「迅、もういいでしょ? あたし帰るからね!」
夕食が終わるやいなや、そう言って小南は帰っていった。どうやら明日に向けた空閑君の最終調整の為にと、本来なら帰るつもりだった小南を、迅さんが引きとめたのだという。
「そういえば烏丸君、今日はバイト?」
「はい」
「じゃあお皿洗いやらせて。卵のお礼」
どことなく落ち着かない様子だった烏丸君は、やはりバイトが控えていたらしい。今日は奮発してもらったからと皿洗いを申し出れば、表情が和らいだ。そんなつもりじゃなかったですけど、と念を押されたからもちろんと頷く。
そうして二人を見送ってから、ふとした違和感。辺りを見回せば、もう残っているのは私と迅さんだけだ。
「遊真なら、小南と一緒みたいだよ」
不覚ながら、私の思惑は見通されているらしい。けど、いつの間に帰ったんだろう。誘われないのも、帰るのも珍しい。すると迅さんが珍しく手伝うなんて言って台拭きを準備し始めた。それに急かされるように、私も早く食器を洗おうと流し台に立つ。
「どうだ? 玉狛に来る気になったか?」
「……はは、懐かしいですね、それ」
蛇口から流れ出る水に次々と食器をさらしていく。軽く汚れを流してから、洗剤をつけて泡立てたスポンジを握った。迅さんはテーブルを手際よく拭きながら口も動かす。
「ここに住込みの方が寂しくないだろ?」
「……はい?」
「玉狛住みで本部所属でもまぁ、何とかなるだろうし」
「ちょ、ちょっと待ってください」
続けられて言葉に焦って、思わず迅さんの言葉を遮ってしまう。確かに昔、玉狛に来るかと夕食後に誘われたことがよくあった。だけど必ず続けて、小南や宇佐美も喜ぶぞと言っていたはず。それは気の置けない友人のいる玉狛の方がいいだろう、という意味なのかと思って、私は城戸司令の下にある身だからこそ、茶化すように断っていたのに。
「それ、転属してこいっていう意味じゃなかったんですか?」
「さすがにお前相手にそんな誘いは出来ないよ」
遊真を玉狛に入れるのだって苦労したのにさぁ、と溜息をついた迅さん。じゃあ迅さんは、なんていうか、寂しいならおいでってそういう意味で言ってたのか。
聞き返せず黙っていると、迅さんは調理スペースへと入ってきた。背後から、これよろしくと言って台拭きを置いていく。そして、食器棚から二人分のマグカップを取り出しながら迅さんは話を続ける。
「ココアでいいか?」
「え、あ、はい」
どうやら食後のお茶を用意してくれるつもりらしい。食器早く片付けな、と急かされて私は視線を流しへと戻す。迅さんはもう鍋の牛乳を火にかけ始めていて、私は手を動かしながらも恐る恐るその横顔に声をかける。
「……玉狛に住込みの人、男の人ばっかですけど?」
「ま、無理だよなぁ。宇佐美達も泊まれはするけど住むのとは違うし」
迅さんはココアを取り出して、さじで分量を量りながらマグカップへとそれを落としていく。そこまでわかっていて、それでも誘ったのはなんだったのか。冗談か。でも、迅さんはもっと上手に冗談を言える人のはずだから、きっと違う。
「……お前は一人で考え込むのがへたくそだからなぁ」
迅さんが最後のココア粉をマグカップの底に落とすのと一緒に、静かにそう呟く。思いやるような声色に驚いて、思わず食器を洗う手を止めた。視線をやれば、迅さんの優しい蒼い眼差しが私に向けられている。すぐに逸らされた視線は手元のココアの袋に戻されて、私も視線を戻した。
そうしてまた迅さんは、小さな声で言葉を落とす。
「たまにはおれも付き合ってやるからさ」
ココアもうすぐ出来るぞと続けられた言葉を聞いて、食器洗いの手を急がせる。その横で迅さんは、スプーンで鍋を軽く混ぜてからすくった牛乳を一滴手首に落とした。温まったんだろう。迅さんは火を止めて、鍋からマグカップへと牛乳を注いでいく。
「……今日は迅さんが付き合ってくれるってことですか?」
「お呼びじゃなかったか?」
「いいえ、お願いします」
かちゃん、と最後の一枚を干して蛇口を止める。手持ちのスプーンでココアを溶かし終えた迅さんは、二人分のカップを手に持って、にこりと私に微笑みかけた。
「ほら、どうぞ」
屋上に着いて、迅さんはマグカップの片割れを私に差し出した。礼を告げて受け取り、ほどよい温かさに口をつければココアの甘みがしっとりと沁みていく。一緒に迅さんの優しさまでも私の中に沁みていくようで、何だか気恥ずかしい。
「迅さんとゆっくり話すの、久々な気がします」
「最近はずっと、遊真が和音の面倒見てくれてたからなぁ」
「……その言い方には異議ありですけど」
別に面倒を見てもらったつもりも、見ていたつもりもないんだけど。軽く睨めば迅さんはへらりと笑って、ココアを飲むことで話題を誤魔化してしまう。仕方なく私も、また一口ココアを啜っていると迅さんが唐突にそれを切り出す。
「なぁ和音」
「なんでしょう」
「ちょっと手、借りるな」
迅さんは、何時もの調子でさらりと私の手の平を浚っていった。そんなことを空閑君以外にされたこともなくて、驚きでびくりと肩が跳ねる。私の戸惑いを柔らかい笑顔でなだめて、迅さんはきゅうと軽く手を握りこむ。
「ど、どうしました?」
「なんだ、いつも遊真とこうしてるだろ?」
「み、視てるんですか。っていうかそれとこれとは話が別です」
僅かに力がこもった迅さんの手は、私のより大きい男の人の手だ。慣れないその感覚に混乱していると、迅さんはゆったりとした口調で問う。
「お前、なんでそれを遊真にしてやらないんだ?」
「……はい?」
「遊真相手にはお姉さんぶるの、止めたらいいのに」
何を、と言い返そうとしたけど、出来なかった。茶化すような表情ではあるけど瞳の色は真剣なものだったから。私はなんだか迅さんに責められているような雰囲気を感じて、視線を逸らす。
「……そういうつもりは、ないです」
「お前が今動けない理由は、それだよ」
「どれ、ですか」
何の、話をしているのかわからない。だけどもしかしたら、わかりたくないだけなのかもしれない。
だって多分これは。昨日の夜の続きだ。
「嘘をつきたくないから、言葉じゃないところで嘘ついてるんだ」
こくり、と唾を飲み込む音がやけに響いた。同時に何かがすとりと落ちた感覚。やだ、納得したくない。だけどそんな感情に反して私は、迅さんの言葉を抵抗なく受け入れていた。
苦しいのは、寂しいのは、それでも一緒にいると嬉しいのは。それらの根源はただ、空閑君が好きだからっていうひとつだけ。だけどその理由こそが一番、空閑君に隠したいもの。
そして同じくらい、いつか空閑君に伝えたいもの。
「……本当だからって、伝えていいとは限らないじゃないですか」
空閑君と手を繋ぐことは、恥ずかしいんだって素直に言えたらよかったのだろうか。それは特別なことで、だから照れるんだって。だけど少しでもそういう雰囲気を出してしまうことが、怖くて出来なかった。悟られてしまえば、そして理由を尋ねられてしまえば。嘘をつけない、つきたくない私は、答えを一つしか持っていないから。
――そうしたら、その時に。
「私、空閑君にまた迷惑かけるかもしれない」
「また?」
「空閑君の邪魔するばかりで、そんな私、きっと」
「和音」
まるでいつかみたいに、淀んだ気持ちを飲みこむ。
そうして私は上を向かなきゃいけなくなるんだ。迅さんの眼差しに、答えるために。
「そうやって誤魔化したら、誤解されるって、一番お前が知ってるんじゃないの?」
その言葉と、屋上の扉が開いた音はどちらが早かったんだろう。
振り向く瞬間に視界を過ぎった迅さんの顔は、小さく笑っていた気がした。