はじめての責任をふたりで
 例えば、本部のランク戦ロビーですれ違う時。玉狛に行く時は声かけてって言うために、私を引き止める空閑君。内緒話するような格好で、私の耳に顔を近づけて囁くように告げる必要って、あるんだろうか。

 例えば、玉狛での夕食後、私がお皿洗いを申し出た時。流しに立つ私の背中、ほんの数ミリもないくらい傍に寄り添う空閑君。暇かと聞かれるから頷けば、あっという間に身体を離してココアやマグカップを準備し始める。それならそんなに近づく必要あるかなって、聞いてしまえれば簡単なのに難しい。

 例えば屋上に着いて、運んでもらったマグカップを空閑君から受け取る瞬間。そっと指先が重なるくらいで肩が震えるくらいには、振り回されている。

「どうしたんだ? 今日は随分恥ずかしがりだな」

 残念ながら、私の変化を見逃すような空閑君ではない。しかも恥ずかしいから、という理由もわかっているようだ。だというのに黙っていてくれず、わざわざ私に言うのは少し意地悪。

「大丈夫か?」

 伺いながら、ぐいと顔を近づけてくることだって意地悪だ。目の前に現れるその顔に思わず息を止めてしまうこと数秒。見つめあってから、空閑君はくつくつと笑って離れていく。

「……なんで、空閑君は平気なの」

 さぁ、と笑顔のまま首を傾げて見せる空閑君に溜息。こんなに緊張してドキドキしてしまうのは私だけなんだろうか。一方の空閑君は、からかい甲斐があるとでも言いたげな笑顔のまま。

「大袈裟だな。何かしたわけでもないのに」

 何か、って何。ふてくされたような言葉が浮かんで、違和感。引っかかった疑問が、つるりと言葉になって滑り出る。

「何か、って、知ってるの?」

 そんな曖昧な私の言葉を聞いて、空閑君はきょとんと目を丸くした。同時に、思わず零れた疑問に自分で驚いて唇を引き結ぶ。私は何を言っているんだろう。というか、何かって、何だ?

「……して欲しい?」

 大げさに首を傾げてみせる空閑君に、こくりと喉が鳴った。妖しげに細められた眼差し。雰囲気が変わったのを肌で感じて、背筋に緊張が走る。
 どうして。空閑君は、何かって何だと思ってるんだろう。
 浮かぶ何か、が私と同じだから、こんな空気になっているんだろうか。
 空閑君は変わらず、私を見つめて返事を待っている。その眼差しに流されてしまうのが怖くて、私は声をあげた。

「あ、あのさ」
「うん?」

 途端に空閑君は雰囲気を丸くする。少しだけいつも通りに戻った気配に息を吐いた。そして、少し不安になる。私がこういうこと考えているのって、いけないことみたい。よくわからない罪悪感と恥ずかしさに口を噤んでしまうと、前触れもなく空閑君が私の手を握った。
 なんだ、と柔らかく問われてしまい、私はそれに背中を押されるように口を開く。

「……空閑君の思う恋人っていうのが、よくわからなくて」
「うん」
「一緒にいること以外にも、そういう、スキンシップのこともそうなのかな、とか」
「うん」
「そもそも空閑君は私を、そういう対象として見てるのかなって」
「そうだよ」

 相槌じゃない、唐突に私の言葉を遮って告げられた肯定。
 驚いて顔を上げると、真っ直ぐな紅い眼差しに再び妖しい色が宿っていた。
 その瞳に見据えられて、ぞわりと何かが背中を這い上がる感覚。鼓動が早くなる。何を、と聞きたいのに言葉にならなくて、はくりと口を開くけど閉じるばかりだ。そんな私を見かねたのか、空閑君はふぅと息をついてから口を開く。

「恋人って、キスとかそういうのの理由にもなるだろ?」

 それはまさに、私が考えていたことと同じ。私がぼかした行為そのものですら、ハッキリと言葉にされて呆然とする。けれど空閑君は傍目には照れもなく平然としていて、真意が読めない。
 もしかして、さっきのは私をそういう対象として見ているよ、という肯定なのか。途端、なんともいえない感覚が湧き上って、視界がふわふわと曖昧になっていく。

「おれだって付き合うことの意味くらい知ってるよ」
「だ、だって」
「おれも意外だな。和音ちゃんもそういうの興味あったんだ」

 意外、だろうか。そう言われるとやっぱり自分が変みたいだ。からかうような笑顔に、私の顔から火が出そうで。恥ずかしくてたまらない。しかし、興味が無いって言うとウソになるし、肯定するのは、それもそれで。
 どうしようかと思っていると、空閑君は相談があるんだけどと一方的に話を切り出す。

「おれは責任取れないだろ?」
「……せきにん?」
「多分最後までは一緒にいられない」

 その“最後”の意図を理解して、頷く。この話と関係があるだろうかと考えていると、だから、と続けられた言葉。

「はじめて、もらってもいいの?」

 ぶわりと、体の中心から脳みそまでが一気に熱を持つ。
 空閑君が言うはじめて、の意味に理解が追いつかない。

「は、はじめて、って」
「ファーストキスって大事なんじゃないのか?」

 体内から飛び出そうな程に心臓が跳ね回っている。目の前の空閑君の表情ですら見えないくらいに余裕がない。
 さっきの……キスって言葉ですら、心臓が縮んだというのに。ここにきて、はじめて――つまりはファーストキスと問われてしまうと、もう。私が初めてだって確信されているのも、あれだし、どうしたらいいんだ。
 とにかく私は大事か否かの問いに答えようと必死でそれだけを考える。

「だいじ、だと思うよ」
「和音ちゃんもだろ?」
「そ、りゃね」

 間違ったことは、言ってないけど。大事かどうかと問われればそりゃあ大事だろうと思う。そこに憧れがある人もいる。それは、私も多分少しは。

「責任とれないけど、そういうことしていいの?」

 続いた空閑君の一言でやっと、問いかけの意図を察した。
 そういう大切なものを、最後までいられない空閑君がもらっていいのかって聞いてるんだ。まさか、迷っていたからこれまでにそんな気配を見せながらも止めていたんだろうか。
 理解して繋がった感情にいよいよ泣きそうになる。目の奥が熱い。色んな感情がごちゃまぜになって、全部吐き出してしまいたい。それをどうにか踏みとどまって、私はその質問にずるいとわかっていて質問で返す。

「……空閑君は、したくない?」

 問うた刹那、空閑君の手の平が私の頬に触れた。反対側の頬に、ふわりとした柔らかい熱。すぐに離れていく。一瞬の出来事に私は状況が理解できなくて、目の前の紅い瞳を呆然と見つめた。
 真紅の瞳が揺らめいて、なぁ、とかけられた声に慌てて意識を引き戻す。

「おれがそれに答えたら、ずるいだろ?」

 もう、何がずるいのかわからない。
 聞いた私もずるいのか。空閑君の答えもずるいのか。
 空閑君の唇が触れたところは、火がついたように熱いまま。もう一方の頬は空閑君の手の平に包まれたままで、もっと熱い。

 ――もっともっと、触れたい。

「……私は、空閑君だから、したいよ」

 そう溢れた感情は不恰好に震えた声で言葉になった。空閑君が静かに、目瞑ってと囁くから、従って恐々と瞼を下ろす。暗闇の中で、空気が揺れる。空閑君が近づいてくるのがわかる。
 ふわり、唇に少し冷たいそれが触れた感覚。優しく押し付けられるそれは私か、空閑君か、僅かに震えていた。
 空閑君が離れていく気配に合わせて目をあければかち合う瞳。伺うように揺れる紅。そこに映る私はどんな顔をしているんだろうか。

「和音ちゃん?」

 呼ばれて、私はそっと空閑君の肩に額を寄せる。どうしようもなく、好きで、好きで仕方がない。胸の奥が、熱い。そんな気持ちが溢れると同時に、胸が酷く締め付けられて、痛い。
 何か、言いたい言葉があるはずなのに。伝えたい言葉も感情も勢いを競うように喉へとせり上がってきて、詰まる。上手に吐き出せないそれはいよいよ涙に変わって、空閑君の肩を僅かに濡らし始めた。
 それに気づいたのか、それとも違う理由か。空閑君はそっと私の腰を引き寄せて、肩に埋めた私の頭を撫でてくれる。
 触れている身体。だけど、触れられない身体。悲しいけど嬉しくて、幸せなのにもっととそれを欲しがる心。

「……後悔したか?」

 静かで、穏やかな声色。問われる言葉に私はゆるゆると首を振る。
 だけどそれだけじゃ駄目だと、私は声が震えるとわかっていても口を開いた。

「違うよ。……嬉しいの。でも、少し寂しい」

 私が泣いていることも、きっと空閑君に伝わってしまっているんだろう。その意味がどう受け取られるのか少し不安で、だから言葉にしたかった。嫌じゃないんだって。嬉しいって、きっと空閑君なら本当が伝わる。
 たとえ、この涙が溢れる理由も一緒に伝わってしまったとしても。
 腰に添えられた空閑君の手が少しだけ震えた、気がする。だけど優しい手つきで髪を撫でられ、私はその温もりに身を任せた。

「……そうか。おれもだ」

 小さな声の告白。きっとこの距離じゃなかったら、届かなかっただろう。傍にいられてよかったと思うと同時に、じんわりと痛む胸。
 私達は今日また一つ、恋人の選択をしたんだと思う。

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サヨナラの引力

 

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