「お前達、いい加減にしないと風邪ひくぞー」
沈黙は屋上に現れた迅さんによって壊された。両手には湯気の出ているマグカップを持って。
「ほら、これでも飲め」
そういって差し出されたカップにはココアが注がれていて、空閑君と二人でそれをありがたく受け取って口に含む。程よい甘さのそれを一口こくりと流し込んで、その熱さにようやく自分の体が冷えていることに気付く。
「和音は病み上がりなんだから、ほらこれも」
そういって迅さんは部屋からもってきたらしいブランケットを広げた。ふわりと両肩に落とされたそれに大人しく包まれば、つめたい外気が随分と遠くなり身体の中が温かくなるのを感じる。
「そっか、忘れてた。和音ちゃんは生身なんだった」
「忘れるなよ。おれやお前はトリオン体だから仕方ないけど」
なるほど、今この場に生身で居るのは私だけか。どうりで空閑君が一切寒そうな仕草を見せなかったはずだ。さすがに十二月の寒空の下長く佇んでいたのはよくなかった。自覚すると感じる冷えにきゅうとブランケットを握りこむ。
「なぁ和音」
「はい?」
いつもだったら間髪いれず用件を告げる迅さんが、この時ばかりは少し思い留まるような仕草をした。疑問に思うもちらりと空閑君を見ると静かに口を開く。
「お前のゲートが、開くよ」
迅さんが、わざわざ言葉を選んで私にそう告げた理由。理解すると同時に反応したブラックトリガーで換装を済ませた。ぐらりと意識が遠のきそうになったのを手繰り寄せて迅さんを見据える。
「あぁ、確定だ」
どぐどぐと心臓が激しく軋んで止まらない。頭の中にじわじわと血が滲んでくるような熱を感じる。私は残った微かな理性で迅さんを黙って睨み続ける。トリガーの換装を検知したのか、じじ、と通信が入った。
『ラインC許可を出す。以後報告を忘れるな』
「……了解」
城戸司令から告げられた指示はラインCまで。目標を発見、捕捉するまでトリガーによる換装の許可。そうすれば奴らはこのトリガーに釣られてやってくる筈だから。
「空閑君、ごめん、私もういくね」
手元に残っていたココアを勢いよく飲み干す。私は少し乱暴にそれをおいてブランケットも丸めて隣に並べた。ゆっくりしているとここまで来られてしまう。
「なぁ和音ちゃん、おれも手伝おうか?」
ふと、聞こえた言葉に目を向ける。協力を申し出た空閑君に呆けていると、私の返答を聞かずにレプリカ、と相棒を呼び出した。心得た、と現れたレプリカはふわりと浮いて夜の三門市を眺める。
「初めて会った夜と同じ反応を探知した。和音を狙う者達だろう」
止めるより早く既に奴らの探知を始めたレプリカと、私と同じようにココアを飲み干して立ち上がった空閑君に呆ける。なんでこんなに変な感じがするんだろうと思って思考を巡らせていると、迅さんはしばし私達を眺めてからふぅと小さく息を吐いた。
「遊真、サポートだけにしとけ」
「りょーかい」
そうだ、私がこのトリガーを使う時はいつも一人だったからだ。トリガーの存在と私の事情を知っている人ですら少ないと言うのに、その限られた存在の誰かに共闘を申し込まれたことが初めてなのか。
危ないんじゃないか、なんて止めるのは空閑君に失礼な話だろうか。どちらにせよ迅さんが咎めないのなら大事にはならない、させない。するとぴくり動いたレプリカは一点を見つめる。
「近い。北東約1キロ先だ」
聞くが早いか私は得られた情報を元に全速力で駆ける。この辺りだと足を止めれば、一拍置いて空閑君も背後に降り立ったのを感じた。沈黙が落ちる中、私と空閑君の息遣いだけが闇に響いて、気配を探る。
「……水沢の娘か」
ずるずると何もないところに姿を成していくそれ。人型ネイバーは仮面の下で僅かに口角を引き上げた。どうしてこんなタイミングで奴らの国の人間がここに?どちらにせよ私を狙っていることを確認して秘匿通信を繋げる。
『城戸司令。目標、人型を補足。ラインA許可を』
反応も待たずただ用件を述べれば、許可すると一言だけの返事。迅さんが空閑君の同行を許可したのは人型相手だからか。空閑君のサポートがどんなものかはわからないけれど、奴らの相手は私だ。一度深呼吸をしてから弾幕を張った直後、空閑君の声が響いた。
「なぁ、あんたらの目的って何?」
それは随分と唐突な質問だった。奴らは空閑君を私の味方と見なしたようでしばし沈黙が落ちる。すぐに攻撃してこないということは回答するつもりがあるのだろうか、私自身気になったその問いに答えが得られるのならと攻撃を待つ。
ネイバーはそれを悟ったのかゆっくりと口を開いた。
「……トリガーを回収することだ」
「ブラックトリガー相手に自分一人って、随分強気だね」
「十分だ。このトリガーがあれば回収の目的は遂行できる」
ふーん、と気の無い返事をする空閑君。やっぱり狙いはトリガーなのかと足に力を入れた瞬間に空閑君がふ、と笑った。
「おまえ、つまんないウソつくね」
思考がぱたりと止まってそれまでの考えが全て吹き飛んだ。私は奴らから視線をそらすことが隙を生むとわかっている筈なのに、ウソだと言い切った空閑君へ意識が向くのを止められない。
何が、どうして、と疑問ばかりが浮かんでぽかりとしていたら、空閑君が一瞬の内に表情を崩す。
「……隙を見せたなアゼナミア」
勝ち誇った奴の声が耳障りだと、思った。その手は背後から私のトリオン器官の辺りをがしりと掴んでいて、どぐり、と内臓がぐらつく感覚がする。
普通のトリガーでは簡単に切れないくらいに硬い私の換装体。まるでそれに溶け込むような奴らの手と武器が体内を抉って気持ちが悪い。一瞬で優位に立ったネイバーは、協力感謝する、と空閑君に言葉を投げて、それを受けた空閑君がじろりと鋭い視線を返す。
「空閑君」
わんわんと耳鳴りがしてとても不愉快だ。だけど私はそこまで注意を払っている余裕がない。空閑君を呼び止めれば少し驚いたような顔をしてこちらを見るけど、それも気にせずに私は重ねて尋ねた。
「何が、ウソ?」
「……回収が本当の目的じゃない」
みしみしと、奴らの発動したトリガーが心臓を押しつぶしていく。トリガーの回収が目的ではない? それならこのトリガーは何?
「……何故、私を狙うの」
みしみし、押し潰された内臓が軋む。トリオン器官は殆ど奴のトリガーの手の中だ。
「我らの目的の遂行の為だ」
にたり、その笑顔の映像を脳内が処理して理解した。瞬間ばちんと弾けたブラックトリガーが再起動する。
――目の前が真っ暗になる。
「……和音ちゃん、もう終わったの?」
呼びかけられた声に意識が段々と闇から浮かび上がってくる。失っていた視力を取り戻したかのように世界に光が戻ってきた。くいと引かれた手から、じわりと熱が伝わってきて消えていく。
「これ、壊れたみたいだけど、どうする?」
壊れたという状況にそぐわない単語に違和感を覚えて確認すれば、それは、よく見ると人間のようなトリオン兵だった。アンドロイドの残骸を見下ろして私は呆然と立ち尽くす。ぼんやりとした頭のまま、報告をしなければと通信を繋いだ。
「ラインS、発動しました。地点を送信しますので回収をお願いします」
少しの間落ちる沈黙。後にわかった、と返答があって通信が切れる。確かに私は現実に帰ってきているのだと、思う。だけどこんなに感覚の遠い現実に違和感がひどく残った。
「……嫌なの、見せてごめんね」
私の表情を伺うような視線を感じる。だけど、私は怖くて空閑君を見ることが出来ない。
知っていたはずだし、話せていたはずだ。受け入れてもらったと思えていたはずだ。
だけど、まさにその瞬間を見られてしまって、今の私じゃあの透き通った瞳を見つめ返せない。一体私は何をしたのか、空閑君には何もしなかったか。その瞳に少しでも敵意が混じっていたら、私はどうするのか。
「レプリカに、ありがとうって伝えて」
「和音ちゃん」
「帰るね、帰って」
見ないままそう告げれば、空閑君はそっと手を離した。私は空閑君に背を向けてその場から離れる。
帰り道の記憶は殆どない。ただ、気付いたら朝日が部屋に差し込んでいた。
私は換装も解かずに呆然と、部屋に座り込んだまま夜を明かした。