を続ける。
「とにかく、空閑君とのことは、心配しなくても大丈夫だから……!!」
必死で言い切れば、小南は渋々と「まぁ、無理やりとかじゃなきゃいいけど」と矛を収めてくれた。なにやら「あんた、押しに弱そうだし」と心配してくれている様子だったので、さすがに「嫌だったら、ちゃんと嫌って言うよ……」とは返しつつ。
――おれ、いつまでここにいられるかわからん。
昨日、空閑君は前と同じことを話していた。空閑君の残り時間がどれくらいなのか、本人ですらわからないのだと。
私はつい当たり前のように『先』の話をしてしまう。ランク戦だってまだ続くはず。空閑君だって、まだいるはず。その先がいつか、わからないのは私も同じだから。
ただ、『先』のあと、どうなるかを知っているだけで。
「……っていうか、そこまで進んでおいて名前はまだなの?」
小南は呆れたような口調ではあるが、こちらを見る眼差しはいつの間にか心配するかのようだ。今も、空閑君と呼んでしまったことに気づいたらしい。
「ま、まだというか……キッカケがないというか……?」
我ながら言い訳がましいな……と呆れてしまう。なにより、『先』という言葉の意味合いに気づいてしまった今は、なおさら。
だって私は『後』になって、名前で呼びたかったと思わないだろうか。……遊真、と呼んで空閑君が振り返ってくれたら、そうして笑顔を見せてくれたら、と考えただけで胸が苦しくなるのに。
空閑君が好き。空閑君が大好きで、苦しい。
「……どうしたらいいと思う?」
好きな人に好きになってもらえることは幸せなことだ。なのに、好きで好きでたまらないことで、こんなに苦しい気持ちにもなるなんて、ままならない。
「普通に呼べばいいじゃない」
「いや、イキナリ? ってならない……?」
「付き合ってるのにいまさらでしょ。むしろ遅すぎるくらいじゃない?」
呆れたような小南は、それでも私の相談に付き合ってくれる。潔い小南のアドバイスはシンプルに「むしろイキナリ名前で呼んで、あいつを驚かせてやればいいのよ」と。そのためには、私の心の準備も覚悟も……練習も必要だ。
「……頑張る」
「……なによ、珍しいわね」
「うん。話聞いてくれてありがとう」
素直にお礼を口にすれば、小南も満足げに「どういたしまして」と笑う。そう、ぐだぐだ言ってるだけじゃだめだ。いつ、その時がくるのかわからないなら、うじうじしないで一歩、踏み出さないと。
――だって、その『後』には、なにも残らないのだから。