きみのなまえを音にして
 意気込んで数日。結局私はまだ答えを出せずにいる。
 一緒にいられる、恋人。キスができる、恋人。傍にいられれば充分だとも思うし、何かが足りない気もする。そう追いたてられるように考えるのは、残り時間が少ないからだろうか。
 空閑君は多分、私が再び何かに悩んでいることには気づいていると思う。だけど何も言わないでいてくれるのは、待ってくれているんだろう。私がきちんと言葉で、空閑君に気持ちを伝えられるその時を。
 だから表向きには特別問題が浮上することもなく。今日も玉狛支部にて美味しい夕飯をご馳走になって満足したばかりだ。そして空閑君に送っていくと言われたので、帰り支度をしている最中の話。

「和音、ちょっといいか」

 振り返れば迅さんがいて、ちょいちょいと手招きされたので仕方なく立ち上がる。歩み寄ればぺらりと示されたのは、防衛任務のシフト表だった。頻度が減ったとはいえ、ブラックトリガーを使う以上は迅さんと一緒になるよう言われている。つまりはこの予定でシフト組むけど大丈夫か、との確認が用件だったらしい。
 一応眺めて見るけど特に問題は感じなくて、大丈夫ですと返した。それじゃあこれで申請出しとくから、と言われて了承する。さて、今度こそ。そう支度に戻る寸前、再び扉が開いて今度はレイジさんが入ってきた。用事を思い出した私は慌てて、名前を呼んで引き止める。

「先月のご飯代、林藤支部長からレイジさんに直接渡すように言われました」
「あぁそうか、受け取っておく」

 車があるからっていうのが大きな理由で、玉狛の主な買出し担当はレイジさん。私は頻繁に玉狛にお邪魔して夕飯をご馳走になっているけど、所属が本部だから経費計上が別なので、食費代を日数分払うようにしている。
 早めに渡せてよかった。そう安堵しているとするりと隣に現れた空閑君。待たせてしまったんだろう。今度こそ支度に戻ろうとすると、咎めるような視線。どうして突然、と恐々見つめかえしていると、やけにゆっくりと声をかけられた。

「なぁ、和音」
「な――」

 に、と言いそうになった言葉を思わずのみこむ。
 名前を呼ばれるだろうことは予測できて、反射で返事が出かかった。けどよく聞けば、空閑君が口にしたのはいつもの名前とは少し違ったのだ。

「え、……っと」

 いまだ、じぃっと無言で私を見つめ続ける空閑君。顔色は一切変わっていないけど、何か待っているようなそんな気配。どうしよう。今、迅さんもレイジさんもいるこの場でそれ、呼ばなきゃいけないかな。

「く、が」

 君、と言い切る前に空閑君の眉がピクリと動いた。私を見つめる瞳が次第にもの言いたげな、不満気なものに変わる。やっぱり違うよなぁと思うけど、空閑君と違って私はずっと苗字で呼んでいたのに。
 空閑君はただ“ちゃん”ってつけるのを止めればいいだけだけど、呼び慣れない下の名前に呼び方を変える私としては、違和感と恥ずかしさがものすごい。
 ちらりと見えた迅さんの表情は、もにょもにょと言葉を噛み殺しているような雰囲気。レイジさんも何事かとこちらを伺っているから、余計に言葉に詰まってしまう。

「……遊真ー。イジメるなら二人の時になー」

 最初に折れた迅さんの声に天の助け! と内心で安堵する。当の空閑君は別に苛めてはないけどと不満を漏らしてから、痺れを切らしたように私の鞄をさっと奪って肩にかけてしまった。

「じゃあ行くぞ」
「う、うん」

 とりあえず、この場から立ち去れるなら何でもいい。そう思っていると、さらりと手の平が取られてそのまま引っ張られた。迅さんもレイジさんもいるのに、と思いながらも結局それに身を任せる外ない。

 そうしてとぼとぼと帰り道をそれなりに進んだ頃。やっぱりというべきか、突然立ち止まった空閑君はくるりと振り返って再び私を見つめる。

「……和音」

 咎めるような、求めるような、そんな声色。切ないそれに急激に心拍数が上がるのを感じる。だからこそ、余計に求められている言葉がどうしても出て来ない。
 頑張れ私、大丈夫私、と一生懸命自分を鼓舞して深呼吸。
 どぐどぐと鳴る心臓の勢いで喉から押しだすように、小さくそれを口にする。

「……ゆ、う、ま君」
「だめ。やりなおし」

 折角搾り出した声は、ばっさりと切り捨てられてしまった。
 やっぱり照れる。けど、ちょっとだけ前進したことを多少は認めてくれたらしい。空閑君の顔はさっきと比べて少しだけ優しくなっていた。遊真君で駄目ってことは、つまり空閑君が私を和音と呼ぶように、名前を呼び捨てしろってことだよね。いやそれはわかってる。けど。

「……和音」

 なんで、何で空閑君はそんな平然と私の名前を呼ぶかな。それでも多分これは名前を呼ぶまできっと許してもらえない。一度だけ、大きな深呼吸。心の中で繰り返す名前。ゆ、う、ま。ゆう、ま。

「…………遊真」

 言えた、と思ってくが、……遊真を見れば満面の笑顔。

「よくできました」

 やっと合格をもらった、と思うと一気に肩の力が抜けた。はぁぁと深く息を吐いていると、何が面白いのかくつくつと笑う声。私が頑張って名前を呼んだことに満足したようで、くるりと向きを変えると平然と歩き始めてしまう。

「わ、ま、待ってよ空閑君」
「聞こえないぞ」

 笑い声が滲むのは、私をからかってるんだろう。やっぱり反射で飛び出るのは遊真じゃなくて空閑君だ。ずっと呼びなれていた名前を変えるのってなかなか難しい。

「ゆ、ゆうま」
「何だ?」

 躊躇いながらも名前を呼べば、振り返って歩調を緩めてくれたから息をつく。最初は迅さんもレイジさんもいたのに、と少しだけ咎めようと思ったのだけど、その前に浮かんだ疑問の方が気になったからく、……遊真にそれを尋ねようと口を開く。

「どうして急に、呼び方を変えようと思ったの?」

 直前までそういう二人の話をしていたわけではなかった。それどころかただ用事があって、迅さん、レイジさんと話をしていただけだ。何時も通りの笑顔で帰ろう、と言った時からあの瞬間まで、一体遊真にどんな気持ちの変化があったのだろうかと気になったのだ。問われた遊真はうーん、と自分でも思い出すような仕草をして、

 ――ふと、とても優しい笑顔を私に向ける。

「多分、ヤキモチだな」
「……へ」

 そういう割りには平然とした、というか満足気な表情をしている遊真。正直、遊真の考えとヤキモチという感情がどうにも結びつかない。一体何が遊真の心を引っかいたのかはわからなかったけど、今は満足気だからいいのだろうか。少しだけ握られた手の平にぎゅうと力がこめられる。

「恋愛って難しいな。精神修行してる気分だ」
「それ、どんな気分?」
「平静を保つ訓練って感じだな」

 修行だとか、訓練というわりには遊真は楽しそうに笑っている。遊真が楽しかったりするものって本当よくわからないなぁとその姿を見つめて。ぱちりと視線が合ったので固まっていると、遊真は一度綺麗に笑って――キスをした。

「……ゆ、う、ま?」
「はは、楽しいな、和音」
「そ、その前に、恥ずかしいんだけど、な?!」

 あぁまったく、振り回されてばっかりだ。くつくつと笑った遊真はお咎めを聞く気は無いようで、私の手を少し強引に引っ張ってそのまま帰り道を歩き始める。
 私は、こうやって遊真に引っ張られっぱなしなのかな、なんて。置いていかれないように必死でその手を握りながら私もその後を追った。

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サヨナラの引力

 

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