一緒に踏み出す最初の一歩
 空閑君はいつも、暗闇の中にいたような気がする。
 思い出す空閑君は太陽の下で笑う顔より、月の下で優しく、柔らかく微笑む顔の方が多い。
 だから私が、目前に広がる帰り道を前にした時。そこに空閑君が佇んでいることが、夢か現実なのか区別が出来なかった。

「帰るか?」

 嫌悪感も無く、冷たさもない、耳に馴染む空閑君の声。極めつけはこの質問だ。まるで、一緒に帰ろうと言われているみたいなそれ。現実味のない気持ちのまま頷けば、空閑君はゆるりと眼差しを細める。

「じゃあ、行こう」

 そう誘われてわずかに気分が上ずったのも束の間、向けられた背中。拒絶のような後ろ姿に、血の気がすうと下りて頭が冴えてくる。
 数歩踏み出した空閑君は、だけど私の気配がないことに気づいたんだろう。足を止めてこちらを振り向いて、待つような仕草を見せた。だらりと垂れた両腕。変わらない表情。それは、痛いくらいに現実だ。

「どうした?」
「……ちょっと、びっくりしてたの」

 私の答えに納得したのかどうかはわからない。だって空閑君は何も答えないまま再び、帰らないのかと聞くのだから。やはり勘違いではなく、これは私と一緒に帰るつもりなのだ。それなのに。

「……帰ろうか」

 考えることを止めて、改めて今度は自分から誘う。再び足を踏み出した空閑君の背中を追いかけるべく、私も一歩を踏み出す。その距離はおよそ、二歩分ほど開いていた。

 そうしてしばらく無言で歩き続けた帰り道、不意に空閑君が足を止める。つられて立ち止まれば距離は縮まらないまま。空閑君は静かに振り返り、何の感動もない表情で口を開く。

「なんで、何も聞かないんだ?」

 ようやく。ここまで待って最初に出た言葉はそんな問いかけだった。無言で歩いてきた空閑君は、まさか私の言葉を待っていたのか。

「……空閑君が、何も言わなかったから」

 だけど私は、空閑君に選んで欲しいと言ったんだ。そうである以上私が先に声をかけることは出来なかった。だって空閑君が何を選んだのかわからなければ、私もどう接していいのかわからない。

「うーん、質問を変えていいか?」

 しかし、どうやら私の回答に納得がいかなかったらしい。頷いて肯定すれば、少し口をもごつかせて、改めて問い直す空閑君。

「和音ちゃんは、返事、気にならないのか?」

 思わず、奥歯を噛んで耐えた。勢い良く吸い込んだ息を、ゆっくりと吐いていく。そんな聞き方はずるいって、思わず咎めてしまいそうだった。
 だって、ずるい以外に何と言ったらいいのだろう。気にならないって言ったら、まだ教えてくれないのかな。それでも、気になると言って聞いた答えがもし……もし、嫌な答えだったら。

「……そうか。気にならないのか」

 迷ったせいで続いた沈黙は、肯定として受け取られてしまったらしい。空閑君が淡々とした声色で頷いて、背筋がヒヤリと冷える。
 ずるい、やっぱりずるいよ。
 気にならないくらいなら、選んでほしいなんて言わないよ。初めから何一つ期待していないのなら、好きだと告げて終わらせていた。そうしなかったのは、ほんの僅かでも期待を残していたかったからだ。ほんの少しでもいいから、考えて欲しいって。
 そうやって答えを引き伸ばせば、空閑君の答えが好転するかもしれないから。
 まるでそういう自分のずるさを改めて突きつけられたような気がして。私は手に力を込めて自分を奮い立たせてから、納得したらしい空閑君を呼び止める。

「……気にならないけど、気になる」

 こんな言葉で何が伝わるのか。そんなの私が知りたい。だけど今、この言葉を聞いているのは空閑君なんだ。

「……面白いな。どっちもホントだ」

 僅かに呆れを滲ませた笑顔。どうして、なんて今更だ。空閑君はいつだって、私の中の本当に気づいてくれる。そう思い出して私は一度深呼吸をしてから、本音を零す。

「……だって、拒絶されるのが答えなら、聞くのが怖い」

 ふむ、と平然と頷く空閑君の声。それだけじゃ私の返事をどう感じたのかは読み取れなかった。私はこんなにも、緊張とか恥ずかしいのとかを耐えて話をしているのに。
 少しだけ悔しくて、せめてもの意地で視線を逸らさないよう耐えていれば、唐突にぴり、と空気が張り詰める。

「じゃあさ、和音ちゃんはおれの“残り時間”のこと、気にならないの?」

 声色はさほど変わらず、顔にも笑顔が浮かんでいる。だけど違和感。見つめて、瞳が揺らいでいるのだと気づいた。伺うような、確かめるようなその視線はまるで私を試しているようだ。けれど空閑君に取り繕うことなんて出来ないのだからと、開き直って素直に答える。

「空閑君がお父さんを見たように、私もお母さんを見たんだよ」

 言えば、ぴくりと眉をひくつかせた空閑君。僅かに見開かれた目は、まるで今気づいたとでも言うようだ。情けない笑みが滲むのを自覚しながらも、私は自分の言葉で告げる。

「だから、私と空閑君の“残り時間”、どっちが長いかわからないじゃない」

 私も空閑君も知っているじゃないか。突然に未来が消える瞬間を。その時に終わる命の空しさも、それが自分の命と同じだということだって。
 確かに空閑君の残り時間が人より短いであろうことは事実だ。けど、私が普通に人生を全うできるかどうかなんて、わからないのに。またしても空閑君はなるほど、と納得したように頷くと言葉を続ける。

「じゃあ、最後にもうひとつ聞いてもいいか」

 わくわくとしたような、浮き足立った雰囲気。この場に似合わない声色に頷いて肯定すれば、空閑君はひどく綺麗な――完璧すぎる笑顔で口を開いた。

「おれを、かわいそうだと思うか?」

 浮かべている表情に似つかわしくない、可哀想という言葉。笑顔があまりに綺麗なものだから、一瞬聞き間違いかと思ったほど。あぁもしかして、と悟ると同時に問いかけへの疑問が口をついて零れる。

「空閑君は、自分を可哀想だと思ってたの?」

 目尻を下げて口角を引き上げ、綺麗なまま首を左右に振る空閑君。なんともぎこちないその表情と動きに、やっと気づいたんだ。笑顔を象っている空閑君もきっと、緊張しているかもしれないって。

「……私、空閑君がここにきて色んなことと戦ってるの、見てきたつもりだよ」

 強張る理由は、可哀想かと聞く質問に関係しているのだろうか。どちらにせよ私が答えられることは一つだけ。だから私は悩むこともなく言葉を続ける。

「そうやって生きている空閑君は、かっこいいの」

 滑らかに溢れだす感情を止めようとも思わない。それが正解なのか間違っているのかも考えられず、ただ私が思う本当を告げるべく喉を振るわせた。

「それを可哀想なんて、思えない」

 結論付けて、息をつく。どんな風に通じただろうか。
 恐る恐る空閑君の様子を伺えば、綺麗だった笑顔がくしゃりと歪んで、困ったような笑顔に変わる。

「和音ちゃんが変な奴でよかった」

 変、と言われたことに驚いて二の句が継げない。よくない答えだったのかな。それとも笑っているから、一応ほめられているんだろうか。受け取り方に迷っていると空閑君は、私に口を挟む隙を与えずそれに、と続ける。

「終わりがあるってわかってて言うのは、ちょっと勇気がいるからな」

 空閑君は、胸元まで持ちあげた自分の左手を眺める。その先は多分、人差し指の黒い指輪。もしかして自分の本当の身体のことを思っているのだろうか。そう考えて、声も出せないままでいる私に何の思い遣りもなく、空閑君は唐突に話を切り出す。

「だけど、やっぱりおれ、和音ちゃんが好きだよ」

 それはまるで、世間話の延長の様な気軽さだった。躊躇いもなく紡がれた言葉はあまりにも自然で、聞き逃してしまいそうなほど呆気ない。びっくりしながらも私は、空閑君の左手に向けていた視線をやっとの思いで持ち上げる。優しい笑顔の中で紅の瞳が、真っ直ぐに私を見据えて優しく瞬く。

「だから、おれを和音ちゃんの恋人にしてくれ」

 空閑君はそう言って左手を差し出した。まるで、はじめましての挨拶を待っているみたいなそれ。見慣れた黒い指輪が人差し指に光る、手の平。
 私達の間の距離は、変わらず二歩分開いたままだ。だから私は、鉛のように重い左腕をどうにか持ちあげて、伸ばす。

 ――二歩分の距離は、いとも簡単になくなってしまう。

「……えっと、ほ、本当に……?」
「なんだ、この手はよろしくって意味じゃないのか?」

 眉根を寄せて困ったように笑う空閑君。確かに今の私達はまるで握手しているみたいな格好で、空閑君のいうように、よろしくという挨拶にも見える。

「和音ちゃんが言ったんだろ。おれに、選べって」

 空閑君はしっかりとした一歩でこちらに歩み寄った。距離が縮むと同時に、伸ばす必要のなくなった腕が緩く下がっていく。すると空閑君はその流れに従って握っていた手の平を離した。
 腕を持ち上げている気力がなくて、だらりと垂れ下がる私の左腕。それには目もくれずに空閑君は私の右手へと触れた。指先が私の手の平を撫でて滑り、指の合間へと差し込まれる。

「選んだぞ。和音ちゃんは?」

 伺うようにこてりと首を傾げてみせる空閑君。
 選んで欲しいと言った私に見せた、空閑君の答え。

「……あの、ね」

 空閑君は、勇気がいったと言っていた。終わりがあるとわかって、それでも選んだこの手の平。
その答えに返したいものなんて一つしか見つからなくて、絡んだ指先を縋るように握って、必死に声を絞り出す。

「……ありがとう」

 言葉と一緒に胸の奥からせり上がってくる熱が、目元へと伝わっていく。次第に滲む世界の中、笑顔を象る空閑君の輪郭がぼやけてしまう。

「……おれも」

 お願い、まだ、消えないで。
 必死に耐えながら白と紅が混ざる直前、空閑君の声が鮮明に響いた。

「ありがとな、和音ちゃん」

 蜜のように甘ったるい声を聞いた私は目を閉じた。
 今ならもう繋いだ手の先に、空閑君がいるって信じられるから。

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サヨナラの引力

 

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