十歩進んで十二歩下がる
 冬空の下にいるというのに体が火照っている。膝にあるブランケットが夜風の冷たさを和らげて。左手には温かいココアの入ったマグカップ。右手には、空閑君と繋いだ手。

「寒くないか?」
「うん、平気」

 お陰でまだこの熱は冷める様子を見せない。残念なような、幸せなような。浸っていたい気持ちを振り切って、どうにか理性を繋ぎとめた。
 気持ちを変えようと、ふと思い浮かんだことを尋ねてみることにする。

「そういえば、空閑君は今日のランク戦どうだったの?」
「ポイント貯まったよ。B級昇格した」
「えっ、おめでとう!」

 ランク戦ブースにこもっているみたいだったけど、もう昇級したとは。私の顔が綻んだのを見てか、空閑君も頬を緩ませてそれに応えてくれる。千佳ちゃんは確か、特例でB級に上がったと聞いたし、三雲君は既にB級だった。そしてここに来ていよいよ空閑君も昇級。

「ってことは、正式に部隊になるんだね」
「うん。ボスのトコで書類にサインしてきた」

 さっきの“サイン”は部隊申請の書類だったのか。三雲君と千佳ちゃんの分は林藤支部長が病院に赴いてサインさせたらしい。いよいよ玉狛第二が結成されるのか、と考えてふと浮かんだ疑問。

「あれ、オペって誰がなるの?」
「さっき確認したら栞ちゃんになってた。」
「栞!? 兼任ってこと?!」

 多分、と空閑君もさっき知ったばかりらしく曖昧な返事をする。少し考えてみるけど、そもそも玉狛第一は本部のランク戦には参加しない。トリガーのレギュレーションが違う以上今後もそれは変わらないだろう。だからランク戦でブッキングする心配はまずないから、そこはいいとして。

「兼任かぁ……」
「やっぱり珍しいのか?」
「ランク戦が被っちゃう可能性があるからねぇ」

 玉狛第一オペの栞だからこそ兼任が許されたんだろうか。兼任ということは当然、玉狛第一の三人だってそれを了承してるはず。だっていくらランク戦は問題ないと言っても有事の時は別だ。そしてその負担がわからない玉狛第一メンバーでもない。

「……皆、玉狛第二を応援してるんだね」

 玉狛第二が防衛任務につくようになれば、そのオペだってあるだろう。この前みたいな侵攻があればその時は栞の負担は単純に二倍になる。それをわかった上で、それでも栞は玉狛第二のオペを引き受けたんだ。玉狛第一メンバーもそれをフォローするつもりだからこそ、兼任が成り立つんだろう。
 しみじみと零した言葉を、空閑君がどの程度汲み取ったかはわからない。それでも応援されているという自覚はあるらしく、小さく笑っていた。明日書類を提出するのなら、B級ランク戦の開幕はすぐだ。

「あっという間に忙しくなっちゃうねぇ」
「暇よりはずっといいよ。部隊戦は楽しみだし」

 忙しくなることが嬉しいと言わんばかりに笑顔を浮かべる空閑君。その方が性にあってるんだろうなと微笑ましく眺めたのも束の間。空閑君はふいに前を向いて何気なく言葉を零した。

「これでチカも、目標に近づくわけだ」

 それはきっと自然に零された言葉。私自身これが初耳というわけではない。
だってレプリカに聞いてとっくに知っていたから。知って、いたんだ。空閑君がそれに協力していることも。
 だけど知っていることと、実感することはまるで違った。
 私の目の前で嬉しそうに笑う空閑君の表情。それはきっと、千佳ちゃんを想ってのものだ。無反応だったのが気にかかかったのか、きょとりとした顔がこっちを向く。

「チカの話、和音ちゃんは知らないか?」
「……ううん。レプリカに聞いてるよ」

 上手に笑えていたのかどうかはわからない。それでも空閑君が頷いてくれたから、きっと上手くいったんだろう。だけど無理矢理飲み下した感情が胃の底を塞ぐような圧迫感。どうにか誤魔化しながら自然に呼吸することに神経を注ぐ。
 屋上で過ごす時間の中で会話が途切れることは別段珍しいことじゃない。だから今、こうして無言になってしまうのも緊張することじゃないんだ。それでも自然を意識するほど体が固くなるような感覚が空閑君に伝わってしまいそう。
 そうして平静を意識していたからか、突然の強い風に反応が遅れてしまった。

「あ」

 膝に乗っていたブランケットがばさりと飛んでいく。伸ばした手の先でひるがえったそれは、宙に舞い上がって勢いを失う。そうして重力に引き寄せられるがまま川の水面へと着水した。

「ど、どうしよう」
「取ってくるか」
「え、ダメだよ風邪引いちゃうよ?!」

 平然とした顔で、今にも川へと飛び込みそうな空閑君。繋いだ手を引いてそれを妨げようとしたら、細められた眼差しがこちらへ向く。

「何言ってるんだ?」

 やさしく、静かに笑う顔。それが少し怖いのは夜だからだろうか。

「おれは風邪なんて引かないよ。和音ちゃんならわかるだろ?」

 三日月のように引き上げられた口角。繋いでいたはずの手は、簡単に私の手の中からすり抜けていった。空閑君はさて、と小さく呟いて屋上の縁に立ちあがる。

「んじゃ、行ってくる」

 まるでちょっとそこまで散歩に、なんてそんな声色。空閑君は何の躊躇いもなく屋上の縁を蹴った。軽快な足音が鳴って、跳ねた空閑君の身体はゆったりと放物線を描く。
 そうしてさっきとは比べ物にならないほど大きな水音が鼓膜を揺らした。
 トリオン体だからきっと私が思う程寒さを感じないんだろう。そしてトリオン体だからきっと風邪を引くようなこともない。

「……それでも」

 そんなことをしてほしくないって思うのは、いけないんだろうか。
 怒涛の勢いでつきつけられた事実に、思考が麻痺して動けなくなる。

 少しして我に返った私は支部からバスタオルを拝借した。向かいがてら迅さんに会って、揃って空閑君を迎えにいく。

「お前明日学校だろ。とりあえずシャワーは浴びてけよ」

 迅さんにわしゃわしゃと髪を拭かれている空閑君。この冬空の下、ぐっしょりと濡れていても本人は平気そうだ。それは、やっぱりトリオン体だからで、だから空閑君は飛び込んだんだろう。そうだとしても、空閑君にそんなことをさせた自分が情けない。

「空閑君」
「うん?」

 支部へと戻る道すがら、小さく空閑君を呼びとめる。

「……ごめんね」

 情けなく告げた謝罪は何に対するものなのか。それすらもわからないけど、ただ、言わずにはいられなかったのだ。

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サヨナラの引力

 

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