私はそれを知っている
 がちゃん、と音がした。陶磁器特有の音に驚いてキッチンを見ると、レイジさんの見開いた瞳が私を見ている。

「レイジさん、大丈夫ですか?」
「……あぁ」
「はやく千佳ちゃんの所に持っていってあげないと、冷めちゃいますよ」

 ただでさえ屋上は冷えるのに。と、よく遊真と一緒にいるからこそよく知る寒さを思う。栞はともかく、弱っているだろう千佳ちゃんには早く、温かいものを届けてあげてほしい。

「千佳ちゃんについててあげてください。私は、大丈夫ですから」
「――わかった」

 準備が整ったのだろうか、レイジさんは千佳ちゃん用のマグカップを手に取り、キッチンから出てくる。そのまま階段を上がるだろうと、ぼんやり視線だけで見送っていれば、通りすがったレイジさんの大きな手の平がぽん、と頭に下りてきた。

「なにかあれば、すぐに呼べ」

 レイジさんはそう言いおいて、ヒュースを一瞥すると階段を上がっていった。千佳ちゃんは大丈夫だろうか。早く、落ち着いてくれればいいんだけど。
 ぼうっと見えない屋上を思っていると、つん、と小さなぬくもりが手に触れる。視線を下げればおずおずと言った様子の陽太郎が私を心配そうに見つめていた。

「和音は、しにたいのか?」

 まったく、五歳児にこんなことを言わせてはいけないな、なんて。ヒュース君もせめて、陽太郎がいないときに話してくれればよかったのになぁ。とはいえ取り返しがつく話でもないし、私はそっと陽太郎に笑いかける。

「そんなことないよ。死んじゃうのは怖いもん」
「そ、そうか。ならいいんだが……」
「詭弁だな」

 納得しかけた陽太郎の隣で、ヒュース君の冷たい瞳が私を見下ろす。

「自ら死ぬことを肯定したくないから、他人に殺してもらおうと思っているだけだ。結果として死ぬことを望んでいることと変わらない」
「……そうかもね」
「オレが和音を手にかけても、おまえはオレを責めないだろう」
「えぇ? いや、それは駄目だよ。そんなことしたら、せっかく玉狛第二に加入したのに、遠征部隊になろうって話がなくなっちゃうじゃない」
「今でなければいい、と言っているように聞こえるぞ」

 改めて千佳ちゃんへの同情心が深くなるばかりだ。こうもずけずけと自分の心の柔らかいところを踏みつけられると、それなりに堪えるもの。千佳ちゃんが取り乱してしまうのも無理はない。

「……そうだね。ヒュース君に意味があって私を殺しにくるのなら、構わないよ」
「か、和音……」
「大丈夫だよ、陽太郎。別にヒュース君と喧嘩してるわけじゃないから……と、思ってるけど?」
「当然だ。ただ話をしているだけで、喧嘩と言われては心外だ」

 もうちょっと声に抑揚があれば、優しさを感じられるんじゃないかなぁ。とはいえ陽太郎自身もヒュース君と過ごす時間が長いからか、ヒュース君が悪意を持って話をしているわけではないということも納得したのだろう。歯切れは悪いが「うむ……」とゆったりと頷いている。

「けど、私に対してはちょっと手厳しくない?」
「動揺していなかったからな。自覚があったんだろう?」
「どうだろう……でも、ヒュース君の話を聞いて納得した部分はあったかも」

 お母さんの面影を思い出すくらいには、ヒュース君の言葉はなんら違和感なく、すとんと私の中に落ちてきた。まるではじめからそこにあったかのように。

 ――傷ついたからとやり返せば、争いはずっと続いてしまうから。

 だから、私が刃を向ければ、刃を返して“もらえる”のだろう。身近な人たちの手を汚させるわけにはいかない。けれど、奴らに手を出したのは私だ。だから、お母さんに守られている身であっても、もしかしたら、いつか争いの先に――

「……死にたいと思ってるつもりはないんだけどね。ただ、敵を殺してまで生きていたいか……って聞かれると、違うかなって思うかも」
「だから弱いと言ったんだ。自分の命を守るためには、たとえ強大な敵にも立ち向かうしかない。だから、勝つためにできることを考え、実行するのだろう」
「……そうだね。みんなは、強いね」

 そう、話が終わるかと思ったのに。

「和音だって強いだろ」

 凛とした声が部屋に響いた。見れば、開きっぱなしの食堂入り口に遊真が立っている。
 
「――遊真、どうしたの?」
「なにかつまむものが欲しくて、取りにきた」

 そうは言うけれど、遊真は一歩もそこから動かない。場の異様な雰囲気を感じたのだろうか、ヒュース君を伺いながらも「チカとしおりちゃんはどうしたんだ?」と訊ねる。口を挟むのは、とちょっと考えたが、それでもこれ以上空気が悪くなるのは避けたくて、ヒュース君に代わって答える。

「少し休みに屋上に行ってるよ」
「……そっか」

 ヒュース君が私を見るので、ふっと笑顔を返す。少なくとも、いろいろな整理ができてない今、千佳ちゃんの話を遊真にするのは得策ではないだろう。休みに、というのは嘘ではない。
 けれど遊真も引き下がらず「それで?」と食い下がった。

「その間に和音をいじめてたのか、ヒュースは」
「……いじめてない」
「い、いじめられてないよ!?」

 私が否定するより先に否定したヒュース君はさすが、と言ったところか。慌てて私からも否定すれば、遊真は文句のありそうな顔でむぅと唇を尖らせる。

「でなきゃ、陽太郎がそんな顔しないだろ」
「え?」

 遊真が指で示す先、視線をやれば、いつのまにか瞳を潤ませている陽太郎。

「よ、陽太郎、どうしたの?」
「……けんかは……だめだ、よくない……」
「だから、喧嘩ではないと言っているだろう」
「どうだか知らんが、陽太郎がビビるくらいの雰囲気だったんだろ」

 さすがに陽太郎の様子に焦ったのか、珍しく慌てた様子のヒュース君。さっきまで冷静に私達に詰め寄っていた人物とは思えないほどで、思わずくすりと吹き出してしまった。だからだろうか、陽太郎がちょっとだけ表情を和らげて私を見つめる。

「……和音は、だいじょうぶか?」
「大丈夫だってば。仲良し……かはわからないけど、私はヒュース君のこと好きだから」
「そうだ、別に和音が嫌いだとか、そういう話ではない」
「……そ、それならいいが……」

 ゆるく目尻を擦って涙を拭う陽太郎。表情も落ち着きつつあるので、これで問題ないかと胸を撫で下ろす。これで一件落着かと、そう思った直後。

「……ふーん」

 遊真の返事に、背筋がぞくりと震えた。今、私はなんと言っただろうか。後ろめたさからか、妙に刺々しい気配が背中に刺さっているように感じられて冷や汗が垂れる。

「それはそれは、仲が良さそうでなによりですな」
「え、っと、遊真……?」

 遊真は私の声に一切耳を貸さず、すたすたとキッチンに向かっていく。戸棚を探すような音が聞こえたと思えば、手元にちょっとしたお菓子などを抱えてさっさと扉の前へ。

「まだ相談の途中なんだ。ひと区切りしたらまた来るよ。ヒュースの話もまだだし」

 言うだけ言って「またあとで」と、後ろ手に手を振って廊下へと出ていく遊真。遠くで微かに淡々とした足音が響いているのを鑑みるに、真っ直ぐに三雲君の元へと帰っていったのだろう。

「……ヒュース君、あの……」
「だからオレは嫌いではない、という話にしたんだ。今のはおまえが悪い」

 ぐぅ、と二の句が継げなくなる。いくら陽太郎を落ち着かせるためとはいえ、さすがに遊真の前で宣言するには、ちょっとためらう内容じゃないか。いや、他意はないんだけど、それでも聞いている遊真からしたら気分のいい話ではないのはもちろんで……。

「……とりあえず、千佳ちゃんが戻ってくるまで続き、しようか……」
「うむ! まかせろ、おれもてつだうからな!」
「わかった」

 ともかく、陽太郎が元気を取り戻したのならよかった。遊真のいう『あとで』が怖いなぁと、迫りくる不安から目を逸らすように、私は改めてパソコンの画面と向き合うのだった。

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サヨナラの引力

 

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