見えているのに見えてない
 階段を昇る途中、屋上の扉の前にいる和音ちゃんと目があった。早かったなと声をかければ和音ちゃんはきょとりとして首を傾げる。

「空閑君、どうしたの?」
「ちょっと寄り道してた」

 和音ちゃんこそ、と思ったら両手に湯気の出るマグカップが二つ。それじゃあ扉は開けられないな、とおれも扉の前に立つ。開いて扉を支えれば、和音ちゃんはおずおずと屋上へと足を踏み入れる。

「わ、寒い」

 そう零して肩をすくめる和音ちゃん。改めて、手元に二枚あるこの毛布をどう使おうかと考える。一枚は和音ちゃんが包まればいいけど、おれに毛布は必要ないな。
 それならと余る一枚を縁に敷いて、重石代わりに自分が腰を下ろす。そうして和音ちゃんに手招きすると、差し出されたマグカップ。とりあえずは受け取ったけど、和音ちゃんは一向に座る気配を見せない。

「……なんで座らないんだ?」

 尋ねれば一瞬きょとりとした後に座るのが怖いという返事がきて驚いた。この前は普通に座っていたし、怖いなんて一言も言わなかったのに。あの時はどうして、と考えて一つ浮かんだ可能性。

 ――だけど。
 ここからだとおれの手は和音ちゃんに届かない。わざわざ降りて手をとるのは変だろうか。そうしたらこの毛布は。あっという間にごちゃごちゃになった頭の中でおれは瞬時にその迷いを切り捨てる。
 おれは、そういうことに興味があるわけじゃ、ない。
 そう結論付けて――今度こそと確認するように、和音ちゃんへ手を差し出す。

「こうしたら平気か?」

 和音ちゃんの瞳が僅かに揺れる。迷っているんだろうか。違ったかと尋ねて逃げ道を用意したつもりだったけど、和音ちゃんはおずおずとその手を伸ばす。重ねられた手の平に、小さく安堵の息が漏れたのは聞こえてしまっただろうか。
 やっぱりそうだ。理由があれば、和音ちゃんは拒絶しない。
 ゆっくりと体制を整えてようやく腰掛けた和音ちゃんは深々と息を吐いた。そんなに怖がるのが少し意外で、念の為もう一度聞いてみる。

「高いとこ本当にダメじゃないのか?」
「ダメじゃないけど、怖いと思うのは自然なことじゃない?」

 怖い、と口にすると同時にきゅうと少しだけ手が強張った。同時に和音ちゃんは両足の膝をくっつけて肩をぎゅうと縮めている。やっぱり寒いのか、と後は傍らにあったもう一枚の毛布を差し出して笑う。

「これも、和音ちゃんの分」
「……え?」
「今日寒いんだろ? だから」

 ――迅さんに借りた、という言葉を無意識に飲み込んだ。
 それも知らずに和音ちゃんはありがとうと言って優しく笑う。だけど片手で毛布を整えるのは難しいらしい。ふらふらと揺れる和音ちゃんの体。

「危なっかしいな。怖いはずだ」

 思わず笑ってしまうくらいで、支えるように和音ちゃんの手を引く。手を離したらそのまま落ちてしまいそうだったから。そういう、理由。おれはきっとそうやって言い訳を重ね続けている。

 ようやく整ったらしく一息ついた和音ちゃんに改めて寒くないかと聞いてみる。平気だと笑顔が返ってきたから、おれはようやく傍にある自分のココアに手をつけた。とろんとした甘ったるいそれを流し込んで息をつく。

「そういえば、空閑君は今日のランク戦どうだったの?」

 ふと、和音ちゃんからランク戦の話題が上がった。昇級したと報告すればまるで自分の事のように喜んでくれる和音ちゃん。だけどオペレーターが栞ちゃんだと言えばとても驚いていた。ボーダーの細かい仕組みはよくわからないけど兼任は珍しいらしい。玉狛第二を応援してるんだね、と優しい和音ちゃんの笑顔につられて頷く。

「あっという間に忙しくなっちゃうねぇ」
「暇よりはずっといいよ。部隊戦は楽しみだし」

 最初にオサムに誘われた時から部隊戦は楽しそうだと思っていた。それがいよいよ始まるんだと思えば忙しい方がいい。その始まりもこの屋上だったな、と星空を見上げる。

「これでチカも、目標に一歩近づくわけだ」

 そうおれが零した瞬間、ふと空気が凍ったような気配がした。何故だろうかと和音ちゃんを振り返ると、きょとんとした顔。雰囲気とその表情が何だか噛み合わなくて、おれも首を傾げる。

「チカの話、和音ちゃんは知らないか?」
「ううん。レプリカに聞いてるよ」

 だけど和音ちゃんの指先は少し強張っているような気がする。どうしてと少しは思ったけれど聞かないことにして、そうかと言って話題を切る。和音ちゃんが言わないことを、無理に聞き出したその先が少しだけ、怖いから。

 そうして訪れた沈黙の最中、ふと視界が自分の前髪でぐしゃぐしゃに埋もれる。同時に隣から驚いたような声が聞こえて視線を移して確認する。もうその時には和音ちゃんの膝の上の毛布が宙に舞っていて、少ししてから川の水面へとおちてしまった。

「ど、どうしよう」

 一応は借り物だからそのままにするわけにもいかないか。足を縁にかけて飛び込む姿勢を取ってから流れの先を睨む。するとおれが飛び込もうとしてるのがわかったのか、和音ちゃんに引きとめられた。

「ダメだよ、風邪引いちゃうよ?!」

 ――その声が何かに重なった。

 さっき手をとれなかったのは、そこにいたのが。
 あの毛布を見て嬉しそうにしてたのは持ち主が。
 そう思って辻褄があってしまうことにぞわりと背筋が逆立った。

「……おれは風邪なんて引かないよ。和音ちゃんならわかるだろ?」

 落ち着いて、今は毛布を優先しようと和音ちゃんに言い含める。そうすると和音ちゃんの手の平から僅かに力が抜けた。そこからするりと手を抜いておれは立ち上がる。

「んじゃ、行ってくる」

 ふわりと体が宙に浮く感覚も束の間、すぐに地面に引っ張られて落ちる。手早く毛布を掴んで川から上がればそこまで遠くへは来て居なかった。服とを軽く絞っていると慌てたような和音ちゃんと一緒に――迅さんが、迎えに来た。

「お前明日学校だろ。とりあえずシャワーは浴びてけよ」

 そういって持っていたバスタオルを頭から被せられる。わしゃわしゃと水気を拭き取られながら、タオル越しに二人の会話を聞く。

「遊真も無事だったし、レイジさんもすぐ車出してくれるから早く帰りな」
「は、はい」
「大丈夫。あとはおれが面倒見るから」

 タオルで埋まった視界がようやく開けたと思ったら、呆れたような迅さんの笑顔。面倒見る、が少し不満だけど面倒かけたのは事実だろうしお願いしますと返事をする。じゃあ戻ろうと迅さんの掛け声で、おれはバスタオルに包まりながらその後に続いた。

「空閑君」
「うん?」

 その道すがら、小さく和音ちゃんがおれを呼び止める。

「……ごめんね」

 それは驚くほど弱々しい、謝罪の言葉。申し訳なさそうな表情が珍しくて、おれは返事ができなかった。
 何も言えないうちに玉狛に戻ってきて、レイジさんの車に乗り込む和音ちゃんを見送る。挨拶もそこそこに、今度は迅さんに促されるままに風呂場に押し込まれてしまった。シャワーから注がれるお湯を浴びながら、脳裏を過ぎった迅さんの言葉。

 ――和音のこと、好きか?

「……じゃあ迅さんは、和音ちゃんが好きなのか」

 答える人のいないその音は風呂場に反響して静かに消えていった。

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サヨナラの引力

 

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