そのままがいい。だけど、ほんの少しだけ。
そう願った手の平の先に何が残るんだろう。
大規模侵攻から半月近く過ぎた一月終わり。放課後は今日もチカと一緒に、オサムの入院している病院へ向かう。ここ数日の日課となりつつある見舞いだったけど、今日は少しだけ珍しい日だった。そのひとつが、足を踏み入れた病室にボスという先客が居たことだ。
「修と遊真がもらった戦功を、千佳に移して昇級させる」
ボスの提案は、かなり例外的な対応ではあるらしい。ただボーダーとしてもトリオン能力の優れた人間は惜しいんだろう。今回の侵攻も、C級が目的とはいえ特にチカが狙われたのも事実だ。代わりにB級へは自力であがれというオーダーに問題なく頷く。
「二月の頭からいよいよランク戦が始まる」
そこで“玉狛第二”のお披露目だと笑ってボスは帰っていった。見送ったおれ達が残る病室に響くのは、オサムの細くも長い溜息。
「どうした?」
「……あまり時間がないな」
難しい顔のまま、オサムはベッドサイドから書類を取り出した。チカと一緒にそれを覗きこんでみれば栞ちゃんからのメモが目につく。B級ランク戦の開幕は二月一日からだよという走り書き。なるほど、本当にすぐだな。
「オサムはいつまで入院なんだ?」
「先生と相談して、月末には退院できるようになった」
それを聞いたチカはオサムに心配そうな視線を向ける。わからなくもないが、さすがに退院できない状態なら医者も許可は出さないだろう。そう思っていると、ふと時計を見上げたチカがあっと驚いたような声を上げた。オサムはすっとんきょうなその声に驚いて、突然帰り支度を始めたチカを呼び止める。
「千佳? 何かあるのか?」
「う、うん、玉狛女子会しようって先輩達に」
返事もそれなりに、今日はもう帰るねといって病室のドアへと手をかけたチカ。オサムは何か言いたげに手を伸ばしたけど、それよりもチカが向こうに消えるほうが早かった。おれはチカから事前に聞いていたことだしと黙って見送っていると、行き場の無くなった手を下ろしたオサムがおずおずとおれに声をかけてくる。
「……空閑は、いいのか」
「うむ。こなみ先輩に非番だと言われてしまったからな」
暇なんだと言って、おれはベッドの脇にあった椅子を引いてきて腰を落ち着けた。あの大規模侵攻を受けて、ボーダーから休暇取得の指示が出ているからだ。今日の合同訓練も、本部の都合で明日に延期になったからと修行もナシになった。
「おれは人さえ捕まればポイントは稼げるから、焦るなと言われた」
「……まぁ、それは確かに」
こなみ先輩の言い分を理解したらしいオサムは少しして頷いた。焦るなという言葉に思うところがあったのか、手元の書類をしまうのを見届ける。オサムはもう一度だけ溜息をついてから窓の向こうの景色へと視線を向けた。
「小南先輩達も非番なのか」
「そうだったか?」
「女子会って言ってたからな」
ジョシカイ、と尋ねれば女性だけでお茶をすることだと教えてくれた。つまり玉狛の女子ってことでチカ、こなみ先輩と栞ちゃんでお茶をするのだろうか。そう順番に名前をあげた直後の違和感にんん、と首をかしげる。
「和音ちゃんも似たようなことを言っていたぞ」
「水沢先輩が?」
「栞ちゃんが言い出して、こなみ先輩とチカとお茶をすることになったと」
「……あぁ、多分それだな」
おれの話を聞いて、オサムは少し考え直すような仕草を見せた。何が気がかりだろうかと想像してみるけど、オサムのことだからな。夕方からお茶会が始まって、そのまま夕飯になだれ込むこともありえる。そうなるとチカのことだから大丈夫といって夜道を一人で帰りかねない。いくらB級になってベイルアウトがあるといっても、それとは別の危険もあるだろう。
「……空閑」
「おう。帰りに支部に寄ってみる」
頼むと続けられた言葉に頷けばオサムは安堵の表情を浮かべた。入院中は制限も多くて色々と気がかりも多いだろう。じわじわと思い詰めたように変わっていく表情を眺めて気を逸らそうと一つ茶化してみる。
「オサムはチカが好きなんだな」
尋ねるとオサムは一瞬動きを止めた次の瞬間には頬を赤く染めた。うろたえつつも、お前が考えているようなことじゃないと言って口を噤まれる。
「付き合うのとか考えたことないのか?」
「ぼく達はまだ中学生だぞ!?」
「別に、クラスでも彼氏とか彼女の話聞くぞ?」
互いの質問に質問を重ねて少しの間睨み合い。
先に折れたのはオサムだった。それまでの慌てようはなんだったのか長く溜息をついて、落ち着いた様子で口を開く。
「……千佳のことは大切だ。ただ、ぼくが今出来る事はそれじゃない」
静かに、だけど揺らがない真っ直ぐな声。
オサムがこの声で話す時は明確な芯がそこにある。二人の関係がどうあるべきか、おれにはわからない。それはオサム自身が決めることだし、決めているなら口をだすことでもない。
「……そうか」
チカはネイバーに行きたくて、オサムはそれを手伝いたい。そしておれはオサムに誘われて二人を手伝うと決めたんだ。今はそこに恋愛事を持ち込むのはやめておくかと、頷いて話を終わらせた。
――つもりだったんだけど、オサムは続けておれに声をかける。
「だけど、空閑が誰かと付き合ったりするのを咎めるつもりはないからな」
さっきと全く同じように芯の通った声。オサムは真っ直ぐな瞳でおれの瞳の奥を射抜いた。
誰か、の言葉に脳裏に過ぎった姿に自分で驚いて、そうかとだけ答える。それがどう映ったのか、オサムは違ったか? と首を傾げるから笑顔を返した。多分おれがオサムに思うようなことを、オサムもおれに対して感じているんだろう。
だけど、おれはオサムみたいに真面目でも、ましてや優しくもないからな。
「付き合いたいとか、考えたことないよ」
言えば、オサムは僅かに表情を歪めてそうかと頷いた。おれは窓際から今日も晴れた三門市の向こうを眺める。
きゅうと、何もない手の平が疼いた。