巻き戻した時計が語るもの
 物心ついたころから、私には父親がいなかった。
 一度だけ理由をお母さんに尋ねたら、お父さんは故郷を離れるわけにいかなかったの、と告げられる。その困ったような笑顔の裏に深い悲しみを垣間見た私は、それ以上詳細を尋ねることが出来なかったのだ。

 私とお母さんは普通の親子だった。一緒に笑い、怒り、泣く、普通の家族だった。そんなお母さんが私に何度も告げた言葉がある。

 ――傷を受け入れられる、大きな子になりなさい。

 事実お母さんは感情のままに怒ることはほとんど無かった。まずは悲しんだり辛い気持ちを耐えたり、そういう人だった。それは私から見たら、諦めてしまっているように見えていた。

 ――やられて、やり返す応酬はずっと続いてしまうから。

 お母さんはいつもそう言っていた。私はそんなお母さんが誰かに何かをやり返す姿が想像出来なくて、だからいつもお母さんの本心は読みきれずにいたのだ。何を、諦めてしまっているのかそれだけが不思議だった。
 それでも私は優しいお母さんが大好きだったし、私が些細な事で腹を立てたり悔しがったりする私をお母さんは抱き締めた。

 ――もっと素直に悲しんでいいのよ。

 ――悲しみを、憤りで誤魔化してしまわないで。

 お母さんはそう言って悲しそうな笑顔を浮かべるのだ。自分の心に刺さった棘を、勢いよく抜いて相手に差し向けるより、そっと抜いて傷跡を自分で慰められるような、そうやって静かに悲しむことが大切なのだとお母さんは教えてくれる。
 私はお母さんには遠く及ばなくともあまり怒りを体現する事は少なくなっていたし、実際近所の人にも随分と素直な子だと言われる朗らかな子に成長した。笑顔を向ければ笑顔を返してもらえる、それがきっと母の伝えたかった事なのだと、そう考えるくらいには負の感情を知らない子供に育っていたのだ。



 そして、あの日。四年前の大規模侵攻のあの日に、私の運命は動いたのだと思う。

「和音、よく聞いて」

 突如現れたたくさんのトリオン兵と、それによる戦闘行為。市民が逃げ惑う中、お母さんは私の両肩を強く握る。いつも優しい笑顔を浮かべているお母さんが、真っ直ぐに険しい顔で私を見据えるのが怖かった。

「本格的な侵攻が始まった。多分もう隠しきれない」

 ドォン、と次々響く爆音と人々の叫び惑う声。それらの大合唱の最中にいるというのにどこか遠くて、お母さんの真剣な声だけに集中して耳を傾ける。

「私はあなたを連れて向こう側から逃げてきたの。――多分、今も奴らはお母さんを探してる」

 どうしてとは、聞けなかった。理由をきちんと聞いていられる猶予は無い事は私にもわかっていた。だからただお母さんの言葉を一字一句心に刻み込む。

「あなたを絶対に守り通す。そのためにはやっぱりこれが必要なの」

 お母さんは自分の胸元を憎らしげにぎゅうと握りしめた。指先が白くなるほど強く握ったと思えば、優しい強さで私をその胸に抱きこむお母さん。

「私の全てをあなたに託す。私があなたを守る力になる」

 お母さんの強い眼差しが、胸元から溢れ出る光できらきらと揺れる。それを見終わって目を開いたその時、私を包んでいた柔らかい掌がぱらぱらと砂になって崩れ落ちた。

「おかあ、さ」

 口の中がからからに乾いていてろくに言葉も紡げない。そんな情けない私の声に呼びかけるようにどくりと心臓が音を立てる。服の上から自らの身体に触れると、体の中心に何か硬い感触があった。



「……今のトリガーは、お前が使ったのか?」

 突如背後から伸びる人影が私を覆う。ゆっくりと振り返れば逆光で姿も表情も見えないが、どくりと打ち鳴らされる心臓が危険だ、と私に告げていた。

「それはわが国の至宝だ。返していただこう」

 ぐるりと心臓が抉られたような感覚は本当にあったものだろうか。どぐり、と鈍い音を立てて一際大きく心臓が跳ねた瞬間から、私の記憶はすっぽりと抜け落ちてしまった。



 気付いた時には、私は瓦礫の上で倒れこんでいた。トリオン兵が闊歩する地響きに目を覚ませば、目の前には見知らぬ男が息絶えていたのだ。
 何が、起こったのか。呆然として何一つ理解できない私の前にまた新たな人影。

「……これは、どうして……」

 低い男性の声は私の奥へしっとりと響き、顔を見上げる。まだ心臓はとくり、とくりとゆっくり震えていて、警戒心を露にする私に男性は静かに笑みを象った顔を向けた。

「安心してくれ、危害を加えるつもりはない」

 じゃり、と地面を踏みしめた男性はゆっくりと腰を落す。片膝を地面につけてなお腰を屈めるその姿は敵意がないと私に示しているようだ。

「君はトリガーを持っているのか。私を殺すか?」

 その問いに私は迷わず首を横に振る。それを後者の返答と受け取ったらしいその人は今度こそにこりと笑んだ。立てるか? と差し出された片手を恐る恐る取って立ち上がる。

 ――それは、現忍田本部長その人だった。



「…………あれ、だけど」

 会話の途中にふと空閑君が声をあげて現実に引き戻される。途端に世界に実感が戻ってきて、ふわりと頬をなでる風の冷たさに頭が冷えた。随分と夢中で話をしていたらしい。だけど空閑君は平然としながら首を傾げる。

「入隊して一年半、って言ってなかったか?」
「うん、正式に入隊したのは一年半前」
「その間は何をしてたの?」
「……普通に学校に通いながら、ボーダーで研究されてたよ」

 え、と僅かに戸惑ったような声色を空閑君が漏らすのは珍しい。私はまた少し昔に想いを馳せて空を仰ぐ。



「駄目ですな。このトリガーは外せない」

 鬼怒田さんが疲れたようにそう城戸司令へと進言する。まだできたばかりのボーダー基地内部の研究室。どうやら彼らが言うトリガーは私の心臓付近を包むように存在しているらしい。彼らはトリガーを私から奪おうとしているようなのだが、できないらしいのだ。

「本人の意思が無くとも起動してしまうのです。今の技術では取り外すどころか解析すら難しい」
「……ふむ」

 ぴ、ぴ、ぴ、ぴ。
 耳障りな電子音が一定のリズムで鼓膜を揺らす。いまだぼうっとする意識から推測するに、先程打たれた注射は麻酔の類か。そうして意識を失った私からトリガーを奪おうとしたが、何故かそれは彼らには出来ないことらしい。
 城戸司令は横たわる私を見下ろしながら静かに問う。
 
「お前は、それの元になるトリガーをどこで手に入れたのだ」

 私は大人しくおかあさん、と一言だけ告げれば城戸司令は目を細めた。そうか、と告げた城戸司令はそれ以上何もいう事は無かった。


 結局私は正体不明のブラックトリガー保持者として、ボーダーに生活を管理されることになった。唯一の家族である母が居なくなった私にとっては幸運でもあったと今なら思う。
 上層部の決定として既にこの時から私のブラックトリガーは秘匿事項とされた。まだ立ち上げたばかりの組織である以上評判を落とすことは避けたい。つまり脅威的な力を持つブラックトリガーが存在し、ボーダーがそれを支配下におけないという不安の種は見えない方が良かったのだ。

 私にろくな説明もせずにブラックトリガーを取り上げようとしていたボーダーに対して、当然私は不信感を抱いていたし、生活を管理されているストレスも感じていた。だけど忍田本部長が私の存在を気にかけてくれていたのも感じていて、あの瓦礫の中から救い出してくれた恩を無かったことにはできなかった。
 そうして研究に協力しているとブラックトリガー内部に強いトリオン反応が発見されたのだ。これを敵に回してはいけないと鬼怒田さんもこちら寄りの意見を進言し、結果城戸司令も強行策から懐柔策へと方向転換してくれた。

 そうして日々ゲートが開き、襲いかかってくるネイバーと、防衛任務に勤めるボーダー隊員との戦闘が日常になってきた時代だ。私がボーダーに対して害を与えていない実績が認められた為、資金保障の元私は一人暮らしする事を許された。ボーダー基地に通うことを条件に与えられた新しい生活に慣れた頃、それは突然に私の目の前に現れる。

「…………」

 見慣れないトリオン兵だった。人型を模したそれはすぅと腕をこちらへ差し出す。危険だ、と無意識に感じ取った心臓がどぐどぐと鈍い音を立て始めた。

「…………」

 しかしそれは変わらず手を差し出したまま動かない。脳内で警鐘が鳴り響く。絶対にいけないと忠告が鳴り止まない。だけど、それでも私はその本能を必死の思いで押さえつけた。

 ――自ら誰かを傷つけるような子にはならないで。

 あっという間の日々の中でろくに悲しむことも出来なかった私は、ふと浮かんだ母の教えに逆らうことをしたくなかったのだ。何故か溢れる涙を止める事も出来ずにその掌を掴む。
 刹那、がしりと捕まれた腕に引き寄せられて、もう片方の腕が反応する間もなく私の胸へと沈んでいく。

「……あ」

 抉られた、感覚がした。間違いなく。私のトリガーを取り出そうと刃がぐずりと私の中央を掬う感覚。
 いやだ、助けて、お母さん。
 もう、やめて。

 咎めようとしたその手はゆっくりとそれに伸びる。がしり、掴んで握りしめた拳に力を込めた。そうしてまた私はゆっくりと意識を闇に沈めていく。

 目が覚めて、そこにある残骸をみて私は気付いたんだ。ボーダーが、奴らがどうしてブラックトリガーを求めるのか。それはこんなにも強大な力を秘めているからなのだと。
 そうして私は理解してしまった。あの大規模侵攻の日、男を殺したのは私なのだということを。



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サヨナラの引力

 

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