なんとなく、和音ちゃんはまだ帰っていないという予感があった。それは玉狛支部に戻ってきた瞬間に確信に変わる。
上だ。気配を感じたから、おれは真っ直ぐに屋上へと向かった。窓から向こうを覗けば、影だけの迅さんと和音ちゃんが見える。それなら話が終わってからにしようと、一旦は引き下がろうと思った。だけど。
――繋がれた手を見たら、おれは無意識にその重い扉を押していた。
「おう、遊真」
すぐに気づいて、おれに声をかける迅さん。笑顔すら滲ませる平然とした表情は、いつもとそう変わらない。
対する和音ちゃんは、状況が理解できないかのように呆けていた。おれが屋上に来るとは予想していなかったんだろう。その割りには感情の揺れが見えなくて、おれは少し考えてから迅さんへ視線を戻す。
「迅さんは、和音ちゃんと付き合ってるのか?」
「いいや?」
否定された言葉はホントウで、案外すんなりと受け入れられた。
うまく言えないけど二人の間にそういう雰囲気がなかったからだろう。けど、それなら。ぞわりと背筋に這い上がる得体の知れない感情が気持ち悪い。
「じゃあ、何で手つないでるの?」
まさか、何の意味もなく手を繋いでいるのだとしたら。
――だとしたらなんなんだと、急速に冷える頭。
混乱するおれをよそに、迅さんはふぅと呆れたような息をつく。
「遊真が言えることじゃないだろ」
おれに対して言っているはずなのに、視線は和音ちゃんに向いていた。追って和音ちゃんを見ればどこか表情が強張っていて、迅さんはそんな和音ちゃんから優しくマグカップを取り上げる。片付けるよ、とおやすみ、の声が小さく聞こえて、迅さんはすたすたとこちらへ来た。
何を、と思ったけどどうやら帰るつもりらしい。
身体を寄せて道を開ければ、通りすがる寸前に小さな囁き。
「誤解するなよ」
迅さんはちらりともこちらを見ずに階段を下りていく。返事を聞くつもりはないらしい。淡々と響く足音が扉の開閉音と共に消える。部屋に戻ったんだろうと気づいて、おれはいよいよ屋上へと足を踏み出した。
和音ちゃんはまだ呆然と立っていて、おれはその隣をすり抜けて縁へ座る。
少し待ってみるけど動く気配はなく、それなら用事もないだろう。おれは、本題を切り出そうと小さく息を吸う。
「……なぁ、和音ちゃんに聞いていいか」
息を呑む気配がする。そうだろうな。きっと驚かせてる。和音ちゃんは多分、無意識に避けていた話題だ。
だけどおれにとっては明確なタブーだった。
聞いてはいけない。気づかせてはいけない。気づいては、いけない。その線を越えようとしているおれは、何度目かの深呼吸の後に口を開く。
「和音ちゃんは、迅さんが好きなのか」
え、と小さく動揺したような声が漏れた。どんな顔をしているんだろうか。見る事はできず、視線を遠くへ投げる。そうして見ない代わりに、耳だけは和音ちゃんに向けて答えを待った。答えにどう返そうかと、考えているうちに小さく和音ちゃんの息を吸う音。
「……先輩としては、好きだよ。それ以上ではない」
少しだけ予想外の答えに、視線を和音ちゃんへと向ける。怯えたような、揺らいだ瞳と一瞬視線が絡んで、すぐに逸らされた。バツの悪そうに口を噤む和音ちゃんは、気づいてしまっただろうか。
どうしておれが、そんなことを聞くのか、その違和感に。
「じゃあ、誰だ?」
「え」
「誤解されたくないやつ、いるんだろ?」
深く考えられる前に質問を続ければ、和音ちゃんは困ったように俯く。言いたくて、言えないでいるのか。我慢させていたんだなぁとしみじみ思う。だけど和音ちゃんは、おれがウソを見抜けると知ってしまっている。問い詰める事は白状させることに似ていて、少しだけ罪悪感。
それでもけじめをと考えていると、いよいよ和音ちゃんは口を開く。
「……言えないって、言ったらどうする?」
どうやら想像以上に和音ちゃんは頑固だったらしい。今の状況で言えないって言う意味がわからない和音ちゃんでもないはずなのに。
それは遠まわしにいる、と断言していることと同じだ。
だけど誰かってことを言いたくないから、こうやって言葉を濁すんだろうか。
「教えてよ」
もう一度問いかける。まるで最終勧告みたいだ。ぎゅうと眉根を寄せて表情を歪める和音ちゃんは、口を引き結んだまま動かない。
どちらでもいい。教えてもらえるのならおれも気をつけることができる。
言えない理由を教えてもらえるなら、手の打ちようがある。
どっちだろうと待っていれば、和音ちゃんは蚊の鳴く様な声で呟いた。
「……聞いて、くれる?」
どうやら誰だか教えてくれるらしい。うん、と頷けば和音ちゃんの肩が震える。そんなに辛いならもっと上手にかわせばいいのになぁ、なんて人事のようだ。ウソのつけない和音ちゃんは不器用に誠実で、色々とへたくそだ。
だけど、そういう和音ちゃんが、おれは。
「……私が、誤解して欲しくない人、は」
今日で終わりだ。おれは悟られないよう小さく深呼吸。告げられるホントウが何かと身構えていると、和音ちゃんは密やかな声で相手の名前を零す。
「――空閑君、だよ」
震えた、柔らかくて優しい声がおれの名前を告げる。
どうして急に呼ばれたんだ、とバカみたいに呆けるおれ。和音ちゃんが誤解されたくないと願った相手は自分だと、そう言われていることに気づくまで、随分と時間がかかってしまった。
「……本当か?」
「う、そに、聞こえた?」
わざわざ聞かなくても、本当かどうかはわかるはずなのに。
気づいて首を横に振っても、不意をつかれたおれは未だ思考が止まったまま。佇む和音ちゃんの揺らいだ視線は伺うようにおれを見ていて、実感のない現状に呆けていると、泣きそうに顔をゆがめた和音ちゃんが呟く。
「……困らせ、ちゃったね」
自嘲気味に小さな笑顔を浮かべる和音ちゃん。違う、と言おうとしても何かが噛み合わなくて、頷くには何かが歯痒い。物足りない何かを埋めるための言葉が、今のおれには浮かんでこない。
「ごめんなさい。言わなければ、よかったね」
「……聞いて、ほしいんじゃなかったの」
「だって」
和音ちゃん、またごめんねって言うのか。どうして。
唇を噛んで何かに耐えている様子だったけど、渋々と感情が吐き出される。
「……空閑君に、迅さんが好きだって、誤解されたままは嫌だったの」
そうだろうとは、思う。初めて手を取ったあの日だって言っていた。好きな人に誤解されたら困るでしょ、と優しく諭す和音ちゃんの声。景色も鮮明に思いだせるのに、それが目の前の現状と噛み合わない。
「……和音ちゃんは、誤解がとけたら、それでいいの?」
確かに言われなければ、おれは誤解したままだったのかもしれない。それでもその為だけに、和音ちゃんに白状させてよかったのだろうか。そんな躊躇いを見透かしているかのように、和音ちゃんはおれを見つめる。
「……教えて、欲しいの」
言いたかった言葉を先取りされて、おれは口を噤む。
このままでいいのかとか、距離を置いたほうが良いのかとか。和音ちゃんの誤解されたくないって、どういう意味なんだろう。控えめに告げられた、傍にいてもいいのかというのが本音じゃないのか。
ぐちゃぐちゃなホントウとウソの最中、唐突に和音ちゃんが真っ直ぐにおれを見据える。
「空閑君の気持ちを、大切にしたいから、……選んで、欲しい」
ぞくりと、震えた。
理屈じゃない。その眼差しと声で、おれはようやく実感として受け入れる。
和音ちゃんは本当に、おれのことが好きなんだ。
どうしてこれまでずっと、気づいてこなかったのか。気づこうとしなかったのか。
「も、ちろん、選びたくないなら、それでも、いいの」
気づけば、限界が近いのか和音ちゃんの声に嗚咽が滲みはじめる。震える声をそれでも張って話を続ける和音ちゃんは、最後に一度嗚咽を飲み込むと、潤んだ眼差しをおれに向けて、言葉を落とした。
「……明日のランク戦、頑張って、ね」
応援されたのだと、理解するより先に和音ちゃんは駆け出した。反射で腕が伸びるけど、すり抜けて屋上から去って行く姿を呆然と見送る。
甘やかされているとは、思っていた。少なくとも、嫌われていないとも、思っていた。けれど、そこから先は考えないようにしていた。だって。
だって――突き詰めたら残るのは、同情じゃないか。
そこまで考えておれは、引きずられるように意識を過去に沈める。
おれが頑なに聞かないでいた、その理由の始まりへ。