初授業
「それじゃあ湊川さん、よろしくお願いします」
「はい、お願いします」

 遊真くんと向かい合って座り、始まりの挨拶。何をするって、勉強です。
 一緒に勉強するにも場所がないよなぁ、と悩んだ私。さすがにいい案が浮かばなかったから、バイトが終わって店長へと引き継ぎを済ませたあと、お土産を買うついでに世間話のつもりで聞いてみたのだ。夜、勉強するのにいい場所はないかと。もちろん店長からしたら何の話かと不思議に思うわけで、遊真くんのあれこれを説明。すると店長ときたら人がいいものだから、是非ともコンビニを利用するといい、と提案してくれた。

「それで? とりあえず、聞きたいことはある?」
「この辺りがよくわからん」

 バックヤードの休憩室にて、机の上に広げられた問題集とノート。本来ならここは関係者以外立ち入り禁止なんだけど、店長の厚意で特別に勉強室として利用させてもらうこととなった。大丈夫なのかと心配になるけど、だからこそ他言無用と遊真くんにも口止めはしておいた。
 前置きはこれくらいにして、遊真くんが指さしたのは方程式の問題だ。これ、中学一年の最初の方じゃなかったかなぁ。結構最初から詰まってるとなるとなかなか不安だ。とにもかくにも遊真くんの理解度を確認しようと、順番に尋ねていく。

「じゃあまず、イコールってどういう意味かわかる?」
「同じ、だっけ?」
「そうそう。だからね……」

 方程式、イコールの右と左は同じ。そういう基本から確認しつつ、説明を加えつつ、時たま分配法則に躓きながらも粛々と方程式の解説を続ける。

「――で、つまり」
「ふむ、エックスイコール、ろく?」
「と、いうことで確認をしてみるよ」
「確認?」
「本当に六でいいのか、計算してみるの」

 さっそく最初の方程式へと戻って計算しなおし。エックスを六に置き換えた時に、方程式のイコールが成り立つか確認。

「おぉ? 同じになった!」
「だから、答えは六であってるねってこと」

 机の陰で問題集の解答を確認。よしよし合ってる。どうにか説明できたとこっそり胸を撫で下ろしていると、どうやらお客さんがいないらしく、店内から店長がバックヤードを覗いている。

「湊川さん、すごいねぇ」
「いえいえ……一応これでも大学生なので」

 とはいえ、自分で解くのとは違って教えるのは緊張する。だって、私の当たり前が相手の当たり前じゃないのだから。遊真くんが何を知っていて、何を知らなくて、何がわからないのかを探していくのって正直勉強より難しいかも。

「じゃあ次のこれ、この点はなんだ?」
「これは……」

 遊真くんが指さすのは小数点。うーん、やっぱり遊真くん数学が苦手なのかなぁ。というより、数学独特の分数・少数が苦手っぽい。さらに足し算引き算は問題なさそうだけど、掛け算割り算になると眉間に皺が寄り始めるのを見るに、これ、結構小学生レベルから怪しいんじゃないかな。とはいえ、掛け算と割り算さえある程度慣れてくれれば、分数や少数は対策のしようがある。

「……って、ことで両辺……こっち側とこっち側に十を掛けると」
「お、さっきのと似てる」
「でしょ? こうして計算しやすくしてから、さっきと同じように解いていくの」
「なるほど」

 思っていたより意欲的な遊真くんは、今度は自分で黙々とノートにペンを走らせはじめた。掛け算や割り算はノートの隅に別途計算式を書き込みつつ、導かれた答えを元に自分でも確かめ算へと取り組んで。

「……合わない」
「えーっと?」

 答えが間違っていたことにガッカリしたのだろう。声を落とした遊真くんを前に、私はとりあえずノートを覗き込む。遊真くんは思いのほか努力家なようで、丁寧に途中式を書いてくれてあるから私としても展開がわかりやすい。

「ここだね」
「うむ?」

 指さしてみても首を傾げる遊真くん。さすがにまだ覚えたての移項の注意点は身についていなかったらしい。符号が逆になってないよ、と言えばさらに首をひねったので、改めて解説を挟みながら間違いを正していく。

「……と、いうわけで」
「ふむふむ」

 説明を繰り返していくと、遊真くんはさらに正負の数も苦手な様子。まぁ、確かにマイナスって概念難しいよなぁ。ある程度慣れてくるとそういうもんか、って思ってしまうんだけど、いきなりマイナスがどうのこうの言われてもさっぱりだもんね。特にマイナスが絡む掛け算割り算なんて、そういうもの、としか私には言いようがない。

「ここをこう直すと、続きは?」
「……やってみる」

 改めてノートに向かう遊真くん。うん、素直でよろしい。……というかホント、こういう姿を見るほどに最初の非行少年のイメージが崩れていくなぁ。まぁ、この時間にこうしてコンビニにいるのはどうかと思わなくはないけど。とはいえやってることは真面目な勉強だし。

「……ううむ、今度はこれが答えか……」

 ぼそりと呟いて確かめ算を始めた遊真くんの姿を改めて眺める。こんな時間まで出歩いていても、家の人は何も言わないのだろうか。迅さんとか優しそうな人だったし、あんまりうるさくないのかな。家庭事情も絡んでくるかもしれないと思うと、あまり深入りはできないけど。

「お、できた」
「ほんと?」

 差し出されたノートを受け取って、手元の解答集と見比べれば確かに正解。私はせっかくだし、と赤ペンを取り出して大きな丸を書く。

「よくできました」
「うむ。ありがとう」

 正解、ってやっぱり嬉しいよね。素直な遊真くんは満面の笑顔でそうお礼を言うので、私も笑顔でどういたしまして、と返す。
 そんな私たちのやり取りを見ていたのだろうか。店長がおもむろにバックヤードへと入ってきて、机にコトリと温かいペットボトルを二本置いてくれる。

「どうぞ」
「おぉ、テンチョーさんありがとう」
「いいんですか?」
「もちろんだよ」

 ラッキー、とありがたく頂戴することに。遊真くんと一つずつ選んで、さっそく蓋をパキリと回し開けて。一口飲んでみれば少し熱いくらい。そんな熱が身体に染みていく感覚がして、思わずほぅとため息がこぼれる。

「悪いな。仕事の後で疲れてるのに」

 たったそれだけのことなのに、遊真くんはそう私を気遣ってみせた。まさか、ため息をついただけで心配させてしまうとは何たる失態。予想外の反応に、私はあわてて首を振る。

「ち、違うよ!? 温かいなぁ、ってしみじみしただけで、別にそんなつもりじゃなくて」
「……そうか」

 それならいい、と遊真くんはついと視線を手元のペットボトルへと戻し、また一口こくりと煽る。
 なんか、そう。遊真くんって素直なんだよなぁ。言われたことを鵜呑みにする、っていうと言葉は悪いかもしれないけれど。とにかく、あんまり人を疑わないというか、相手の言うことをそのまま受け取るというか、そんな感じ。気遣ったわりに、そういう意味じゃないという私の言葉をそのまま受け取るあたり、素直、としか表現できないのだけど。

「なぁ、湊川さんは寝なくても平気なのか?」

 ふと、遊真くんによって話題が変えられる。平気、と言い切ると誤解を招くけど、困るってほどでもないのが現状だ。

「私はもう春休みに入ってるんだ。だから学校もないし寝坊しても大丈夫ってわけ」

 ほぅ、と遊真くんの目が輝いたように見えたのは、たぶん気のせいじゃない。

「つまり湊川さんも暇ってことか」
「……言われるのは癪だけど否定はできないなぁ〜」
「じゃあ、今日も帰り、散歩して帰ろう」

 え、と言いつつ時刻を確認。うん、まだ十時二十分くらい。

「……大体十一時くらいまでは勉強してもらおうと思ってたんだけど」
「うん。そのあと」
「そのあと散歩なんてしてたら遊真くんが家に着くころには日付変わっちゃわない!?」
「ダメか」
「ダメです!」

 考えるまでもなく断れば、それなら仕方ないと遊真くんは素直に引き下がった。違和感を覚えたのはたぶん、思っていた返事と違ったから。
 だってこれまで夜道の心配をした暁には毎回いかにもお節介だと疎ましく思われていたような記憶しかない。勝手な想像ではあるけれど、余計なお世話だとか、人のことより自分の心配をしろだとか、大体そんな感じの。

「……遊真くん、どうしたの?」
「うん?」
「こう、お節介だとか心配性だとか言われると思った」

 だからこそ、心配を普通に受け入れられて若干戸惑っていると――なぜか遊真くんは、とっても優しい笑顔を見せる。

「湊川さんがお人好しっていうのはわかったから」
「う、うん?」
「ちょっと慣れた」

 ……それは、いいのか悪いのか。お人好しっていう評価も自分ではしっくりこないけど、私が心配したりするのを素直に受け取ってもらえるのなら結果オーライ、かな。それなら私も少しは譲歩しようと考えつつ。

「……今日は、基本を一緒に勉強したら宿題を出します」
「おぉ、学校みたいだ」
「次回答え合わせをしてみて、その出来栄えによっては勉強を早めに切り上げて散歩の時間にしてもいいです」

 自分としてはかなり譲歩したつもり。一人では勉強できないからこうして一緒に勉強しているのだけど、学んだことを身につけるにはある程度自力で悩みつつ反復練習をこなすことも必要だし。だからと宿題を提案してみたのだけど、嫌がるかと思いきや遊真くんはやっぱり優しい笑顔を見せて。

「ほら、やっぱりお人好しだ」

 どうして、なんで、そんな風に笑うんだろうか。
 年下の男の子にちょっとドギマギしたなんて悔しいなぁと内心で頭を抱えながらも気持ちを切り替える。私は遊真くんを急かして、勉強の続きへと戻ることにしたのだった。

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